第2話 友達 1
「ゼロ災でいこう!ヨシ!!」
「「「「「「……ゼロ災でいこう。ヨシ」」」」」」
恒例のゼロ災唱和で仕事が始まる。いつもより調子がよく声に張りのある俺に比べて、後に続いた作業者の掛け声は、今週が夜勤番だからか覇気が感じられなかった。遠山職長がいれば建前上やり直しをさせるところだが、夜勤は班長以下で回しているため、俺のみの裁量にゆだねられる。夜勤のしょっぱなから大声張り上げろと言うのも酷な話だし、ヘイトを溜めて仕事に支障をきたされても困るので、甘めの採点を下し俺は特に何も言わなかった。一人場違いな空気を放つ俺に奇異の目を向ける作業者たちがそれぞれの作業場にだらだらと散っていくのを、笑顔で見送った。
詰所に戻ると、黒直の班長の林田さんが帰り支度をしているところだった。
林田さんは、俺が入社する少し前に中途入社した先輩で、俺が班長になる前、班長補佐をやっていた時に、班長としてやらなければいけないことを教えてくれた教育者であり、同じ立ち位置になった今は、悩みを同じくする戦友でもある。部署の中で俺が一番信頼を寄せている人だ。
「お帰りですか?」
赤みがかった茶髪の後ろ姿に声を掛けると、冷蔵庫からペットボトルを取り出していた林田さんが顔を上げる。
「おー!もう帰るよー。さすがに疲れた」
林田さんは笑顔に披露の色を滲ませてそう言った。昼勤の定時が十七時半で今が十時だから、四時間半の残業を終えた後だ。無理もない。
「九条君は元気そうだねー。詰所まで声響いてたよ」
「金曜の夜勤ですから。明日が休みとなればテンションも上がりますよ」
「何?なんか予定でもあるの?」
林田さんが興味ありげに尋ねてくる。俺はどう答えようか迷って、
「夜に友達と飯食いに行くんですよ」
とだけ答える。
「女?」
林田さんの発した一言に、胸を貫かれる。鋭い、というよりお決まりの返しをしてきただけだろうが。何をするにも個人の名を示さなければうちの部署の人は大抵そう茶化してくる。男職場の悲しいサガのようなものだ。
俺の場合、この後に「違いますよ!」と続けたことしかないのだが、今回は違った。
「あー……まあ、そんなところです」
「マジで!?」
林田さんにとっても意外だったらしく、林田さんは目を見開いて驚いた。
「彼女?」
「いや、だから友達ですって」
「そうかー。ついに九条君にも春が来たかー」
林田さんは感慨深そうに大げさに頷く。俺の抗議は当然のごとく流されてしまった。
友達となった御小柴さんから、土曜の夜に食事に行きませんかとメールがあったのは、つい数時間前の事だった。あらかじめ今週が夜勤であることを伝えていたからか、俺の起床時間に合わせてメールが送られてくるあたり律儀な性格をしている。2度目に会った時に今度食事でもとは言っていたけど、まさか翌週に誘われるとは思っていなかっただけに初めは戸惑いもしたが、純粋に嬉しかったし、断るような予定もなかったので快く了承した。
楽しみな予定に、今日が金曜日であること。この二つが重なれば、舞い上がってしまうのも無理はないだろう。もし時間を早く進められる術を知っていたら、いの一番に実行しているに違いなかった。
「ちゃんと結婚式呼んでよ。あ!あれやるわ俺。会社の先輩代表でスピーチ!」
林田さんがすこぶる楽しそうに申し出る。俺は無駄だと知りながら「だから友達ですって」と反論しながら林田さんと共用の班長専用デスクについた。御小柴さんと結婚なんて、話が飛躍しすぎている。
確かに可愛いけどさ。
「いいよなー、若者は夢があって。俺なんか彼女と遠距離恋愛する羽目になるかもしれねーのに」
その言葉に、パソコンの電源ボタンに伸びていた手が止まる。
「そういえば何か進展ありました?」
「いんや、何にも。ほぼ俺だっていうところから一切音沙汰無し。いい加減早く決めてほしいんだけどな。他の部署はほとんど決まってんのにさ。行くなら行くで早く言ってもらわないと準備が進まねえよ」
林田さんが呆れたように不満をあらわにする。
良い返しが思いつかず、結局「そうですよね」としか言えなかった。
俺が務めている会社は本社に当たり他に分社はなかったが、三年前に分社設立の計画が持ち上がり、来年の十月には記念すべき第一工場が稼働開始の予定になっていた。その関係で、本社では各部署で選抜された優秀な人材を分社の生産開始までの準備、現地で採用した作業者の教育のために分社へ出向させることになっていた。
期間は来年一月から約三年間。進捗状況が芳しくなければ期間は伸び、下手すると一生戻ってこれない可能性もあると噂されている。林田さんは、その分社出向に予定されている人だった。正式な任命はまだ上司や役員が決めあぐねているためされていないが、まず間違いないと言われている。班長としての経験年数、実績、本人のポテンシャルからして納得の采配だった。班長という立場を抜きにしても部署内で一番仕事ができる人でもある。入社してからの一番の理解者がいなくなるのは寂しくもあったが、会社の立ち上げに尽力できる人物はうちの部署に他にはいない。
まあ、本人が志願したわけではなく勝手に名前が挙げられた上、付き合っている彼女に一緒に来るかと尋ねて、結婚が決まっているわけでもないのについて行けるかと一蹴を食らった林田さんは気の毒でならないが。
林田さんは、「ホントに参っちゃうよー」と手に持ったペットボトルのラベルを剥がした。
「九条君。こっちのことも大変だろうけど、俺が向こうで困ったら助けてね」
「そりゃあもちろん。いくらでも手助けしますよ」
「ことあるごとに電話するから。『九条君資料送って!あのファイルどこだっけ!俺の代わりにこの仕事やって!』って」
林田さんが電話をかけるように右手を耳に当て、おどける。
「最後のだけなんか引っかかりますけど、暇ならかまわないですよ」
「マジで?じゃあ暇を見計らって頼むことにするわ」
底抜けに明るい口調でそう言うと、林田さんはラベルとペットボトルを分別してゴミ箱に捨てた。自分の仕事を無意味に振るような人ではないので、冗談めかして言っていることはわかっていた。電話だってよっぽど困った時ぐらいしかかけてこないだろう。それでも、助けを求められたらできる限りのことはしてあげられればと思った。
「さて、じゃあ俺帰るわ!ごめんね、仕事の邪魔しちゃって。お疲れ!」
仕事の邪魔も何も、俺はまだパソコンすらつけていなかった。
「いえ、お疲れ様です!」
頭を軽く下げると、林田さんはそれに応じるように手を上げて詰所から出て行った。
話していた相手がいなくなると、それまで気にならなかったフォークリフトの走行音がやけに大きく漏れ聞こえてきた。後退時になる『バックします。ご注意ください』の機械音が、『バックしま』と中途半端なところで途切れ、プルルル、と前進の走行音に切り替わり、徐々に遠ざかっていく。
作業者に遅ればせながらようやくパソコンの電源に指をかけると、俺はふと思った。
聞いた話では、来年異動になった人間が予定通り三年経って戻ってきたら、入れ替えで別の誰かを同じく三年出向させるらしい。まあ、今回の異動で抜けた穴は当然補充するから、ただ帰ってくるだけだと分社は人数が一人減ってしまい、本社側で一人増えることになってしまうので、バランスをとるためにはおかしな話ではない。
問題は、そうなったときにうちの部署で真っ先に誰の名前が挙がるかだ。
「多分、俺だよなあ」
班長である林田さんが帰ってくるのであれば、同格の班長との入れ替えが普通だ。林田さんの代わりに班長職に就く奴が行く可能性もなくはないが、経験年数からしてその限りなくゼロに近い。
ため息が漏れる。生まれてこのかた、旅行などで一時的に離れることはあっても基本この地に根を生やしてきた身としては、早くて3年後に異動になるかと考えると複雑な心境だった。会社の命令とはいえ、ハイ喜んで!とは言えない。新しい環境、職場、人間関係などの不安もある。林田さんもきっと同じようなことを考えたことだろう。
とはいえ、林田さんには悪いが、俺にとってはまだ先の話だった。気に病むには少々早すぎる。三年後に確約されたわけでもない。今は今日分の仕事を滞りなく終わらせることと、明日着ていく服のことでも考えていればいい。遠い未来より近い未来だ。
俺はパソコンのロックを解除するためのパスワードを打ち込んで、気持ちを切り替え仕事を開始した。
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