第3話 異動 3
「「「ゼロ災でいこう!ヨシ!」」」
部屋の外からゼロ災唱和の声が微かに聞こえてきた。ちょうど真下がうちの部署の作業場だから、そこからのものだろうか。それとも、俺が今いる場所と同じ階にある別の部署からのものだろうか。知った声があるような、ないような。
考えようとして、すぐにやめた。今はそんなことどうでもよかった。
ちらりと右隣を盗み見る。
「……」
「……」
手前に林田さん、奥に遠山職長が緊張した面持ちで正面を向いて座っている。二人の視線の先には、楕円形の机を隔てて、腕を組みどっしりと構えた影野GMがいた。影野GMは椅子の背もたれに体重を預けてなにかを考えているように、黒縁の眼鏡の奥で目をつぶっていた。スキンヘッドで背が高く、おまけに体格がいいせいか威圧感があり、ヤクザの親分と対面しているかのような気分だった。
事の発端は林田さんと飲みに行った翌週の月曜日。夜勤週だった俺が出社し連絡帳を見ると、俺宛に短い連絡文が書かれていた。『今日、定時後残っていてください』。宛名は遠山職長だった。詳しく書けないなにか重要な話があるときの言い回し且つ、土曜日の一件ですぐにピンときた俺は、定時を過ぎて作業者が帰った後も、ざわつく心中を押さえて近々ある発表会の資料を作りながらパソコンに向き合っていた。
今月中には決断を出すとは聞いていたけど、まさかこんなにも早いとは。きっと林田さんの抗議が効いたのだろう。
やがて昼勤の直の人たちが続々と現れ、林田さんと遠山職長も出社してきた。責任者がそろい踏みしたところでさっそく話があるかと思いきや、挨拶もそこそこに、遠山職長は「これからすぐM202会議室ね」と言って、メモ帳を手に取った。
そして、今にいたる。
「影野さん。そろそろ……」
何時間も続きそうな沈黙を破るように、会議室に遠山職長の控えめな声がやけに大きく響く。
それを合図に、すっと影野GMの目が開かれた。二つの目玉がぎょろりと俺を見て、それからすぐ隣の林田さんへと移る。
二人同時にごくりと息を飲んだ。
影野GMは、見た目とは裏腹に優しい声で語りかけるように言った。
「九条君。異動の件は聞いてるね?」
影野GMの目は、俺に向けられて固定された。ぞわりと嫌な予感が背中を撫でる。
「はい」
「私は君にお願いしたいんだけど、どうかな?」
告げられた言葉を耳にして、俺は呼吸を止めた。夜勤の疲れと眠気が一気に消し飛ぶ。無重力に投げ出されたような感覚に陥り、身体が激しく揺さぶられたような気がした。
「ちょっと影野さん!林田君の意見を尊重して彼に任せようと昨日話し合ったばかりじゃないですか!」
何も言えないでいる俺の代わりに、遠山職長が立ち上がらんばかりに抗議する。
「ですから、俺が行きますって。それでいいでしょう」
どうやら昨日林田さんが抗議に行ったときと言い分が食い違っているようだった。林田さんも怒り気味に加勢する。
しかし、影野GMは、
「俺が聞きたいのは九条君の返答だ。二人は口を出さないでくれるか」
と重圧のある声で制し、息巻く二人を黙らせた。
再び静まりかえる室内。階下からフォークリフトの、「バックします、ご注意ください」の声が場違いに聞こえてくる。反射的に仕事が始まったと思うと、影野GMが真剣な表情で身体ごと俺を向く。
「で、どうかな?」
「……どうって言われましても」
視線から逃れるように目線を右下にもっていって俯きながら、目を瞬かせる。全く予想していなかったわけではないが、結局は林田さんになるだろうと油断していたため、言葉に詰まってしまう。
「今すぐ決断しないといけませんか」
「そうしてくれると嬉しいね」
先延ばしはNGらしい。どの口が、と林田さんが小声で呟くのが聞こえた。俺も同意見だった。おそらく遠山職長も同じように思っていることだろう。こんなややこしいことになっている原因が自分にあるだなんて夢にも思っていない口ぶりだ。
「自分である理由を、聞いてもいいですか?」
カラカラに乾いている喉から絞り出すように問う。林田さんが心配そうに俺を見ているのが目の端に移った。
影野GMは、先週遠山職長から聞いた内容をそのまま説明しだした。「田辺が辞めて、林田君が抜けると戦力が落ちるから、林田くんには残ってもらいたい。代わりに九条君に行ってほしい」と。
「急な話で悪いとは思うけど、九条君なら分社に行っても大丈夫だって信頼して頼んでいるんだよ」
優し気な表情で聞こえのいい言葉を発しているが、薄っぺらさを感じた。本当に信頼しているのなら、俺が本社に残っても問題はないはず。影野GMが信頼しているのは、林田さんだけなのだ。
無性に腹が立ってくる。お断りしますと席を立って、すぐにでも家に帰りたかった。でもそれは、社会人として取るべきではない行動であることを理解していた。
イライラを無理やり抑えたことで頭痛をもよおし、悩むふりをして左のこめかみを人差し指でぐりぐりとマッサージをする。
この場でなら時間を掛けてもいいだろう。どうしたものかと、ただでさえ疲れ切った脳で考える。
もしここで断ったとする。影野GMは間違いなく理由を尋ねてくるだろう。悔しいことに、俺はそこで答えることができる異動を断る明確な理由をもってはいなかった。生まれ育ったこの街に愛着があるわけでもないし、本社に固執しているわけでもない。もういい歳だし実家を離れることにも別にどうとも思っていなかった。ただ、行きたくない。それだけだった。環境ががらりと変化してしまうことへの恐怖心。部署の立ち上げへの不安。仕事が忙しくなるにしても、慣れ親しんだ場所で、頼れる人がいるところで過ごしていたかった。
要は環境の変化を恐れて現状に甘んじようとしているわけで、それでは仕方ない、と影野GMが絶対に言わないことはわかっていた。速攻で言い負かされて、頷かざるを得なくなることだろう。
断固とした姿勢で臨めば、あるいは向こうが折れるかもしれないが、その場合の代償として、影野GMから異動を断った奴として烙印を押されることを覚悟しなくてはならない。部署内での最終決定権を持つ人間に不の印象を与えることは、今後の仕事、並びに昇進に支障が出る。遠山職長にしたって、先ほどの口ぶりからすると俺を本社に残す側に回ってくれているみたいだが、少なからず悪い印象を与えることにはなる。俺の知らないところで愚痴る姿が目に浮かぶようだった。
何より、問題なのは林田さんだ。当たり前の話だが、俺が異動を蹴れば林田さんが行くことになる。もともと林田さんで決まりかけていた案件とはいえ、仕事でもプライベートでもお世話になった相手に対して、貧乏くじを押し付けるような行いは忍びなかった。それに、俺に決まれば林田さんは彼女と離れ離れにならなくて済むのだ。色恋沙汰には滅法縁のない人生を送ってきただけに、俺はその一点を過剰に気にしていた。俺が行くことで、二人の仲が取り持てるのなら、それでもいいかと思えてしまう。
俺には離れ離れになって困る恋人などいないのだから。
いろいろな考えがせめぎ合う。嫌なのは依然変わりなかった。だが、後々責められる可能性の回避、先輩への恩返し、上司の思惑。異動を受け入れれば、それら全てが叶うことになる。残った場合と異動になった場合を天秤にかけても、罪悪感に苛まれなくて済む分、従っておいた方がマシに思えた。
考える。考える。考えて、顔を上げる。行くも地獄、残るも地獄だった。だとすればどちらがましかの選択だった。
『三年、三年我慢すればいいのだ』
結論を、出す。口を動かそうとする。
その時、ふと御小柴さんの顔が脳裏をよぎった。
最近できた友達。彼女は離れて困る人に含まれないのか。行きたくない理由には入らないのか。行けば会えなくなるのに、それでもいいのか。
俺は決めかけた決断に一瞬躊躇した。
いや、御小柴さんとの関係はあくまで友達であって、付き合っているわけではない。遠距離恋愛の相手と違って、しばらく会わなくても関係が壊れるようなことはない。俺以外に友達がいない彼女を一人にするのは心配だし、食事をしたり、遊びに行ったりすることがしばらくできなくなるのは悲しいが、メールや電話をすれば、最低でも御子柴さんと会話はできる。それさえできれば、いつまでも友達でいられる。
そう、俺と彼女は恋人じゃない。
『友達』なんだから。
「……わかりました」
俺が出した決断に影野GMはにんまりと笑い、林田さんが驚愕の表所を浮かべた。
「ちょっと、いいの!?急がなくてもいいから、もっとよく考えないとだめだよ!」
「考えました。不安はありますけど、まあ、何とかなりますよ」
林田さんを見て無理やり笑う。その奥で、遠山職長がばつの悪そうな顔で深く息を吐いているのが見えた。
「それでも……」
「そうか。いや、ありがとう。なに、心配することはないよ。異動までの日数は限られているけれど、作業から抜けて、分社のことに専念すればどうとでもなる。あっちには頼れるGMが配属されるから大いに頼ればいいし、対処できなければ本社に電話してこればいいのだから」
林田さんの言葉を遮って、影野GMが俺の気が変わってしまわないようにまくし立てた。
「いやーよかったよかった。断られたらどうしようかとひやひやしたよ」
影野GMが、はっはっはと愉快そうに笑う。
もしかしたら、影野GMが長々と決断を先延ばしにしていたのは、林田さんを手元に残しておく機会をうかがっていたのかもしれない。たまたま田辺が辞めると言い出したからそれに関連付けただけで、理由さえあれば何でもよかったのかもしれない。ふと、そう思った。
それでも俺は、最善の選択をしたつもりだった。会社にとってはもちろんのこと、林田さんにとっても。そして俺自身にとっても。
ただ一人、御子柴さんを除いて。
今はただ、御子柴さんが大事ととらえないでくれることを願うばかりだった。
ごめん御子柴さん。心の中で謝った。
近いうちに、本人にも伝えなくてはならない。そう思うと、途端に御子柴さんに会いたくなくなってきてしまった。
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