第2話  友達 2

 六時五十分にコンビニの前で待ち合わせということで、余裕をもって二十分前に到着した俺は、わかりやすいようにごみ箱の横に陣取って御小柴さんを待つことにした。

 土曜の夜の駅前はとても賑わっていた。駅の出入り口からは絶えず人が排出され、歩行帯を埋めていく。平日とは違い私服姿が目立ち、表情も皆一様に明るかった。煌々と明かりを灯した店からは食欲をそそる香りが漂ってきて、朝に軽く食事をとっただけの俺の食欲を駆り立ててくる。腹の虫が喧騒に紛れて一鳴きした。

 気を紛らわせるために携帯の画面に表示される時刻を確認してから、通り過ぎる人の中に御小柴さんがいないかを流し見ていくことにする。俺の隣には他にも人待ちをしているであろう人がいて、携帯をいじっている人もいれば、そわそわきょろきょろと落ち着かないでいる人もいた。彼らは何時に待ち合わせで、いつからいたのだろうと、どうでもいいことを考えながら、通りを歩く女性にピントを合わせていく。

 しばらくして、駅とは反対方向から人混みに紛れて見知った顔が近づいてきているのを捉えた。正面を向いて歩いている彼女はとっくに俺の存在に気づいていたのか、顔がほころんでいた。視線を固定する俺と目が合うと小さく手を振ってくれる。俺も応じるように手をあげた。

 するすると人混みをすり抜け、御子柴さんが俺の正面までやってきた。

 「こんばんは、九条さん。早いですね」

 清涼感のある水色のブラウスに白のフレアスカート姿の御小柴さんがそう言ってにこりと笑う。初めて見る私服姿はとても新鮮に映った。主張しすぎずおとなしめの色合いが艶やかな黒髪とマッチしていて、いいとこのお嬢さんないし、文学少女のような清楚な印象を受ける。スーツ姿もちろん似合っていたけど、俺は断然私服姿の方が好みだった。何より、今までと違って友達と会っていることを再認識させる。

 「こんばんは。御小柴さんも早いよ。まだ十分以上前だし」

 「十分前行動は社会人として当然ですよ」

えへんとそこそこ大きい胸を張る。会社の人や他の友人たちとの待ち合わせでは皆ぎりぎりに来るか、遅れてくるかが当たり前だったので、俺は必要以上に感心した。

 「しっかりしてるね。今の言葉、俺の知人に片っ端から聞かせてやりたいよ」

 「九条さんの周りは時間を守らない人が多いんですか?」

 「集合時間の五分前に来る人ですら稀だよ。大抵時間ギリギリか、遅れてくる」

 「あはは、それは困りものですね」

 御子柴さんが困ったような、おかしいような笑みを浮かべて言う。全くもってその通りだが、会話のネタになっただけ役に立ったとも言えなくもない。

 「じゃあ立ち話も何だし、さっそく行こうか」

 「そうですね。案内よろしくお願いします」

 「はいはい。つっても、すぐそこなんだけどね」

 御小柴さんと並んで駅方面へ向けて歩き始める。これから行く店を決めたのは俺だった。誘ってきたのは御子柴さんからだったが、まだこの辺りの店事情に疎いと言うので、俺が良く会社の先輩の林田さんと利用している居酒屋を提案したのだ。女性との食事に居酒屋はどうかと思ったが、あいにく外食をあまりしない俺は他にいい店が思い浮かばず、御子柴さんの反応も意外にも良かったから、そのまま採用となった。

 人ごみではぐれないように時々横を確認しながら歩く。そうするたび、御子柴さんからはふわっと柑橘系の香りが漂ってきて、俺の鼻孔をくすぐった。前に二度会った時にはしなかった香りだった。仕事ではつけないのか、それとも時間経過で効果が切れた後だったのか。なるほど、御子柴さんはこういう香水を好むのかと余計な詮索をしてしまう。香水の類はあまり好きじゃないけど、主張しすぎず自然と香るそれは好感がもてた。

 「さすがに人が多いですね」

 御小柴さんが前方に広がる人波を見て苦笑する。香りを堪能していた俺はいきなり声を掛けられてどきりとしながら答える。

 「土曜日だからね。この辺が一番賑やかになる曜日だよ」

 「普段この時間帯に出歩かないので、ちょっと圧倒されちゃいました」

 娯楽施設はないが飲食店はそれなりに立ち並んでいるため、休日の夜ともなれば飲み会を目的とした集団でごった返す。昼間は割と簡素なだけに、夜になった時の差が激しいのがこの駅前の特徴だった。

 「そういえば、よく予約とれましたね。電話したの昨日ですよね?一番混みあう時間帯だと思うんですけど」

 御子柴さんが不思議そうに尋ねてくる。

 「大人数で座敷部屋だと予約一杯だったんだけどね。少人数用の席ならギリギリ空いていたんだ」

 「へえ、ラッキーでしたね」

 「ほんとにね。もしだめだったら牛丼屋になってたかも」

 「……それはさすがに」

 そんな冗談も交えつつ駅の前までくると、俺達は左手側にある五階建てで駅直結の建物の中に入る。エスカレーターで三階まで登った先に目的の店はあった。『魚蔵』の看板が立つその居酒屋は全国チェーン店で、名前に魚の字が入っているように魚系の料理を売りにしている。それだけあって、魚料理の品数は豊富、味も全国チェーンにしてはかなり頑張っていると評判だった。

 しかし店の扉を開くと、漂ってくるのは微かな焼き鳥の香ばしい香りばかりだった。魚を売りにしていても、匂いは焼き鳥などの焼き物。これはもう仕方ない。

 「いらっしゃいませー!」

 近くにいた店員が入ってきた俺達に気付いて大きな声で言った。つられてあちこちから「いらっしゃいませー!」と声が上がる。

 「七時に予約をした九条ですけど」

 「はい、二名様でご予約の九条様ですね。ご案内します。奥へどうぞ」

 店員に先導され、奥へ進む。店内の席は全て個室で区切られていて、外からは中を覗けないようになっている。『魚蔵』は全店舗個室制を採用している居酒屋でもあった。隔離されているようで窮屈、味気なさを感じるという人もいるらしいが、俺は人目を気にする必要のない個室が好きだった。プライベートな空間は会話をするにも食事をするにも安心感を与えてくれる。トラブルに巻き込まれる心配もなく、家で飲んでいるかのようにリラックスできる。林田さんとの飲み会が毎回ここなのも、そんな空間で会社の愚痴を存分に言い合えるからだった。今後飲食店全てがこの形態のなってくれればいいと、俺は本気で思っている。

 「こちらへどうぞ」と通されたのは通路の左手最奥の個室だった。角部屋とはこれまたラッキー。靴を脱いで御小柴さんと中に入る。三畳ほどの部屋に机が一つに座布団4つ。シンプルで落ち着きのある空間はもうおなじみだった。向かい合って座ると店員は、「今、お冷とおしぼりお持ちしますね」と言って、戸を閉めて出ていった。

 「ここが、九条さんの行きつけですか」

 御小柴さんが、カバンを隣の座布団の上に置き、部屋の中を眺めて言った。

 「行きつけってほどでもないけどね。月一くらいの頻度で利用するのが決まってここってだけだよ。それより、今更だけど個室嫌じゃなかった?」

 「いえ、むしろ良かったです。個室の方がリラックスできますから」

 「そりゃよかった」

 出会って間もない男と、居酒屋とはいえ個室に入るのは抵抗あるんじゃないだろうかと今になって心配したが、気にしていないようで安心する。

 「御子柴さんは居酒屋には良く来るの?」

 「今日で四度目ですかね。大学時代に友達と二回、社会人になって歓迎会で一回。ファミレスとかとは違っていろんな料理が食べられるのが好きで、本当ならもっと利用したいんですけど、なにぶん一緒に行く相手がいない上に、一人でも入りづらいので」

 御子柴さんは照れたように髪を撫でる。複数人はともかく、女性一人の居酒屋は確かにハードルが高いように思う。俺も居酒屋で女性が一人でいるところを一度も見たことがなかった。

 「じゃあ御子柴さんとご飯行くときは居酒屋に決まりだね」

 「いいんですか!?」

 「俺も居酒屋は好きだから」

 「やった!」

  本当に嬉しそうだった。

  その後、店員がお冷とおしぼりを持ってきたので、ひとまずいくつかの料理と、俺はウーロン茶、御小柴さんはウーロンハイを頼んだ。

 「お酒飲まないんですか?」

 注文を終えてメニューから顔を上げた御小柴さんが聞いてくる。

 「飲めないことはないけどかなり弱くてね。コップ一杯でダウンしちゃうんだ」

 「へぇー、そうなんですか」

 「ごめんね。一緒に飲めなくて」

 「いえいえ!私そういうの全然気にしませんから!」

 全然!と繰り返す。ありがたい。飲めないことをカミングアウトするときはいつも少なからず緊張する。それだけで場の空気がしらけることもあるからだ。だからと言って無理に飲めばぶっ倒れて迷惑をかけるので、結局は言わざるをえないのだけど。これでも飲めるようになろうと人知れず努力はしてきたが、俺の身体が一向に酒を受け入れてはくれなかった。きっと体質の問題なのだろう。

 ほどなくして、ウーロン茶とウーロンハイが運ばれてきた。氷で水増しされているグラスを持ち上げると、御小柴さんも同じようにグラスを手に持った。

 「じゃあ……なんだろ、友達になって初めての飲み会と、仕事お疲れってことで。乾杯」

 「か、乾杯」

 カチンとグラスをぶつける。そしてお互いに一口。店特有の氷で薄まったウーロン茶は、空きっ腹に染みわたり余計に空腹感が増していった。

 「腹減った」

 ぽつりと漏らすと、おいしそうにウーロンハイを飲んでいた御小柴さんがクスリと笑った。

 「今週夜勤でしたよね。もしかして、朝食べたっきりですか?」

 「そうだね。昼間は寝てたし、起きてからも何も食べてないから」

 「わ、ならもっと頼みましょう。さっき頼んだ分じゃ全然足りませんよね」

 いそいそとメニューを吟味し、あれとこれとと頼む物をピックアップしていく。献身的にもみえるが、御子柴さんの表情がクリスマス前におもちゃ屋のチラシを手にした子供のようにキラキラしているあたり、自分が食べたいものを選んでいるだけのようにもみえた。

 再度店員が現れ、今度は枝豆と焼き鳥の盛り合わせをテーブルに乗せていった。

 「すみません。注文いいですか?」

 御子柴さんが遠慮がちに手を上げる。

 「はい、どうぞ」

 「えっと、唐揚げと、シーザーサラダと、刺身の盛り合わせと、あとチーズ揚げを二つお願いします。九条さんは何か頼まれます?」

 「じゃあ、だし巻き卵一つ」

 店員が注文を復唱し、去っていく。

 「チーズ揚げ好きなんだ」

 一品だけ二つ頼んだことに、そうじゃないかと思って尋ねる。

 「だっておいしいじゃないですか。外側のカリカリと中のトロッとしたチーズが絶妙にマッチしていて、何本でも食べられちゃいますよ。居酒屋では必ず頼んでます」

 御子柴さんは食べたところを想像したのか顔をほころばせる。よほど好きらしい。

 「ちなみに嫌いなものは?」

 「レバーとか、牡蠣とかですかね。味に癖があるんで、どうしても食べられないんですよ」

 「へえ、慣れるとどっちもうまいんだけどね」

 「九条さんは好き嫌いあるんですか?」

 うーんと首をひねる。

 「俺は特別好きも嫌いもないなあ。うまいか普通の二択でしかわけたことがないから」

 御子柴さんが羨望のまなざしを向けてくる。

 「うらやましい。何食べても普通以上に感じられるなんて」

 「まあ、世の中にある食べ物全てがその二つで分類できるとは思わないけどね。ゲテモノ出されたらさすがに嫌悪するだろうし」

 そう言って、鳥皮の串を一つ持ち上げて食べる。コンビニのただぐにゃっとしているだけのゴムのような皮と違って、表面がパリパリしていてうまかった。空腹なこともあってあっという間に一本平らげて、続けてモモに手を伸ばす。

 その様子を見て、御子柴さんが口元に手を当てて笑った。

 「ホントにお腹空いてるんですね」

 「御子柴さんも早く取らないと、全部俺が食っちゃうよ」

 「それは困りますね」

 そう言って、ネギまをキープする。

 「あの、一つ聞いてもいいですか?私夜勤って、経験がないからよくわからないんですけど、やっぱり大変なんですか?」

 「まあね。やってることは昼も夜も変わらないけど、眠いのがとにかくつらいからね。どれだけ昼間に寝ても、一時を過ぎたあたりから慢性的に眠くなってくるよ」

 なるほど、と御子柴さんが頷く。

 「でも身体を動かす作業をしている分には、眠気もある程度飛ぶからまだましかな。俺みたいな責任者はパソコン業務ばっかりで指しか動かさないから、すぐ眠くなる」

 「パソコン業務自体ずっとやってると眠くなりますもんね」

 「そう。だから見回りと称して、よく現場をうろついて眠気を散らしてるんだ。そうでもしないと仕事どころじゃない時もあるからね。あ、別にさぼってるわけじゃないよ」

 自分の好きなことならともかく、夜中に仕事としてパソコンに向き合うことがどれだけ眠気を誘うかは実際に携わってみないとわからない。自然落下してくる瞼を押し上げ、かすむ視界で画面とキーボードを捉え、定期的に止まる手を鼓舞しながら必死に動かし業務にあたる。意識は半分どこかに飛んでいて、時々まるっと全部が旅に出てしまうこともある。夜勤は毎日が睡魔との戦いなのだ。

 「人間、夜は寝るもんだってのが身に染みてわかるよね、夜勤は。夜勤手当がなくてもいいから、俺はずっと昼勤がいいよ」

 「夜勤手当……」

 御子柴さんの目が光る。

 「あのー、ちなみにそれって、どのくらいもらえるんですか?」

 「月二週間やって、大体五万くらいかな」

 「五万!?そんなにもらえるんですか!?」

 「そりゃあ、皆が寝静まった夜に働いてるんだもん。昼夜逆転させてまで働くからには、それなりの報酬は出さないと誰も夜勤なんてやらないよ」

 「た、確かに。でも、五万かあ。それだけもらえれば一気に生活が潤いますよ」

 うっとりと虚空を見つめる御子柴さん。一月分の食費に当ててもお釣りが返ってくる金額だ。俺も逆の立場だったら心底羨ましがっている。しかし。

 「お金より、朝起きて夜寝る生活の方が尊いものだよ」

 「そんなものですか?徐々に慣れるものでは」

 「俺も初めはそう思ってた。だけど終始眠い、身体重い、体調崩しやすい、精神病みそうになる、曜日の感覚時々ずれる。何年たってもこんなのが日常茶飯事だよ。周りもそんな人ばかりだから、夜勤は慣れってより自分の体質に合ってるか合ってないかで決まると思う」

 そこまで言って俺は枝豆を一鞘取って、豆を口に放り込んだ。よく冷えた枝豆は適度な塩味を含んでいておいしかった。飲み込んだ後、ウーロン茶を流し込むとはーっ!と自然と息が漏れる。酒のお供の定番に上がる枝豆だが、酒でなくともウーロン茶との相性も抜群だった。

 もちろん、夜勤も悪いところばかりではない。例えば、朝に仕事が終わる関係で、日中働いていたら行くのが難しい病院や銀行などに容易に行ける。平日発売で売り切れ必死のものを、開店と同時に行くことで確実にゲットすることができる。これは夜勤ならではの利点だ。無駄に有休を消費することもない。しかし利便性だけでは夜勤のつらさを相殺できない。夜勤手当を加えても五分といったところだろう。上回るにはやはりつらいと思わない夜型の人間であることが前提となってくる。

 そう思って、はたと気づく。

 「まてよ。御子柴さんは案外いけるかもしれないな」

 「え?どうしてですか」

  串の最後に刺さった肉を箸で抜きながら怪訝な顔をする。

 「だって、深夜に家にも帰らずコンビニの置物になってるくらいだから、夜強いんでしょ」

 「置物って何ですか、置物って」

 「だって微動だにしてなかったから」

 御子柴さんが頬を膨らませる。的確な表現だと思ったのだが、お気に召さなかったようだ。

 「まあ、それはいいとして、実際のところどうなの?」

 「強くはないですよ。普段は十二時前には寝ちゃいますし。コンビニにいるのは、家に帰ってももやもやで寝れそうにない時だけですから」

 「だったらおすすめしないよ。御子柴さんが、身体がつらくてもいい!どうしてもお金が欲しい!って望むなら止めないけどね」

 「それだと私、すっごくお金にがめついみたいじゃないですか」

 「違った?五万って聞いた後の御子柴さん、夢見る少女みたいだったよ」

 意地悪な笑みを浮かべると、御子柴さんはじとっとした目を向けて言った。

 「九条さんって案外意地悪ですね」

 否定はせず、はっはっはと笑っておいた。


 

 料理は次々と運ばれてきて、あっという間にテーブルはいっぱいになった。中央に刺身の盛り合わせとシーザーサラダが居座り、その周辺をこまごまとした料理が取り囲むように置かれていく。お互いの手元にあるのが届きにくくなってからは、「それ取ってもらっていい?」「それ食べたいです」と声の掛け合いが会話の合間にはさまれるようになった。煩わしさはなく、むしろシェアし合うことで気兼ねがなくなり、普通に食べ進めるより打ち解けやすかった。これぞ居酒屋の醍醐味というべきか。

 しかし、数ある料理の中で一品だけ、御小柴さんがかたくなに独占しようとするものがあった。

「チーズ揚げ、なかなかうまいね。もう一本もらっていい?」

 食べたことがないという俺にどうぞと快く渡してくれたチーズ揚げを平らげつつ、お代わりを申し出る。

 「ええーっ、私が頼んだんですけど。欲しかったら自分で頼んでくださいよ」

 御小柴さんはそう言ってチーズ揚げの皿を背に隠してしまう。ちょこちょこからかっていたから仕返しの意味でそうしているのかと思ったが、そうではなかった。驚いたことに二皿頼んだのは俺と御子柴さんで一皿ずつにするというわけではなく、最初から二皿とも自分が食べるためだったのだ。だから御子柴さんのは単なる独占欲だった。

 一皿は運ばれてきてものの数分で平らげて、ふすまの横に積まれた空の皿の一員となり、俺がシェアを求めた二皿目もすでに半分が消えていた。七本入りと量はそこまで多くないが、スナック菓子のように食べられてはさすがに胃もたれしないのだろうかと心配でもある。当の本人は酒の力もあってか気にした様子もなく終始上機嫌だけれど。

 「御小柴さんだって俺が頼んだの食ってるよね」

 「それはシェア用。これは私専用になんですー」

 チーズ揚げだけを専用とするのはどうかと思ったが、全部分け合うと決めたわけではないし、そもそも頼んだのは御子柴さんだったので、俺はそれ以上何も言えなかった。

 どうしても食べたかったわけではなく、別に諦めるだけでもよかったのだが、御子柴さんの得意げな顔を見ていたらふいに俺の中のからかいたいスイッチがONになった。店員を呼んで、チーズ揚げを頼む。御小柴さんは勝利を確信したようにふふんと鼻を鳴らし、隠したチーズ揚げを一本摘まんで俺に見せつけるようにしてカリカリと幸せそうに食べていた。何かムカつくが、そうしていられるのも今の内だと、店員の来訪を待つ。

 ほどなくして目的の品が運ばれてくると、俺はそれをじかに受け取り手元に置いた。無論御子柴さんに取られないためだ。湯気の立ち昇るチーズ揚げは見るからに揚げたてで、絶対にうまいと確信する。一本手に取り、やけどしないように注意深く口に運ぶ。

 「んん!うまい!やっぱ出来立てだよな。外カリッカリ、中アツアツ。御小柴さんの冷めたやつもらわなくて正解だった」

 張り合って大げさに感想を述べると、御小柴さんは悔しげに口をへの字に曲げた。手に持った湯気の出ていない皿を恨めしそうに見る。形勢逆転。大人げないと思いつつも、うまいうまいと平らげた。中のチーズに舌をやられかけたが、ウーロン茶で慌てず沈静化することで危機を脱する。

 「い、一本」

 御子柴さんが人差し指をぴんと立てて懇願してきた。

 「駄目だよ。これ俺専用だもん」

 「ケチですね」

 「先に言いだしたのは御小柴さんでしょ」

 「むーっ……」

 御小柴さんが不服そうに唸って、それならと手持ちのチーズ揚げを素早く完食した。見ているだけで胸焼けを起こしそうだった。空き皿を畳に置いて、店員の呼び出しボタンに手をかけようとする。煽っておきながら、まだ食べるのかと驚愕した。

 「いいよ。あげるよ」

 十分楽しんだ俺は皿ごと御小柴さんに譲渡する。

 「いいんですか?」

 ボタンから手を離し、皿と俺を交互に見る。頷くと、御小柴さんは皿を受け取り、早速一本かじりついた。

 「おいしいです」

 幸せそうに食べる姿を苦笑しながら眺める。これが若さか。俺は次店員が料理を持ってきたら、サラダをもう一皿頼んでおこうと決意した。

 「ところで、仕事の方はどう?またコンビニで座り込まなきゃいけないようなことはあった?」

 「あー……そこまでのはないですけど、今週もいろいろありました」

 御子柴さんが肩を落とす。

 「どんなこと?」

 「あんまり聞いてて楽しいものじゃないですよ。叱られたり、嫌み言われたりがほとんどですから」

 「そういうの喋って発散するのが飲み会でしょ。先週と違って時間はたっぷりあるんだから、言っちゃいなって」

「そう、ですよね。それなら……」

 おしぼりで指の油をふき取り、御子柴さんは語り始める。





 「そうしたら、先輩なんて言ったと思います?『あらーごめんなさい。でもバックアップ取ってなかったあなたも悪いのよ』ですって!意図的にデータ消しておいてひどいと思いません?」

 「それはひどい」

 「でしょう?だからって指摘すればまたねちねち言われるからこっちは笑いながら、そうですよねーすみません、って言うしかないじゃないですか」

 「波風立てると次何言われるか分かったもんじゃないからね」

 「そうなんですよ!で、結局仕事が遅れて上司にも叱られて、帰りも遅くなったんです。もーやんなっちゃいます」

 見事なほどの負の連鎖だった。女を敵に回すもんじゃないとつくづく思う。

 俺はグラスを持ち上げようとして、中身が空なことに気付いた。そういえば最後に注文をしたのはいつだっただろうか。机の上には一時間前に頼んだアイスの器と飲み物のグラスがそれぞれ置いてあるだけで、料理で埋め尽くされていたころと比べると、だいぶすっきりとしていた。

 同じく、不平不満をあらかた吐き出してすっきりした様子の御子柴さんは、グラスに残ったカシスオレンジだかをグイっと煽ると後ろの壁に背を預け、トロンとした目をしていた。

 酔いつぶれたおやじみたい……って言ったらきっと怒るだろうな。

 「御小柴さん。もう十一時だし、そろそろ帰ろうか」

 携帯の画面を見ながら言う。お開きの合図は、決まって俺になりつつあった。

 「もうそんな時間ですか」

 間延びした声を出し、目を何度も瞬かせて腕時計を見る。

 「あ、本当だ。そうですね、名残惜しいですが」

 「よいしょっと」と掛け声を出しながら、御子柴さんはカバンを手に取って立ち上がった。少々ふらついていたが、靴を履く動作もしっかりしているし、まっすぐにも歩けているみたいだったので、泥酔状態ではないようだった。念のためよろけてもいいように横に付き添ってレジへ向かう。

 レジにいた店員に部屋番号を告げると、棚に置いてある伝票を持ってきて金額を読み上げた。

 「税込み三万二千五百円です」

 「うっわ……」

 顔が引きつる。たった二人での飲み会だし、経験上いくら飲み食いしても2万もいかないだろうとたかをくくっていたが、大幅に予想が外れてしまった。というか、先輩と男二人でもここまでの金額になったことは一度もないのに、一体何が起きたというのか。

 仕事で失敗したときに感じる、背筋を冷たい物が通るような感覚を味わう。店員が俺の心情を察してか、

 「お高いお酒や料理を頼まれているみたいなので……」

と控えめに告げてきた。そういえば中盤から後半にかけて俺も御小柴さんも、これ食べたい、これ飲みたいとあまり値段を見ずに頼みまくっていたような。特に御子柴さんは店員が訪れるたびに酒を注文していた気がする。

 隣を見てみると、御子柴さんは口を空けて固まっていた。金額の多さに酔いが吹っ飛んでしまったようだ。さっきまで赤かった顔が心なしか青ざめてみえる。きっと俺と似たような感覚を味わっていることだろう。

 何はともあれ俺は財布を取り出し、トレーに万札三枚と五千円札を一枚載せた。どれだけ後悔しても結局は自分たちがやったことだから払わないわけにはいかない。念には念を入れて多めにお金を持ってきてよかった。

 「わ、私も払いますよ!」

 我に返った御小柴さんがカバンから震える手で、ピンク色のいかにも女性らしい長財布を取り出す。

 「いいよいいよ。奢るって」

 「いえ!そういうわけには!」

 金額が金額だけに食い下がってくる。ただ俺にも意地というものがあって、社会人なりたてで一人暮らしをしている女性に、この金額を割り勘で済まそうなどとは言えるはずもない。

 「だったら今回は俺に払わせて。次からは割り勘にしよう。悪いけど、これ以上は譲れない」

 真剣な表情で諭すと、御小柴さんが口ごもる。もともと今日の食事代は全額払う気でいたし、今後もそのつもりだったが、こうでも言わないと御子柴さんは引き下がってはくれなさそうだった。店員がどうしたらいいか困っているようだったので、トレーに乗せた金額を指でさし会計を済ませるように促した。

その通りに動いてくれた店員から、お釣りを受け取る。

 「ありがとうございましたー!」

 店員の声を背に、二人で店を出た。

 外は真っ暗だったが、大通りからはいまだ車の音や人の声が聞こえてきた。彼らにしたら夜はまだまだこれからなのだ。二次会、三次会と夜は続いていく。明日は日曜日だから、仕事にも影響が出ない。俺たちももう少しいてもよかったかなと思いながら背伸びをする。

 「あの、ごちそうさまでした。すみませんあんな大金払わせてしまって」

 御子柴さんが申し訳なさそうに深々とお辞儀をする。俺は下げられた頭のつむじを観察しながら手を振った。

 「いいって。大金でもないし。実家暮らしの独身貴族だから、あれぐらいどうってことないよ」

 「次は割り勘、というか私が奢りますから」

 「割り勘、ね。もし御小柴さんが俺以上に稼ぐようになったら、その時はありがたく奢ってもらうことにするよ」

 ま、あり得ないだろうけど、と冗談交じりで付け加える。

 「言いましたね?絶対奢ってみせます」

 よくわからない意気込みをみせる御子柴さんに、俺は笑ってみせた。

 「楽しみにしてるよ」

 多少のイレギュラーはあったものの、御子柴さんとの飲み会は、こうしてつつがなく終わりを迎えた。

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