第2話 友達 5
最寄駅から電車で一駅移動し、そこからバスで十分走った先にあるアクアパレス水族館は、快晴の日曜日なだけあって朝から大勢の観覧者で賑わっていた。家族連れや恋人風の男女、友人同士と思われる女性集団に送迎バスから降りてくるおばちゃんおじちゃんのツアー団体。右を見ても左を見てもペア以上が形成されていて、改めて一人客っていないものだなあと思う。
俺にとっては実に十年ぶり位の来訪となるが、記憶にある姿と今ある姿は、あまり変わっていなかった。建物の前面に描かれた海を泳ぐイルカや魚たちのポーズも、入館してすぐの薄暗い部屋から見る巨大な水槽も、順路を進んでいくごとに変わる部屋の様子も、なんとなく見覚えがあった。さすがにどの部屋に何がいたか迄は細かく覚えていなかったが、それでも、シロクマとペンギンとイルカショーの場所だけは、パンフレットを見ずとも言い当てることができた。大きな増築や改装はされていないらしい。まさに俺が来ていた当時のままの姿で残っていると言ってもよかった。
大きく変貌を遂げて、全く新しい気分で回るのも新鮮でいいのだろうけど、長年訪れていなかった場所が変わらずにいてくれるのは、感慨深いくて嬉しくもあった。俺は久々の水族館を楽しむと同時に、当時を懐かしみながら観覧していた。
ちなみに、水族館が久しぶりという点では同じ御子柴さんはというと、
「九条さん九条さん!ほら、飼育員の人が餌あげてますよ。魚が群がってますよ」
や、
「うわ!九条さん見てくださいあのサメ。すっごい大きいです!なのに目の前を魚が泳いでるのに見向きもしませんよ!なんか飼い慣らされてる感がありますよね」
とか、
「九条さん!アザラシですよ!アザラシ!キャー、可愛い!あのぽてっとした体たまらないですよね!」
など、ことあるごとに俺を呼び、わーわーきゃーきゃー言いながら水槽から水槽へ渡って行っていた。待ち合わせの三十分以上前から待っていて、水族館へ向かうまでの道中からそわそわと落ち着かない様子だったが、入館してからはさらに落ち着きがない状態となっていた。小学校低学年くらいの子と一緒になって水槽に張り付き歓声を上げる姿などまるで子供。俺は苦笑するやら面白いやらで、トンネル水槽の頭上を優雅に泳ぐエイを子供と一緒にぽかんと口を開けて眺める御子柴さんの姿などを、携帯のカメラでこっそり撮ったりしていた。
そんな一幕を交えつつ一般的な海の生き物エリアを過ぎると、今度は深海エリアへと移り変わる。薄暗かった照明が一層と光度を落とし、道なりに点々と設置された水槽が道しるべのように怪しく光りだした。その中にはこの世のものとは思えない面妖な姿かたちをした生物が収容されていて、物珍しさから小さな水槽一つでもついつい足を止めて見入ってしまう。深海の生物には不思議な魅力と、ロマンが感じられた。
「九条さん、これすごいですよ!カニの大群です」
御子柴さんに袖を引っ張られる。目をやると、水槽の中で十数匹のタカアシガニが四本の足を支柱に、万歳をするように立っていた。
「おお、すごい。つかデカいな」
一匹一匹が立った状態で一メートル以上はある。一番長い部分を測れば二メートルは軽く超えるだろう。壁に掲示された説明によると、オスは鋏脚を広げると四メートル近くに達するものもいるらしい。俺の身長の二倍以上だ。そこまでくるとちょっと想像できない。深海の生物としてはメジャーな部類で、見た目がただの脚の長いカニでしかないため珍しさと奇抜さには欠けるが、これだけ大きな生き物が集まると壮観であり少し怖かった。おまけに広げた鋏脚が観客に敵意をむき出し威嚇をしているようにも見えて、妙な威圧感を感じる。
「タカアシガニって美味しいんですかね?」
御子柴さんが一番手前にいたひときわ大きなタカアシガニに焦点を合わせながら言った。俺とは違って、恐怖はまるで感じていないようだった。
「さあ、どうだろう」
説明文には味のことまで書かれていなかった。俺は携帯で『タカアシガニ 味』で調べてみることにする。
「一回ゆでて冷凍したやつはまずいけど、新鮮なのはうまいらしいよ」
「へえー、じゃあこの中にいるのはまだ美味しいんですね」
とんでもないことを言う。
「間違ってないけど、これ生簀じゃないからね」
「わかってますよ」
失礼ですね、と別の水槽に向かって行く。言ってみただけなのか、マジで言っていたのか。本音のところががわからなくてカニとは違う意味で怖い。
「あ、九条さん!来てください。こっちにダイオウグソクムシがいますよ」
またすぐに呼ばれた。俺は、やばーいきもーいと言いながらグソクムシの写真を撮る女子大生風の三人組の写真に写らないように注意して、御子柴さんの隣に移動する。
ダイオウグソクムシは、テレビで一時期話題になった、ダンゴムシのような見た目の深海生物だ。似ているとはいえ、体長は二~三十センチとダンゴムシとは比べ物にならないほど大きく、全身は黒ではなく白。ほとんど動かず、また食べなくても生きられる省エネな生物で、正確な寿命は今だ不明なのだとか。解明されていない部分があるのも、深海に生きる生物の魅力だろう。
そんなダイオウグソクムシを、御子柴さんはキラキラとした目で眺めていた。
「初めて生で見ました。かっこいいですね。顔つきというか目つきというか」
「確かに、ダークヒーロー感があるね」
正面からだと、まるで睨んでいるように見える三角の黒い目を二人で覗き込む。
「っていうか、御子柴さんってこういうの平気なの?明らかに虫っぽい見た目してるのに」
「そういえば、虫は全般的に苦手ですけど、グソクムシはわりと平気ですね。なんででしょう。動いてないからかな」
「だったら、これがゴキブリみたいに素早く動き回ってたらどう?」
御子柴さんが数秒ののち、ぶるりと身震いをする。
「それだと平気じゃなくなりますね」
同感だった。俺も無理。
「にしても動きませんね。おーい。生きてるか―」
御子柴さんがガラス越しに手を振る。がまったく反応しない。いや、反応したら驚くけど。
「今は省エネモードみたいだね。そっとしておいてやろう」
「サービス精神に欠けてますね」
「そりゃ、こいつらだって好きで水槽の中にいるわけじゃないからね」
「さ、次行きましょう次!」
御子柴さんは動かぬものに用はないと言わんばかりに、次の水槽へ興味を移していった。容赦ないなあと、俺もその後を追った。
正午を回るころ、俺たちは水族館の中にあるレストランで昼食をとることにした。人は多かったが運よく待たされることなく席に着くことができ、俺はカレーライス、御子柴さんはシーフードドリアを注文した。
「はーっ。水族館って楽しいところですね」
御子柴さんはお冷を一口飲んで一息つくと、満面の笑みで言った。
「ずいぶんと堪能してたからね」
「だって水族館はちっちゃいころに一回来ただけなんですよ?見るもの全てが新鮮なんですもん」
「その気持ちはすごくわかるけど、はしゃぎすぎて転ばないでね」
「そんなヘマしませんよ。子供じゃないんですから」
やですよもう、と御子柴さんは笑った。子供っぽいから言ってるんだけど、本人にその自覚はないらしい。引き続き注意はするとして、もし転んだら写真に撮ってやろうかと企む。
ほどなくして。頼んでいたカレーライスとシーフードドリアが運ばれてきて、俺たちは食事をしながら会話を続けた。
「午前中見た中で、何か気に入ったのはいた?」
「そりゃあもうアザラシですよ。決まってます」
自信たっぷりに言う。
「午前中もなにも、このあと何を見ても、それは揺るぎませんね」
「好きなんだ、アザラシ」
「はい。写真もたくさん撮りました。あの愛らしい顔と、長細くてちょっとふとましいフォルムがいいですよね。いつかおもいっきり抱きしめながら、添い寝がしたいです」
そう言った御子柴さんの目はキラキラと輝いていた。好きだという気持ちがひしひしと伝わってくる。そういえば、歓喜して一番長く見入っていたのがアザラシで、その時もこんな目をしていたような気がする。さすがにアザラシを抱きしめられる体験コーナーはここでなくともどこの水族館もやっていなさそうだから、その願いをかなえるには野生のアザラシに会いに行くことになるだろう。アザラシってどこにいるんだっけ。
「一応、家に一匹いるんですけどね」
「アザラシが!?」
素っ頓狂な声をあげる。
「やですよ、抱き枕ですって。本物なわけないじゃないですか」
そりゃそうだ。考え事の流れから言葉をそのまま受けとってしまった。
「ちょうど私くらいの大きさなんですけど、ふかふかで抱き心地が良くて、寝るときはいつもそれを抱いて寝てるんです。ないと寝られなくなるくらい愛用してるんですよ」
「へえ、いつごろから使ってるの?」
「初めて買ったのが高校生の時だから五年くらい前からですかね」
「物持ち良いね。抱き枕って長年使ってると中の綿が潰れてくるって聞いたことあるけど」
「今のは二代目なんです。一代目はおっしゃる通り、二年ちょっとでぺったんこになってしまいました。ことあるごとに上に乗っかってましたので」
アザラシの抱き枕の上に乗っかる御子柴さんか。すごい可愛いだろうな。一度見てみたい。
「教訓を活かして、二代目は乗るのを控えて、綿がヘタってきたら詰め替えたりと手入れをするようにしたので、まだまだ現役なんですよ。それに、綿の量を自分好みに調節してあるので、もと以上の出来に仕上がってるんです。でも、本物とはきっと違うんですよね」
「本物は脂肪で、抱き枕は綿だからね」
「はい。なので、いつかは本物を体感したいんです」
「叶うといいね」
意気込む御子柴さんに、本心からそう言った。そして、それを俺が叶えてあげられたらと思う。飲み会にしても水族館にしても誘われっぱなしだから、お礼もかねて連れて行ってあげたら喜んでくれるに違いない。家に帰ったらさっそく、アザラシと触れ合える場所を探そう。
「九条さんは、お気に入りはいましたか?」
「俺は、どうだろうな」
カレーを咀嚼しながら考える。身近な生き物から珍しい生き物、幼いころの記憶にあったもの、なかったものまで見てきたが、お気に入りとなるとすぐには出てこなかった。
「写真を多く撮ったものとかないんですか?」
写真か。携帯の入ったポケットを見る。今日撮ったものと言えば、驚いたりはしゃいだりしている御子柴さんが大半だ。水槽に向けてシャッターを切ったものは数枚しかない。となると。
「それなら、どの水槽の前にもいた子かな」
ドリアをスプーンですくい口に運ぼうとしていた御子柴さんは首を傾げた。
「そんなのいましたっけ?」
腹を満たしたところで向かったのは午後一発目のイルカショー。前列は水しぶきがかかることがあると注意喚起のアナウンスがあったにもかかわらずわざわざ最前列に座り、次々繰り出される芸に驚嘆の中、案の定水しぶきの洗礼を受けることになった。ずぶぬれとまではいかないが小雨に振られた後のような状態の俺と御子柴さんは、ショーが終わると服の乾燥もかねて二階の屋外にあるふれあいコーナーに足を運ぶことにした。
ふれあいコーナーは、ヒトデやナマコ、カメなどのいかにも水族館らしいラインナップに加え、俺が来ていたころにはいなかったカワウソやカピバラといった人気の生き物とも触れることができるとあって、子供連れには特に人気のようだった。小さな子供が飼育員の説明のもと恐る恐るヒトデを触ったり、カワウソの頭を撫でる様は、見ているだけで微笑ましく、親たちと一緒に俺まで笑顔になってしまう。こうやって、生き物の大切さ、尊さを知っていくんだなあとしみじみ思った。ナマコ握って笑ってる子供もいるけど。
「九条さん。見てくださいこの子」
ほのぼのしていた俺に、御子柴さんからお呼びがかかる。彼女は低い柵で囲まれたカピバラふれあいエリアの中にいて、お座りの態勢で固まっているカピバラの横で小首をかしげてしゃがんでいた。カワウソに人気を取られがちなのか、カピバラとふれあってるのは御子柴さんの他には二組だけだった。
「何?どうしたの」
「カピバラって大体皆同じ顔してるんですけど、この子はここにいる誰より、カピバラーって顔してると思いませんか」
「え?そうかな」
違いがあるのかと柵の中を見渡す。御子柴さんの隣にいるのを除けば五匹いるが、身体の大きさに違いはあれど、どの個体も顔の作りは同じに見えた。
御子柴さんの隣に目をやる。日向ぼっこでもしているのか、気持ちよさそうに目をつぶる中型犬ほどのカピバラ。注意深く観察してみるが他との違いはやはり体格ぐらいしか思いつかなかった。
「っていうか、カピバラーって顔ってなんなのさ」
「それはほら、うまく説明できないですけど、言うなれば、ぬーんって顔ですよ」
「なに、ぬーんて」
擬音であらわされても余計にわけがわからなかった。
「ですから、こんな感じですよ」
疑問符を浮かべる俺に対し、御子柴さんは目をつぶり、口をすぼめて鼻の下を伸ばした。どうやらそれが御子柴さんの言う『ぬーん』らしい。確かにカピバラっぽい顔になっていた。
感心するより先に、これまたシャッターチャンスだと閃く。
俺はすかさず携帯を取り出した。
「ごめん御子柴さん。比較したいからもう少しそのままでいて」
そう言ってカメラを起動し、カピバラ顔の御子柴さんとカピバラを画面に収める。
カシャ、と音がして、貴重な瞬間が切り取られた。俺は心の中でガッツポーズをする。
「ちょっ、もしかして今の撮りました!?」
シャッター音に気付いて目を開けた御子柴さんが、慌てた様子で詰め寄ってきた。
「いやー、思わず。でも可愛いよ、ほら」
画面を向ける。思いっきり目を凝らす御子柴さんの顔は、みるみるうちに赤くなっていった。
「消してください!」
御子柴さんが携帯を奪い取ろうと手を伸ばす。が、俺たちの間には柵があって、俺は一歩下がるだけでその妨害から逃れることができた。
安全圏に来たところで、改めて撮った写真を見た。御子柴さん曰く一番カピバラ顔のカピバラと、そのカピバラ顔をまねた御子柴さんのツーショット。後ろに映るカピバラの小屋がまたいい味を出していて、まるで新居の前で記念写真を撮る夫婦のようだ。自分で撮っておきながら、これは素晴らしいと自画自賛するほどの出来だった。
何より面白すぎる。見れば見るほど笑いがこみあげてきて、しまいには声をあげて大笑いしてしまった。
「これはやばい!額に入れて飾りたいよ」
腹を抱えて笑う俺のもとへ、カピバラふれあいエリアから出てきた御子柴さんが怒りと羞恥心を混ぜたような顔で駆け寄ってくる。
「九条さん!」
「だめだめ、消さないよ。こんな最高傑作」
俺はポケットに素早く携帯をしまう。
「そんな間抜け面のどこが最高傑作なんですか!」
「なんで?御子柴さんのカピバラ顔めちゃくちゃ可愛いよ。これ絶対どっかのコンクールに応募したらいい線いくって。試しに送ってみようか」
「やめてください!そんなことしたら絶交ですよ!!」
それは困るな。惜しいけど、応募するのはやめておくか。結構本気で賞を狙えると思っていたんだけどな。
「だったら、これは個人の観賞用に留めておくよ。それならいいでしょ?」
ひとしきり笑った後、腹の痛みを押さえながら言う。
「消してもらわないと全っ然安心できないんですけど」
「大丈夫だって。見せびらかしたり、これをネタに御子柴さんをゆすったりなんてしないから。あくまで個人で楽しむだけ」
「一生の笑いものにするつもりですか」
「違うよ。癒されるため。動物の写真見るのと同じ感覚だよ。カピバラって比較的可愛い動物のならなおさら癒し効果が……ふっ」
やば、画像がフラッシュバックしかけた。笑いを堪える俺に、御子柴さんのジト目が刺さる。
「んん、まあこれも思い出だから。今は嫌でもいつか見返した時に、水族館に行った記憶が呼び覚まされて懐かしむことになるって」
「もだえ苦しむの間違いじゃないですか?思い出にするくらいならもっとマシな写真がいいですよ」
「まあまあ、いい写真のお礼にフードコートでなんでも奢るからさ」
口を曲げる御子柴さんに対し、俺は浅ましくも食べ物で釣ろうと考えた。この場を治めるにはそれが一番であると思ったからだ。
なんならあるもの全てを奢ってあげてもいい。それだけの価値が、この写真にはあった。
「御子柴さん。そろそろやめない?」
「いいえ。やめません」
御子柴さんが携帯を構えたままぴしゃりと言う。
フードコートでクレープをご馳走し、満足そうに食べていたからてっきり機嫌が直ったものと思われたが、御子柴さんはその間によからぬことを思いついたらしく、席を立ってから売店を物色している今に至るまで、常に携帯を手に持って、カメラを起動させていた。どうやら恥ずかしい写真を撮られた腹いせに、
俺の恥ずかしい瞬間を収めてやろうと考えているらしい。データを消そうと企まれるよりよっぽどいいが、気になってしょうがなかった。
「だからさ、ほら、撮っていいよ」
俺は顔をゆがませ変顔をしてみせる。しかし、御子柴さんは撮ろうとしなかった。
「そんなのだめです。油断したところでないと、仕返しになりません」
やっぱりだめか。数分前にも、とっととお望みの写真を撮らせてあげようと、唐突に変顔をしたもが、作ったものでは意味がないと突っぱねられていた。しかし、撮られるのがわかってて油断する人間もそうはいない。むしろ警戒してしまって、いつも以上に無難な行動を心掛けるようになっていた。
どうしたら彼女が納得してくれる写真を撮らせることができるだろう。会話をしながら柱にでもぶつかろうか。それとも、派手にずっこけてみるか。この水族館のマスコットキャラが描かれた壁に近づいて、同じポーズを決めてみたりすれば……。いろいろ考えてはみるが、どれを実行したところで、わざとらしくなってしまいそうだった。それでは御子柴さんにすぐ見破られてしまい、さっきまでと同じ結果にしかならない。
自然と諦めてくれるのを待つしかないのだろうか。
「ねえ、ちょっと!そこのお二人!」
ふいに声を掛けられ、二人して右に顔を向ける。そこには五人組の派手な化粧をしたおばちゃん集団がいて、そのうちの一人が俺たちにデジタルカメラを差し出していた。
「悪いんだけど、どっちか写真撮ってくれない?ほら、あそこのパネルでなんだけど」
目の端に皺を作り人の良さそうな笑顔を振りまいて、空いた手で記念撮影用に置かれたパネルを指さす。
「あ、はい。いいですよ」
「ありがとねえ。じゃ、これカメラ。ここ押してくれればいいから。みんな!ほら、あっちに移動して。並んで」
俺とおばちゃん四人に指示を出し、自分もパネルへと移動していく。修学旅行に来た女子高生のように騒ぎながら、おばちゃんたちはパネルの前に中腰で並んだ。
「それでは、撮りますよー。はい、チーズ」
撮影ボタンを押すとフラッシュがたかれ、パシャリと音がする。オッケーですと言うと、おばちゃんたちがまたきゃあきゃあと騒ぎ始めた。リーダー格らしい声を掛けてきたおばちゃんにカメラを返しがてら写真を確認してもらうと、「バッチリバッチリ!あんた腕良いね」と肩を叩かれた。
「あんたたちは?もう撮ったの?」
「いえ。俺たちは……」
「まだなの?じゃあ、おばちゃんが撮ってあげるから、カメラ貸して」
「え、あー……」
どうする?と御子柴さんにアイコンタクトを送る。御子柴さんはふんふんと頷いた。
「じゃあ、すいませんけど、これで」
「はいはい、まかせときなさい」
携帯を渡し使い方を説明してから、俺は御子柴さんとパネルの前に立った。お互いの距離はニ十センチ程空け、気の利いたポーズをとるでもなく俺は膝に手を置き中腰に、俺の左手側に立った御子柴さんは手を前で組んで直立だった。おばちゃんたちに、なんか味気ないねー若いんだからもっと近づいてポーズとかとりなさいよ、と野次を飛ばされたが、俺も御子柴さんもこういう場面で陽気なポーズをとれる性格はしていないので、これでいいです、とシャッターを促した。
若干の緊張を感じながらせめて自然な笑みを心掛けて表情をほぐし、おばちゃんの掛け声を待つ。
「それじゃ、いくよー!はい、チー……」
ズ、の声が届く直前だった。
首に何かが巻き付き、身体が左に傾いた。何が起きたかわからずあっけにとられた顔で、カシャ、という音を聴くと、おばちゃんたちのキャー、大胆!という黄色い声が続けて耳に届く。
顔を少しだけ横に傾けると、御子柴さんの顔がすぐそばにあった。よく見ると御子柴さんは、飛びつくようにして俺の首に腕を回していた。
状況がわかると、途端に背中と顔が、燃えるように熱くなる。頭がぐわんぐわんと揺れ、全身の毛穴が開いた気がした。俺は意識を失ったようにその場で固まってしまった。
「いや、やってくれたね」
正気を取り戻した俺は、まだ熱の残る顔を引きずりつつ、バスの集合時間だと慌てて去って行くおばちゃん集団を見送りながら、隣で俺の携帯を見てニヤついている御子柴さんに言った。
「ナイスアイディアでしょう。とっさに思いついたんです」
ドッキリのネタ晴らしをするように言う御子柴さん。しかしその顔は真っ赤だった。
「とっさだっただけに御子柴さんもダメージがデカいみたいだね」
「思ったより恥ずかしかったので……」
御子柴さんがぷいと顔を反らしぼそりと言う。恥ずかしくのがわかってたならやんなきゃいいのに。意外と何しだすかわからない人だと思った。
「それより、見てくださいよ。この九条さん、何が起きたかわからないって顔してますよ。笑っちゃいますね」
御子柴さんがお返しだと言わんばかりに携帯を突き出してくる。画面には笑顔の御子柴さんに抱き着かれている男が、目を丸くして口を半開きにしている間抜けな面をしている画像が表示されていた。しかもあのおばちゃん、一回だけでなく何度かシャッターを切っていたようで、画面をスクロールすると、俺の表情の移り変わりがパラパラ漫画のように数枚に分かれて記録されていた。
ぶっちゃけ、自分の表情はどうでもよかった。そりゃあんなことされればこんな顔になる。間抜けな顔を収められたところで、納得していれば恥ずかしいとはこれっぽっちも思わなかった。むしろ俺は御子柴さんに抱き着かれているという状況を証明されていることが何倍も恥ずかしかった。なにせ今まで生きてきた人生で女性に抱き着かれたことなど一度もなく、初めての体験だったのだ。耐性がない。
「あの、怒ってます?」
黙って画面を睨む俺に不安を覚えたのか、御子柴さんが尋ねてくる。
「別に怒ってないよ。先に原因を作った俺が悪いんだし。あまりにも予想外過ぎたけどね」
「それは私だってそうですよ。九条さんにあんな場面写真に撮られるとは思ってなかったですもん。お互い様ですよ」
「お互い様、ねえ」
総合的に見たら御子柴さんの方が圧倒的にダメージ多い気がするのだけど、それでもお互い様でいいんだろうか。俺の場合、恥ずかしくはあったが捉えようによっては喜ぶところでもあるわけだから、ただただ辱めを受け、且つ捨て身で自爆している御子柴さんとイーブンだとは思えないのだけど。それともクレープ分で、いくらか相殺されているのだろうか。
「あ、画像はいただきますね」
「どうぞご自由に」
御子柴さんは俺の携帯を操作し、自分の携帯に画像を送り込んでいく。その横顔は相変わらず赤かったが、嬉しそうだった。
まあ、御子柴さんがこれでお相子だと思っているのならそれでいいか。これで携帯を手放してくれるだろうし。
「あっ!九条さん、なんか他にも私を撮った画像がたくさんあるんですけど!」
「ああ、よく撮れてるでしょ」
「そうですけど……ってそういう問題じゃなくて、なんでこんなに撮ってるんですか」
「だってすっごく楽しそうだったから。それも思い出だよ」
「私、九条さんの写真一枚も撮ってないですよ」
「そりゃあ、水槽の中に夢中だったからね」
「不公平です」
「俺の写真ならさっきのがあるじゃない」
「私が撮った九条さん単体のがありません。これじゃ平等にはなりませんね。帰るまでに一杯撮らせていただきます」
結局御子柴さんはその後も携帯を離さず、水族館を出てコンビニで別れるまで、ふとした拍子に俺に向けてシャッターを切っていた。
別れ際、御子柴さんに「もしかして、お昼に話してた九条さんのお気に入りって」と聞かれたが、「さあ、どうだろうね」とひょうひょうととぼけておいた。面と向かって御子柴さんのことだよと言うのは、さすがに恥ずかしかった。
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