第3話 異動 2
『今度の土曜日も飲み会をやりませんか?』
『ごめん、その日は珍しく予定があって……』
『そうですかー……残念です』
『来週は空けられるようにしておくよ』
『わかりました!では、また連絡します!』
『ごめんね。おやすみ』
二日前に交わした御小柴さんとのメールのやり取りを見て、ため息をつく。
御小柴さんの誘いを断ったのは、これが初めてだった。連絡が来る前に別の誘いが入って、先に予定が埋まってしまったのだ。定型化しつつあった行事だっただけに、罪悪感がぬぐえない。来週は絶対埋め合わせをするから、と携帯の待ち受け画面に映る御子柴さんに向かって謝った。
「おおー、お疲れ!早いなあ」
ふすまが空き、待ち人の林田さんが店員に連れられてひょっこり顔を出した。
「どうも、お疲れ様です」
軽く会釈し携帯をポケットにしまう。
林田さんは早々と靴を脱いで俺の向かいに座り、羽織っていた黒のジャケットを脱ぎながら店員に、「生一つ」と注文した。俺も、ジンジャエールを頼む。
「悪いね、急に飲み会やろうだなんて誘っちゃって」
「いえ、俺もゆっくり話したかったのでむしろ良かったです。会社で大っぴらに話せない内容ですし、電話だと長くなっちゃいますからね」
「そうなんだよ。めんどくさいことになっちゃったよな」
しかめっ面で煙草を取り出して、火をつける。俺の席側にあった灰皿を渡すと、林田さんは短く礼を言って受け取った。
今日の飲み会は、異動の話があった翌日に、林田さんから提案されたものだった。
『九条君、土曜日飲み会やるぞ飲み会』
夜勤で長時間居残りさせられて、俺がされたものと同じ話を聞かされた林田さんは、目を充血させながら怒りをあらわにし、有無を言わさずそう告げてきた。俺も林田さんとゆっくり話がしたかったので、御子柴さんとの飲み会があるかもしれないと考える間もなく即答で了承した。それぐらい、今回の件は重大な問題だった。
運ばれてきた飲み物で乾杯をしたのち、さっそく俺は切り出した。
「どう思います?今回の件」
林田さんは口元から離したジョッキを強く机に置いた。
「そりゃあ最悪だよ。こっちはほぼ確定だっていうからその気でいたし、準備も進めていたのにさ、今になって残ってもらうかもって、ふざけんなって感じだよ」
のっけからボルテージ上昇気味だった。頼んで間もないジョッキの中が、すでに半分を下回っていた。
「本社が手薄になるのはわかるよ?わかるけどさ、たとえ苦しくなるんだとしても、『俺もフォローするから頑張ろう』くらい言えないもんかね」
「影野GMが絶対言わなそうなセリフですね」
「今月中には決断させるとか言ってたけど、それも疑わしいんだよね。俺なんか来週には、来月にはって言われ続けて、気付けば異動3か月前だよ。もう、ほんといい加減にしてほしい」
残りのビールをグビグビ飲んでまくしたてる。少し前の俺だったら、まあまあとなだめていたところだが、他人ごとではなくなったせいで、危機感が募る。
「今月にしても、早めじゃないといろいろきついですよね。特に俺なんか何にも準備してないですし」
「そうだよな。ていうか、今日のメインは俺じゃなくて九条君のことだった。遠山職長の口ぶりからすると断ってないみたいだけど、どうして?まさか行きたいの?」
俺は枝豆に伸ばした手を引っ込めて、頭を掻いた。
「そりゃ、行きたくないですよ。でもその場で、俺絶対嫌ですから!とは主張できなくて、心構えしときますって答えたんです」
林田さんは、呆れ気味に、あー、と唸った。
「だめだよ。そこははっきり断んなきゃ」
「陰で意欲のない奴だと罵られて評価が落ちるのを恐れて、とっさに出ちゃいました」
「そんなことだろうなと思った。遠山職長ならありうるもんな」
「林田さんもそうでした?」
「なくはない。班長が嫌だって駄々こねたなんて広められたらメンツが立たないしね」
そう。上司としてのプライドもある。部下に情けない姿を見せたくないのも、即答できなかった理由の一つだった。こういう時、作業者であればこんな気苦労もせずに済んだのではないかと考えてしまう。上司のご機嫌取りも、気遣いも、部下への配慮も、異動の心配もしなくていいのはうらやましい。
「九条君は班長になって2年目だっけ。経験もまだ浅いもんな。つーかどこの部署に2年目班長を分社立ち上げのメンバーに入れるところがあるんだって話だよ。どこの部署もベテラン勢ばっかだってのに」
「やり手のGMが付くから大丈夫だそうですよ」
いやみったらしく俺は言った。
「林田さん知ってます?その人」
「いや。別の親会社の人だとは聞いてるけど、どんな人かは知らない」
林田さんが知っていて太鼓判押してくれるようなら安堵で来たのだが、知らないとなると不安の種は取り除けない。遠山職長も知らない風だったし、判断材料が影野GMだけなのが余計に不安を煽った。
「まー、たとえできる人であっても、過度な期待はするもんじゃないよな。本社の実態を知ってるわけじゃないから、主になって動いていくのは結局俺ないし九条君になるなわけだし」
「そうなりますよね。それをわかってて、影野GMは大丈夫と言ってるんですかね」
「わかってないでしょ。わかってたら変えようとなんてするわけがない」
俺も同感だった。
「遠山職長や林田さんが付くって言うなら、俺もまだ受け入れられたかもしれないんですけどね」
「少数精鋭の厳しいところだよ。二人三人抜けても変わりがいるところと違って、うちは一人抜けるだけでもカツカツだからね」
基本班長は直一人なのだが、大所帯の部署だと一人では管理が行き届かないからか、あるいは責任者の枠が少なすぎて作業者の昇格が一向にできない環境が懸念されてか、複数人班長がいたりする。多いところでは一つの直に三人も班長がいる部署もあった。そういうところは今回のように分社に人員を割かなくてはならなくなったとき、平気な顔で班長クラスの人間を数人提供できる。それに比べてうちの部署は両直に班長一人。作業者も各作業工程に一人ずつと、作業補助兼有休取得時のリリーフが一名いるだけで余力はない。だから、分社へ異動となる人数も、最低人数の一人とならざるを得なかった。その上面識のないGMがパートナーとなれば、心細いことこの上ない。
「ちなみに、向こう行ってまず何をするんですか」
俺はもしものことを考えて一応聞いておいた方がいいかと尋ねてみる。林田さんは、そうだなあ、と煙草を灰皿に押し付けた。
「しょっぱなは作業ができる環境を作っていくことかな。必要な機材や道具を発注したり、あちこちに貼る表示類を作ったり。結構俺たちが日常的にやってることが多いよ。経験してないので言えばフォークリフトとか、構内車両とか、あとパソコン系の発注があるけど、それ系の面倒なことはこっちで事前に手配していくことになっているから、もう済んじゃってる。だから向こうに行っていきなり戸惑うようなことはないと思うよ」
少し安心した。やったことのあるものであれば最悪俺でもやっていける。
しかしほっとしたのも束の間、林田さんは「でも」と続けた。
「新しく導入したシステムとか、機械を正常に動くようにしていくのは骨が折れると思うよ。今の部署にある設備って、俺たちが入社したときにはすでに使える状態だったわけじゃん。それを一から使えるようにしていくわけだから、滅茶苦茶苦労するんじゃないかな」
「あー……そうか」
異動した時には会社はまっさらな状態なわけで、それを生産可能、もっと言えば本社と同じレベルまでもっていかなければならない。普段何気なく使っている機械も、システムが組まれたパソコンも全てだ。部署にある手間のかかりそうなものを一つ一つ頭に浮かべては、げんなりしてしまう。
「つっても業者や事務所の人がある程度介入してくれるはずだから、わからなければその人たちが教えてくれるよ。物だけ運ばれてきてあとよろしく、とはならないさ」
林田さんは軽い口調で言った。
「そう……ですよね。何も、機材の設置から完了まで全部自分一人でやるわけじゃないんですもんね」
自分に言い聞かせるように呟く。ジンジャエールに伸ばす手が、かすかに震えていた。
「そうそう。エアコンの取り付けとかと同じで、ぶっちゃけ立ち合い程度だよ。俺たちがやることなんて。ことわざでもあるじゃん。ほら、何とかは何とかって」
あまりにも曖昧過ぎることわざだった。
「餅は餅屋って言いたいんですか」
「それそれ。専門的なことは全部プロに任せて、こっちは正常に動くかどうかを確かめてればいいんだって」
あっけらかんと林田さんは言う。楽観的でいられるのは、たとえ不測の事態に陥っても解決できる技量を持っているからだろう。それがない俺には気休め程度にしかならなかった。
「もし何かあったときはよろしくお願いします。電話しますんで」
今のうちに保険を掛けておくことにする。
「そりゃ、その時は全力で助けるけど、まだ決まったわけじゃないんだし、頭を下げんのはよしてよ」
確かに、とすでに決まってしまった後のような心情を取り払って頭を上げる。林田さんは面白いものを見るような目で俺を見ながら、刺身を醤油に潜らせた。
「その前に、九条君にはならないから、安心していいよ」
「え、どういうことですか?」
いぶかしんで首を前に出すと、林田さんが刺身を口に放り込んだ。
「来週月曜に、影野GMのとこに直談判しに行くから。俺が行くから馬鹿なこと言ってんなって抗議して来る」
「ええ!?なんでですか!」
「これで九条君になったりしたら、俺達だけじゃなくて皆も混乱するじゃん。それこそ部署がガタガタになる。そうならないためにも、分社のことは俺ってことでさっさと終わらせて、来年に向けてのことを考えていくべきなんだよ」
確かに、事は責任者だけの問題ではない。一見作業者は関係ないようだが、作業者たちだって来年林田さんがいないことを前提にしているから、本社での長期的になりそうな問題点の改善要求などは俺に回してくるようにする流れができていた。入れ替われば俺に頼んだ案件はどうなるのかと不安がる人も出てくるだろう。班長の後任にしたって、林田さんの代わりとして教育を受けているのに、行くのが俺となれば引継ぎ内容が変わって戸惑うことになる。
林田さんの異議申し立て宣言は、部署としても俺としてもありがたい援護射撃のはずだった。しかし、俺は素直に賛同できなかった。
「でも、良いんですか?林田さんからすればチャンスですよね」
「チャンスって何が」
「いや、だって林田さんも行きたくて行くわけじゃないんですし、俺になれば異動が免れるんですよ?それに、彼女と遠距離恋愛しなくてもよくなるわけですし……」
交代は俺にとってはデメリットだらけだが、林田さんにはむしろメリットが多かった。抗議することは、せっかくの降って湧いたチャンスをむざむざ不意にすることと同義だった。
疑問をもつ俺に、林田さんは、心外だなあと目を細めた。
「後輩が代わりに行くことになるかもしれないのに喜ぶわけないじゃん。俺極悪非道かよ」
「そんなつもりはないですけど、普通喜んでもおかしくない状況ではないかなと」
「どっちもとっくに覚悟が決まってる。だからいいんだよ」
きっぱりと言い切る。強がりは感じられず、本当に受け入れているのだということが伝わってきた。それが諦めから来るものなのか、前向きに考えているからなのかはわからなかったが、林田さんは異動が自分じゃなくなればいいのにとは思っていないようだった。潔いと感心すると同時に、変に勘ぐってしまった自分を恥じる。
「その代わり、異動後は九条君を全力で頼るから、覚悟しといてよ」
「それはもう。いくらでも力になりますよ」
恥を払拭するように力強く頷くと、林田さんは灰皿に灰を落としながらニッと笑った。その笑顔に、俺はこの一週間、遠山職長のフォローをものともせず常に頭を支配していた不安が、少しだけ取り払われたのを感じた。申し訳ないが、今回は林田さんに任せることにしよう。いや、今回もか。入社して以来、林田さんには頼りっぱなしだった。
考えてみれば、俺が異動になるにしろ林田さんが異動になるにしろ、こうやって気軽に飲み会を開くことはできなくなるんだ。異動がどちらになるとしても、今年中にもう一度二人で飲み会をやりたいと思った。
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