第2話 友達 4
「へえー、それで結局、その人は辞めることに決まっちゃったんですか」
「そういうこと」
田辺の一件があった週の土曜日。居酒屋『魚蔵』にて早くも御子柴さんとの二度目になる飲み会が開催された。どうやら彼女は居酒屋と同じくらい飲み会が好きらしい。しかしさすがに前回の反省を生かし、頼む量は常識の範囲にとどめられ、御子柴さんは一番気に入ったらしいカシスオレンジと、これまたお気に入りのチーズ揚げを主軸にスローペースで飲食していた。別に好きなだけ頼めばいいのにと思ったが、今日は絶対割り勘ですから!と出合い頭にくぎを刺されていたので、御子柴さんの負担も考えて俺も付き合っていた。
そして今は、お互いに近況報告(と言っても一週間の間だが)をしていた際、なんとなく喋ってしまった田辺の件を御小柴さんが興味をもったので、簡単に説明してあげたところだった。
俺の予想通り田辺は辞めると宣言した当日に退職を確定させた。遠山職長との面談のあと、GMや人事の人とも面談をしたらしいが、一貫して自分の主張を曲げなかったため、説得の余地なしと判断されたそうだ。まあ、田辺の素行の悪さはGMと人事にも知れ渡っていただろうから、最初から本気で説得するつもりがあったかどうかは不明だが。時間もそんなにかかっていなかったように思う。
面談が終わり、自分が原因の一旦だと知らされた遠山職長の憔悴しきった顔とは対照的に、したり顔で戻ってきた田辺が、「あと2二か月よろしくお願いしまっす」と俺に告げて作業に戻って行った。その時俺は、怖いもんなしだなと思うと同時に、ゆるぎない我を持っているんだなと、田辺を初めて尊敬するような目で見てしまった。
そして定時が過ぎ、皆が帰宅した後、こちらも予想通り遠山職長に捕まり、愚痴を延々四時間聞かされる羽目になったのが、話を聞く限り遠山職長も、落胆はしつつも田辺が辞めることに関しては俺と同意見であった。取り返しのつかないことをやる前に辞めてくれて助かったと吐露した遠山職長の表情には、明らかに安堵の色がにじんでいて、部署全体を見る職長の立場の苦労を垣間見た気がした。その苦労も、あと二か月で報われることになる。
「こう言ってはなんですけど、よかったですね」
御子柴さんはチーズ揚げを摘まみながら言った。
「頼りになる人が辞めたとなれば、残念って思ってたんでしょうけど、その田辺って人に関してはそう思えません」
「頼りになるどころか散々迷惑かけてきた奴だからね。俺も正直な話辞めるって言ってきてくれて嬉しかったよ。部下が辞めるのに嬉しいなんて、最低かもしれないけど」
「仕方ないですよ。だって仕事中にさぼるし、無断で休むし、注意しても反抗するしで手が付けられなかったんでしょう?そんな問題児がいなくなるなら誰だって喜びますよ」
私だって喜びますもんと御子柴さんがフォローしてくれる。ありがとうと言い、俺はジンジャエールで口を湿らせた。
「作業者も次の日朝礼で伝えたら、皆よかったって顔してたからね」
「ほらやっぱり。自業自得ですよ」
「それもあるけど、部署の人間のほとんどは田辺が元ヤンってことでビビりながら接していたところがあったから。気をつかう対象がいなくなってよかったって思った部分もあるんじゃないかな」
恥ずかしながら、俺はそうだった。学生時代には、いわゆる不良と呼ばれる人種とは全く縁がなかったから、田辺は初めての不良体験と言ってもよかった。しかもそれが部下となると物怖じしてしまい、どこか腫れ物を扱うような態度を取ってしまっていた。それがなければ、きちんと指導をして、田辺を真人間にすることができていたのかもしれない。そう思うところもあって、辞める理由で名前が挙がらなかったからといって俺自身全くの無関係とは言えなかった。現に唯一対等に接していた林田さんの言うことに、田辺は割と従っていたように思う。
今回の件でまだまだ人の上に立つには未熟なのだと痛感した。
「ともあれ、肩の荷が一つ降りるよ。これで新しく配属される人がまともであれば、面倒ごとは減って、人間関係の問題も一気に改善される」
残りの作業者に手を煩わせる者はいない。田辺だけが異質な存在で、まとまった味を乱す余計な材料だった。それが取り除かれ、新しい材料が良質であれば、完璧な料理、もとい職場環境が整う。是が非でもいい人材の確保を人事にお願いしたい。遠山職長にも念を押しておこう。
「そっか。代わりに新人が入ってくるんですよね」
「そりゃあね、抜けただけだと仕事回らなくなるし」
「そっかぁ、じゃあ社員募集されるんだ」
独り言のようにつぶやく。顎に手を当て、なにやら考えている様子だった。
そういやいたな、もう一人会社を辞めたがっていたのが。
「まさか、応募しようかなーなんて考えてない?」
「ええ!?なんでわかったんですか!?」
御子柴さんが目を丸くする。
「だって初めてあった日に、いつか会社辞めてやるーって言ってたじゃない」
「あー……よく覚えてますね」
気まずそうに笑いながら頬を掻く。二週間前のことを忘れるわけがない。
「御子柴さんかぁ」
俺は腕を組んで、正面に座る女性を品定めするように見る。
「ど、どうですか」
御子柴さんは居住まいを正し、真剣な目をする。さながら面接官と志望者といったところか。
「うーん、真面目に働いてくれそうだからその点は問題ないけど、うちは体力勝負だからなあ。でっかい機械に張り付いて延々流れ作業をやるラインと違って、一日に何度も重い物運んだり、フォークリフトや構内車両であちこち物を運搬したり、何トンもある資材をクレーンで吊り上げたりするから、女性にはかなり大変な職場だと思うよ」
「だめ、ですか……」
「だめってことはないけど、前例がないからなんとも。女性がうちの部署に配属されたことは一度もないから」
他の部署では女性が大勢活躍しているにも関わらず、うちは発足当初から男のみの構成になっていた。聞いた話だと男向きの仕事ばかりだから、人事が意識的に男ばかりを配属させているらしい。
「なら、私をテスターとして配属してもらったりは。できるできないの基準になりますよ」
御子柴さんはめげずに別の切り口を提案してきた。
「テスターねぇ。まあ、性別に関係なく働ける職場が理想ではあるから、いずれはそういう人を取りたいとは思ってるよ」
「ですよね。どうですか私!テスター向けの平均的な女だと思いますよ」
ここぞとばかりに売り込んでくる。自分を平均的とまで言わなくてもいいのに。
「嬉しい申し出だけど、いずれであって、主戦力の補填が欲しい今ではないかな。そういうのは戦力が整っている状態で、一人増やしてもいいってなった時でないと、もし仮に駄目でしたってなった時に巻き返しが大変になるから」
「そうですか……。九条さんと同じ職場で働けたら、土日だけじゃなく仕事終わりにも飲みに行ったりできると思ったんですけど」
がっくりと項垂れる御子柴さん。そんな理由だったのか。動機が不純すぎる。
「まあ、その時が来たら御子柴さんにも一応知らせるようにするよ」
「その時っていつですか」
「そうだなあ、一、二年後とか?」
「遠いですね……」
そんなこと言われても分社のことがあるから、しばらくは人の入れ替わりが続いて教育で手いっぱいになってしまう。落ち着くのにはそのくらいかかる。
「大体、御子柴さん、今の会社に勤めてまだ五か月目でしょ。そんな短い期間で辞めてきたところで、どのみち面接には受かりはしないと思うよ」
「そこは、九条さんから口添えを」
「俺をなんだと思ってるの。一部署の末端責任者に、そんな権限はありません」
職長ですら口出しはできない。俺たちはすでに配属先が決まった新人を受け入れるのみで、採用するも配属先をどこにするかを決めるのも、全ては人事次第だ。
諦めなさいと言って、俺はマグロの刺身を一切れ口に運ぶ。魚を売りにしているだけあって安っぽさを感じさせない味を堪能しながら、もしも御子柴さんがうちの部署に配属されたら、とふと思う。
女性が加わるだけで、むさくるしい雰囲気はいくらか改善されそうだった。歳も若いし、見た目も可愛いし、部署全体の意欲向上にも一役買ってくれることだろう。それに平均的を自称する彼女に仕事が無理なくこなせるとわかれば、今後の女性作業者確保が容易になって、ゆくゆくは男女比が均等な職場になるかもしれない。
部署単位でのメリットは大きいように思えた。では俺個人としてはどうだろう。御子柴さんが、部下になったらどんな風になるだろう。
「あの。どうかしましたか?」
その声にはっとして、瞬きをする。不思議そうな顔をした御子柴さんが、カシスオレンジのグラスをテーブルに置く。少し考えに集中してしまったようだ。
「ああ、ごめん。御子柴さんがうちの会社の作業着来たらどうなるんだろうって考えてた。あんまり似合いそうもなかったよ」
俺はとっさにからかい口調でそう言った。
「……それ、反応に困りますね。似合うって言われても複雑ですし、似合わないもそれはそれで複雑です」
いかにも複雑といった表情で眉根を寄せる。
「御子柴さんの仕事着はやっぱりスーツかな」
「似合ってました?」
「似合ってるのもあるけど、イメージが定着してる感じ。初めて会った時の服装だからかな」
コンビニの前でうずくまる御子柴さん。その姿は今でも鮮明に思い出せる。そして交わした会話も。援交に間違われた時はさすがに参ったが、そこからこうして一緒に飲みに行く仲に発展しているのを思うと、人生何がきっかけになるかわからないものだなあとつくづく感じる。
「ちなみに、俺の中で一番はやっぱり私服姿だね。今日のもすごく可愛いよ」
袖口にリボンの付いた白のブラウスにベージュのロングスカート姿を褒めたたえる。御子柴さんは、「ちょっ、急に褒めないでくださいよ!」と頬を赤らめて、挙動不審気味に刺身の盛り合わせの皿に残った一切れを食した。視線をこちらに向けようとはせず目をつぶってもむもむと咀嚼を繰り返す。
その姿を笑って見ながら、俺は思った。部下と上司の関係も、それはそれで面白そうではあるが、必ずどこかで仕事上での不満から壁が生まれる。ただの友達だからこそ、こうして自然体で接することができるのだと。
だったら俺は、今のままがよかった。
今度は俺の経験上最も少なく収まった金額をきっちり割り勘にして、俺たちは外に出た。
九月に入ったというのに、夜は変わらず暑い日が続いている。店内のエアコンが恋しくなって逆戻りしたくなる衝動を抑えながら、ビルを出て、解散場所のコンビニへと歩く。
「明日のこと、忘れてませんよね」
隣を歩く御子柴さんが上目づかいで俺を見る。
「ああ、水族館でしょ。覚えてるよ」
俺はそれを横目で見つめ返しながら答える。
御子柴さんから飲み会の誘いを受けた時、もう一つの誘いも受けていた。それは、翌日の日曜日に、一駅先にある水族館へ行こうというものだった。小学生の頃に一度行ったきりなので、近くにあるのならぜひ行ってみたい。でも一人はさみしい女に思われそうで嫌なので、一緒に行きませんか、と御子柴さんにお願いされ、相も変わらず予定がなかった俺は、その要望を聞き入れた。それもあって、今日のお開きは十時と前回よりも早い。
「すっごい楽しみです」
御子柴さんは遠足を前にした小学生のように、全身から待ちきれないオーラを振りまいていた。かく言う俺も、小中と社会見学だ遠足だと何度も行ったことはあるが、それ以来は足を運んだことがなかったので、楽しみなのは同じだった。行こうと思っても男一人では女性以上に難易度は高いし、男友達誘って行くようなところでもないから、こんな機会でもないとそれこそ一生訪れることがないような場所だ。御子柴さんの提案には感謝していた。
コンビニの前に着くと、店内から漏れる明かりに照らされながら、俺たちは向き合った。
「それじゃあ九条さん。明日九時半にここに集合ですからね。寝坊しないでくださいよ」
「御子柴さんも寝坊しないようにね」
「私は大丈夫です。いつも決まった時間に自動で起きられますから。むしろ興奮して寝られなくならないかが心配です」
まるっきり子供だった。しっかりしてるんだかしてないんだかわからない。
「じゃあ、また明日。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
別れの挨拶を交わし、手を振る。御子柴さんはスキップでもしそうな勢いで人ごみに同化し、やがて見えなくなっていった。
俺はコンビニに寄って帰ることにして、店内に入った。レジには上末さんがいて、俺に意味深な笑みを向けてきた。
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