第3話 異動 1
「ゼロ災でいこう!ヨシ!!」
「「「「「「ゼロ災でいこう!ヨシ!」」」」」」
作業場におなじみの声が響き、作業者が散っていく。見慣れた光景だったが、少し前まで暑い暑いと半袖で作業をしていた人たちが、ちらほらと長袖の作業着を着だしてきていた。かく言う俺も、今日から長袖を着ていた。久しぶりだけあって長袖は重たく感じて、肌触りや機能性がまだしっくりと身体になじんでいない。特に袖の部分が邪魔で仕方なく、とりあえず、前腕の中間まで折り返しておくことにする。
先週までの夏の気候が、今週に入って突然スイッチを切り替えたように秋の気候へと移り変わった。夏が好きではない俺にとって、これはちょっとした感動ものだった。今朝は暑さに起こされることなく、目覚められたし、駅に向かうまでの道でも、快晴ながら汗ばむことがなかった。九月に入って数日過ぎて、まさか九月中もこの暑さに悩まされるのかと心配していたが、ちゃんと秋はすぐそこまできていたようだ。これから冬になるまでの束の間は過ごしやすい季節が続く。仕事にも一層身が入りそうだった。
気合一発背伸びをすると、ポケットの中の携帯が震えた。確認すると、御小柴さんからのメールだった。
『おはようございます。今朝は涼しいですね。そのせいか、顔を洗おうと浴室に行ったらヤモリがいました。どこから入ったんでしょう。結構かわいい』
携帯に表示された文章と、添付されていたタイル壁にへばりついているヤモリの画像を見て、感想よりも先にあれ?と不思議に思った。もう8時半だというのに、何で悠長にこんなメールなんて打っているのだろう。いつもならとっくに出社している時間のはずなのだけど。
ああ、そうか今日は会社の創立記念日で休みだとか一昨日言っていたっけ。うちの会社にはそんなのないから、なじみがなくてすっかり忘れていた。
いいなあ、うちでも採用してくれないかなあ。疑問が消え去ったところで、返信を返すことにした。
『おはよう。秋って感じだね。ヤモリはどこからだろう。換気扇とか?害はないしせっかくだから飼ってみるのもいいかもね。これから仕事だから、次の返信は休憩時間になるよ』
手早く打ち込み、送信。一応仕事であることも付け加えておく。仕事の時間にメールを送ってくることはなかったから、もしかしたら休日だと思い込んでいるのかもしれなかった。次当たり、『すいません。勘違いしてました』と返信が来たりして。
それにしても、とホーム画面に戻る。そこに写るのは、水族館に行ったときに撮った御子柴さんとカピバラのツーショット写真。あれから家に帰って即待ち受けに設定したが、何度見ても面白い。そして飽きが来なかった。しかもこの画像、見るだけで一日分の元気が湧いてくるおまけ付きだ。栄養剤の類は金輪際必要ないのではなかろうかと思えるほどに、この画像には癒しパワーが満ちていた。先週の夜勤はそのおかげもあって、一切の苦を感じなかった。今後新たな作品に出合わない限りは、この待ち受けを変えることはないだろう。それくらい、お気に入りだった。
御子柴さんが知ったら絶対怒りそうだけど、見せなければどうということはない。
今日も元気頂きました、と携帯をスリープにする。
「九条君、ちょっといいかな」
背後から遠山職長に声を掛けられ、ドキリとする。そういえば就業時間中だったこと思い出す。振り返ると遠山職長が手招きしていて、俺は慌てて携帯をしまって駆け寄った。
「すいません。どうかしました?」
「あー、ここだとちょっと話辛いから、外でいい?」
遠山職長が難しい顔で言う。携帯をいじっていた後ろめたさから、良いですよ!と無駄に快い返事をすると、遠山職長が歩き出したので、それに従った。
外に出て、田辺と話したときに使ったベンチに二人で腰を下ろす。なんだかデジャブを感じた。そこで俺は、ああ、土曜日に林田さんが言っていたやつか、と合点がいった。やはり何かあったのだろう。わざわざ外で、しかも朝一に話すということは、他に聞かれたくはないが責任者には話しておかなければならないことがあった証拠だ。これは林田さんに伝えるためにちゃんと聞いておかなければならないと、俺は無駄に意気込んだ。
工場内より日が照っている分、外は暖かかった。雲一つない秋晴れの下、帰宅していく社員が横目で、ベンチに並ぶ俺達を見ていきながら通り過ぎていった。遠山職長はなかなか話を切り出さないので、俺は気を利かせたつもりで、何かあったんですかと、質問してみた。
「ごめん。本当に九条君には申し訳ないんだけど……」
遠山職長はなぜか俺に対して謝った。
「ええ、なんですかいきなり」
思いがけない出だしになんの事だかわからず戸惑う。俺に関係すること?田辺のことじゃないのか。離れた所で、数羽のハクセキレイが俺の心境を表すようにせわしなく走り回っていた。
「先週の金曜日、影野GMと田辺のことで色々話し合ってたんだけどね」
「あ、なんだ。やっぱり田辺のことでしたか。林田さんにそれっぽいことは聞いてます」
「そうだったんだ。それでね。その中でGMが突飛なことを言い出してね。……これ、まだ確定でもなんでもない話だから、気に病まないで欲しいのと、一切の他言無用でお願いしたいんだけど……」
あまりに深刻な顔をするので、俺は思わずごくりと唾を飲んだ。忠告からして、俺にとっていい話ではないことがわかった。田辺の時とは違う不穏な空気を感じて、俺は表情を引き締めた。
遠山職長は、俺から少しだけ目を逸らしながら、言った。
「分社への異動、林田君じゃなくて九条君になるかもしれない」
「……え」
予想だにしなかった言葉に、金縛りにあったように、俺の身体は硬直した。耳の奥でキーンと耳鳴りがして、顔がこわばり、徐々に動悸が激しくなる。そのまま気を失ってしまうのではと思うほど、目の前が真っ白になった。
「まだ、確定じゃないよ!案が出たってだけだから!」
遠山職長が取り繕うようにそう言って、俺の遠のく意識を引きずり出そうとする。その言葉を頼りになんとか這いあがった俺は、正常な脳の働きを取り戻すとともに、
「どういうことですか?」
とだけ口にした。
異動は林田さんでほぼほぼ確定だったはずだ。別の誰かになることはまずないと、遠山職長も林田さんもよく言っていたのを覚えている。それなのになぜひっくり返った。田辺の件を話していて、なぜ異動の話題に繋がった。
いくつもの疑問が浮かび今度はパニックに陥りそうになる俺に、遠山職はゆっくりと語り始める。
「影野GMは、退職者が出て本社の戦力が落ちたところで、一番頼りになる林田君を引き抜いちゃうと、部署が機能しなくなるんじゃないかって心配していてね。それなら替わりに同じ班長で林田君の次に頼れる九条君を分社に送って、林田君を本社に残すことで、安定化を図ろうと言い出したんだよ」
「そんなせっぱつまった状況ですか?」
「うちは少数精鋭だからね。ほぼ同時期に問題児とは言え第一線の作業者と、有能責任者が新人と入れ替わるんだから、大事は大事だよ」
「それはそうですけど……こんな土壇場で裁定変更って」
人員の選抜は本来なら七月に決まっていて然るべき案件だ。九月になっても彷徨っているだけでも大事なのに、あまつさえ路線変更などと正気の沙汰とは思えなかった。
「影野GMの林田君に対する信頼度が異常なほど高くてね。この状況を打破するには林田君の力が不可欠だって聞かないんだよ」
「俺だと崩壊するってことですか」
「林田君は前に九条君の班長教育と新人教育を並行してやっていたことがあって、実績があるから。今回もうまく切り抜けてくれると期待されてるんだよ。九条君からしたらそう言われてるも同然だよね。ごめん」
「遠山職長が謝らないでくださいよ」
発案者はGMであって、遠山職長を責めるのはお門違いだ。俺は胸の内から湧き上がってくる怒りを内に収めて、頭を掻きむしった。
林田さんは、影野GMにとって我が部署一番のお気に入りだった。責任者の中で、林田さんがGMに一番従順だからだ。林田さんはGMからの無理難題も嫌な顔一つせず二つ返事で了承してすぐに事に当たる。片や俺は逆らいはしないものの、明らかにおかしなときは一瞬間をつくってしまうし、顔に出る。そして遠山職長は長年の経験からよく口出しをする。反抗しないイエスマンが好まれる昨今。影野GMも例外ではなく、時には遠山職長を差し置いて林田さんを頼ってくることもあったくらいだ。現場の視察に来るときも、林田さんが昼勤の時が圧倒的に多かった。
林田さんは、ニコニコして従っておけば気を良くして、いざというときこっちの言い分を通しやすくなるから、あえて従順に振舞っているだけなのだそうだが、それを知らないGMからすれば林田さんは優秀な手駒でしかない。自分が管轄する本社の部署が危機に陥れば、真っ先に林田さんを使ってどうにかしようとするのも無理はなかった。
だが、時期を考えろと。先よりも前に現状を見ろと言いたいがために、俺はイラついていた。
分社への異動は来年一月からで、今はもう九月に入っている。もし入れ替わりで俺が異動になったとしたら、残りの三か月で住むところを探し、引っ越しの段取りをしなければならない。それだけならまだしも、異動先で何をするか、立ち上げに際し何が必要かなどは、林田さんが主に伝えられて進めていたため、俺は現在分社に関しては無知に等しかった。半年前から林田さんが仕事の合間に知識と準備を重ねていったことを、どうやって残りの期間で引き継げと言うのだろうか。先を見据えるのも大事なことだが、引き返せるラインにいるかどうかをまず見極めて欲しかった。
はあーっと重いため息が出る。一体何を考えているのやら。それとも社会ではこんなことが当たり前に起こりうるのだろうか。
「気乗りしないよね」
「そりゃあ、まあ」
「断る?」
「ありなんですか?」
俺は逆に聞き返した。
「本人の意思は尊重するから、絶対に嫌だっていうなら無理強いはできないよ」
「うーん……」
じゃあ嫌です。と言うのは簡単だった。しかしここで即答してしまうと、たとえ俺に非がなくとも絶対悪い印象を与えるなと思って、わざと悩むふりをした。本音は行きたくない。三年後なら多少の覚悟があったが、三か月後となると心の準備が追い付かない。
「まあ、こっちに残った場合、九条君には田辺の代わりの子の教育をしてもらわなきゃいけないし、後任の班長も初めから完璧にはこなせはしないだろうから、慣れるまではフォローしてもらうことだって多くなる。しばらくは相当負担がかかることが予想できるから、覚悟してもらわなきゃいけないよ。それに今回は分社立ち上げも絡むからね。プラスアルファでそっちのフォローなんかもしなくちゃならなくなってくる」
そうだった。林田さんにも何かあったら助けてくれと頼まれていた。それに加えて新人教育に新任班長のフォローか。自分の仕事が手につかなくなりそうだ。
「でも立ち上げのほうがよっぽど大変ですよね。一から部署を創っていく大役でなわけですし。班長二年目の俺に務まるとは思えないんですけど」
「荷が重いよねえ。影野GMが言うには、分社で配属されるGMが優秀な人だから、九条君でも大丈夫だろうって」
でもって。嫌な響きだ。
「もちろん僕からもできる限りのサポートはするよ。どちらに転んでもね」
「ありがとうございます」
感謝しつつも、俺の心は穏やかでなかった。林田さんを残すと提案したのが部署の頭である以上、結果はもう決まっているも同然だった。その場限りの妄言だったとなればまだ可能性はあるが、期待はできないだろう。せめてGMも遠山職長も思いつかなかったような盲点をついてやれば気も変わっただろうけど、俺ができそうなのは突然異動を言い渡された人が思うであろう当たり前の質問ばかりで、二人を唸らせることは到底出来そうもなかった。
俺は頭に昇った血を鎮めようと、深呼吸をする。秋の空気は澄んでいるなんていうが、今の俺にはとてもそうは思えないほど粘っこく感じられた。
「いつ頃どちらか決まるんですか?」
「できるだけ決断は急ぐようにするけど、近いうちにとしか言えないね。林田君での決定を先延ばしにしていたのも結局あの人だから。それでも今月中には決まると思うよ。じゃないと手続きとかできなくなっちゃうからね」
「そうですか。ちなみに遠山職長の個人的な意見では、どちらをお考えですか」
言いにくそうに、遠山職長は言った。
「僕は当初の予定通り林田君に行ってもらった方がいいかなと思うよ。その方が二人とも混乱せずに済むでしょ?それに最近の九条君を見る限りだと、本社に残っても十分やっていけると思うからね」
遠山職長も、俺の変化には気づいていたようだった。
「だけど本社が手薄になるのは事実だし、林田君が残るのであれば、それはそれで助かる面もあるから、何とも言えないのが正直な話かな」
遠山職長の発言がどれだけ決定に左右するかはわからないが、どちらでもないなら希望はゼロではないと考えてよさそうだった。今はそれにかけるしかない。
「わかりました。一応、心構えはしておきます。できるだけ早く決断してもらえると助かります。最悪俺になったときに、準備もありますので」
最悪の部分を強調しておく。
遠山職長は安堵したように顔をほころばせた。
「それはもう。しつこいぐらいにGMに聞きに行くようにするから。本当に、ごめんね。九条君が真摯に向き合ってくれて助かるよ」
俺はただただ真顔だった。真摯に向き合ってなどいない。諦め半分、行き場のない怒りと、どうせ俺にはならないだろうという楽観的な気持ちとが半々。つまりどんな顔をしていいのかわからない状態なだけだった。
浮ついた気分はどこかに飛んでしまっていて、胸の内にはドロドロとした感情が渦巻いていた。林田さんも、異動の話を持ち掛けられた時は同じような気持ちになったのだろうか。
「もう一度言うけど、このことは他言無用でお願いね。あと、当事者の林田君には僕から話すからそれまでは林田君にも言わないでね」
「はい」
頷こうとして、俺の頭は下がりはしたが、持ち上がることはなかった。早くて三年後と思っていたことが、目前に迫ろうとしていた。せっかく毎日が楽しくなってきていたのに、奈落のどん底に叩き落されたかのような気分だった。今はあの画像を見ても、心が晴れることはなさそうだった。
ああ、そうだ。御子柴さんにはなんと説明しよう。っていうか、異動になれば、御子柴さんと会えなくなってしまうのか。
……まじか。
さっきまでせわしなく走っていたハクセキレイの姿は、いつの間にか消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます