第1話 深夜のコンビニは出会いの場 3
金曜日。ふと、深夜に目を覚ます。枕元の携帯に手を伸ばし画面を確認すると、1時15分と表示されていた。
確かに寝ていたはずなのに、そうとは思えないほど思考がはっきりしていた。なぜこんな時間に目を覚ましたのかも瞬時に把握できる。俺はベッドから降り、身支度をして、家を出た。
外は小雨が降っていた。屋根や地面や草木を雨粒が叩いてぱらぱらと軽快な音を響かせている。反面、湿度が上がってじめっとした暑さが肌にまとわりつき、不快感が募る。帰ったらシャワーを浴びたほうがよさそうだと思いながら、傘を差し、駅前の大通りまで続く一本道の坂を、いつもよりほんの少し早足で下っていく。
向かう先はコンビニ。そう、目的は御子柴さんだった。
同じ時間に同じ場所へ行けば、彼女にまた会えるんじゃないか。そう思ったのはベッドに入ってすぐのことだ。その時の俺は名案だと指を鳴らすでもなく、ああ、まあ可能性はあるかもね程度の軽い気持ちだった。よくコンビニの前で座り込んでいると言っていたから、もしかしたら今日もいるかもしれない。どうせ明日は休みだし、もし起きられたのなら試しに行ってみようか。そう考えながら目を閉じたのを覚えている。
しかし、まるで気にしてないような態度であったにもかかわらず、目覚ましも掛けてないのに起きた。そして今俺は深夜の住宅街を歩いている。なんだかんだで態度に反して、心の奥底ではかなり期待していたということか。現に今も歩を進めるたびに心臓の鼓動が早まるのを感じていた。彼女がいるかいないかが気になってしょうがない。いたとしたらと考えると、無意識に口角が上がり、いない場合を想定すると、ため息が漏れてしまう。まるで初めてデートに向かうときのような心境だった。
デートしたことないけどさ。
はやる気持ちを抑え大通りに出る。金曜日ということもあってタクシーを筆頭に車もそこそこに走っていた。両脇を連ねる店はどこも閉まっているみたいだったが、シャッターの降りた店の前にもちらほらと人の群衆が形成されている。飲み会をやっていたと思われるスーツ姿の集団が目立つ中、大学生くらいの集団もみられる。ほとんどの人が傘をもっておらず、濡れることを気にするでもなく談笑していた。
真夜中だということを忘れてしまいそうな光景を眺めながら歩くと、見慣れたコンビニが見えてきた。受験の合格発表を見るときのような緊張が走る。手に汗がジワリとにじむ。俺は待ちきれずに離れた位置から首を伸ばして目を凝らし、御小柴さんらしき人はいないかを確認した。主に御小柴さんが座っていたゴミ箱の横辺りに視線を巡らせるが、そこにいたのは3人組の男性で、なぜかコンビニ側を向いて立っていた。普通背を向けるものだろうと若干不思議に思ったが、今は野郎のことなどどうでもよかった。別の場所かと左右に動き角度を変えてコンビニ周辺をくまなくチェックする。しかし、そうまでしなくともコンビニの前は開けていて、パッと見ただけでそこに何人いるかは把握できるわけで。
わかっていながら、それでも俺は諦めきれずに無駄な抵抗を試みていた。つまり結果は。
「いないよなぁ……」
がっくりと肩を落として呟き、それまで動いていた足は自然と止まった。胸の高鳴りが嘘のように収まっていく。何やってんだろ俺、とこの場にいる自分がひどく滑稽に思えて、恥ずかしさを紛らわすように頭を掻く。
そりゃそうだ。彼女だって常駐しているわけじゃない。いる時もあればいない時もある。時間だって毎日深夜帰りでもないだろうから一昨日がたまたまこの時間だっただけかもしれないのだ。彼女が決まった行動をしていないのなら、会える会えないは運でしかなく、それも会える確率はかなり低い。当然、そんなことはわかっているつもりだった。
しかし、根拠のない自信がどこからか湧いてきて、案外いるんじゃないかと過度な期待をしていたのも事実。それだけに、現実を知った今、その反動によるダメージが重くのしかかっていた。
彼女は今頃、自分に会うためコンビニに向かった馬鹿な男のことなど毛ほども知らずにぐっすり眠っていることだろう。それを思うと、余計に空しさが増した。
歩道に立ち止まり落胆する俺の脇を、スーツ姿の集団が通り抜けていく。「やっぱあいつ付き合い悪いよな。もう帰っちまいやがって」と中心にいる男性がにやにやして言うと、周りを囲む男女がゲラゲラ笑いながら「ホントホント」と同調する。続けて「そういやあいつさ……」と誰かが言ったあたりで、車が数台通り過ぎて、会話の内容が耳に届かなくなる。爆竹でもはぜたかのような馬鹿笑いが聞こえたのは、そのすぐ後だった。輪の中にいない誰かの悪口で盛り上がっているのだろう。
俺には帰ったところで悪口を言われる相手もいなかった。駅方面に向けて徐々に遠ざかる笑い声に背を向け、帰ろうとその場で踵を返そうとする。
とその前に、せっかくここまで来たのだからコンビニで夜食でも買っていくことにしよう。
「いらっしゃいませー!あっ!」
店内に入ると同時に、レジに立っていた女性店員が声を上げ、なぜかほっとしたような表情で親しみのある笑顔を向けてきた。家から近いためよく利用するからか、店員の何人かとは顔なじみになっている。その中でもこの女性は俺が利用する時間帯と勤務時間がかぶっている関係で特に遭遇頻度が高い。軽く会釈し、意味もなく全部の棚を回ったのち、豆乳のパック飲料とサンドイッチを手に取りレジに向かった。
「お預かりします!」
女性は胸元の「上末」と書かれた名札を光らせ、慣れた手つきでバーコードをスキャンしていき、商品を袋の中に詰めていく。動くたびに揺れるポニーテールが可愛らしく、無意識に目で追ってしまう。と言っても彼女の方が俺より少し年上だったはずなので、可愛いは失礼か。
「また、眠れないんですか?」
清算を済ませて袋を手渡されると、女性━━上末さんが眉をハの字にして心配そうに尋ねてきた。俺が深夜に来るときは決まってそれが理由だからだろう。軽度ではあるが、俺は不眠症を患っていた。
「そんなところです」
一昨日会った女性を探しにきたとはとても言えず、例にならった返答をする。
「そうですか。あんまり続くようなら病院に行った方がいいですよ」
「はは、そうですね。ひどくなるようならそうします」
嘘とは知らずに上末さんは俺の身体を気遣ってくれた。だましてしまったようでほんの少し罪悪感。とはいえ事実を言ったら引かれるだろう。それが原因で利便性の高いこのコンビニに来づらくなっても困るから、致し方あるまい。
ボロを出さないうちに、それではと身体を90度ひねる。すると上末さんは「あ」と一文字だけ発した。振り向くと、まだ何か言いたそうな顔でこちらを見つめていた。
「どうかしました?」
出かけた足を引き留めると、上末さんはおずおずと尋ねてくる。
「あのー、一昨日この時間に来られた時、お店の前で長いことお話しされてましたよね?」
う、と顔が微かにゆがむ。そういえば、あの日も上末さんがレジにいたっけ。
「あ、はい」
こればっかりはだましようがなく素直に白状する。俺たちがいたごみ箱の横は座っていれば本棚に遮られ大抵の場所からは見えないが、本棚の隙間に視線を走らせればわずかに見ることはできるし、近づきさえすれば姿をはっきりと確認することだってできる。店員だってずっとレジに立っているわけじゃないから、商品の陳列だとかで移動したときに目についてもおかしくはない。
「すみません。ご迷惑でしたよね。以後気をつけます」
注意喚起を受けることを悟って、先手を打って謝る。まさか、営業妨害だとかで出禁になったりはしないよなと内心ひやひやしていると、予想に反して上末さんは怒っている様子もなく、慌てたように手をぶんぶんと振って言った。
「いえ!そういう方、他にもたまにいらっしゃいますので、迷惑行為さえしなければ何も言いませんから」
夜通し店先で話し込んでいるなんて十分迷惑のような気もするが、一応は不問のようだった。上末さんからの慈悲のある言葉に、俺は小さく安堵の息をもらす。しかし、だとしたらなぜ上末さんは一昨日のことを聞いてきたのだろうか。疑問符を浮かべていると、上末さんがカウンター越しに顔を寄せてくる。甘い香水のいい香りがした。
「その、それであなたと話していたのって、あの人じゃないですか?」
小声でそう言い、ちょいちょいと外を指さす。ドキリとして、首を瞬時にねじる。が、すぐに、ん?と眉根を寄せた。上末さんの指す先には、店内に入る前にも見たゴミ箱の横で立っている3人組の男達の姿があった。3人とも今日初めて見た顔で、もちろん会話をしたことはない。どういうことだ?上末さんが初めに言った言葉から、『あの人』が御子柴さんを指していることは間違いないはずなのだが、あの3人のうちの誰かと勘違いしているのだろうか。似ても似つかない以前に性別から違うのだけど。
「下です、下」
俺の視線を追った上末さんが本棚に隠れた辺りをしきりに指す。意図が読めないながらも、言われた通りの場所をわずかな本棚の隙間から様子を伺うと、外からは男の壁に阻まれて見えなかったが、そこには3人とは別に座り込んでいる誰かがいるようだった。上末さんが指す人物は座っている人の方らしい。
後ろ姿がわずかに確認できる。背中に流れる長い黒髪。
はっとした。まさかと思って店を飛び出す。自動ドアが開くと同時に流れる音を背に、小雨の中誰かを囲むようにしている男達の後ろから内側をのぞき込む。
その瞬間、一昨日のことがフラッシュバックした。全身が熱くなり心臓が大きく跳ねる。酒でも飲んだかのように脳が揺れた。
そこには、一昨日会った時と同じ、スーツ姿の女性が膝を丸めて座っていた。
思わず叫びそうになる。すぐにでも駆け寄りたい。しかし、顔が見えない以上万が一人違いであることを考慮し、控えめに名前を呼んでみることにする。
「御子柴さん?」
周りの男達が振り向くより早く、女性が顔を上げた。女性は声の出所を探るように左右に首を動かし、俺と目が合うと、頬を笑顔の形に緩ませた。
ああ、やっぱり。一度しか会っていなくても、俺の脳には印象的な出来事と一緒に彼女の顔が鮮明に記憶されていた。
間違いなく、その女性は御子柴さんだった。核心を得た俺は男達の脇を強引にすり抜けて近寄った。御小柴さんがゆっくりと立ち上がる。
「よかった……また会えました」
御小柴さんが目元をぬぐう。よかったのはこっちも同じだった。まさか本当に会えるとは。一度諦めていただけに喜びもひとしおだった。
さてこちらからはなんと言おうかと思案していると、後方から視線を感じた。振り返ると男達が、なんだお前、と言いたげな目を俺に向けていた。いきなり割って入ればそりゃそうなるだろうが、そういえば、彼らは一体なんなんだろう。
「すみません、彼女がどうかしましたか?」
ガラの悪い風貌且つ学生に見えたから、わざわざ敬語で話す必要はなさそうだったが、面倒ごとは避けるべきだと思い、俺は笑顔を顔に貼り付けて大人の対応をする。中心にいたロン毛の男性はそんな俺にガンつけると、「なんだよ連れいんじゃん」と御子柴さんに向かって吐き捨て不機嫌そうに歩いていってしまった。他の二人も、顔を見合わせたのち舌打ちをしてあとを追っていった。
「困ってんならウチ来ない?って誘われました」
御子柴さんが去っていく男たちの背中を警戒するように見ながら言った。
ああ、そういうことか。つまりナンパされていたらしい。
「ほらぁ、だから危ないよって言ったのに」
俺はそら見たことかと彼女を叱る。若干冗談交じりな口調になってしまったのは、御子柴さんに会うことができて浮かれているからだろう。
「だって、九条さんにどうしても一昨日のことを謝りたかったから。それに、昨日はこんなことなかったんですよ」
御子柴さんがお尻の汚れをはたきながら反論する。
「え、昨日もいたの!?」
「はい。と言っても徹夜の翌日にはさすがに来ないだろうと思って長い時間は待っていなかったですけど」
御子柴さんの予想通り昨日は帰ってすぐにベッドに倒れ込み、朝まで爆睡していた。待ち合わせをしていたわけではないから責任を感じる必要はないのだが、なんとなく待ちぼうけを食らわせてしまったみたいで罪悪感が募る。
「この前はすみませんでした!私、九条さんのこと全く考えないで自分勝手に朝までベラベラと話し込んでしまって」
深夜の雨空に、御子柴さんの謝罪が響き渡る。コンビニの店内から、レジに立つ上末さんが興味深そうな視線をこちらに向けていたのがちらりと見える。
「ああ、そんなの別に謝る必要なんてないよ。付き合ったのは俺の意思なわけだし、それに結構楽しかったし」
実際もう少し話をしようと誘われたとき、断ろうと思えば断れていた。結果はどうあれそれをしなかった時点で、俺に御小柴さんを責める資格はないのだ。
「俺こそ、フラフラなのに送ってあげられなくてごめん。あのあとちゃんと帰れた?」
「あ、はい。玄関で力尽きて寝ちゃいましたけど。というか、それこそ九条さんが謝らないでください。仕事があるのに送れるわけないんですから」
「そこはほら、男として仕事に遅れたとしても送るべきだったのかなって思ってさ」
「やめてください!そんなことされていたら今頃私申し訳なさで死んでいますよ!」
そんな大げさなと思ったが、謝るために昨日今日とこんな時間に来るかどうかもわからない相手を待っていたくらいだ。死にはしないにしても、その時の謝罪はこんなものでは済まなかったようにも思う。
「まあ、無事帰れていたのならよかったよ。帰り際に事故とかに巻き込まれていないかとか、道端でぶっ倒れてないかとか心配だったんだ」
「かなり危なかったですけど、なんとか。九条さんはお仕事の方は大丈夫でしたか?」
「俺もなんとか無事にやり過ごしたよ。それでもさすがにその日は早めに帰って即寝たけどね。10時間ぐらい爆睡だったかな」
御小柴さんは申し訳なさそうにしながらも、安堵したように胸に手を当て小さく息をはいた。
「仕事に支障が出ていたらどうしようって、ずっと気が気じゃなかったんです。何事もなかったのならよかったです」
そう言うと、御子柴さんは背筋を伸ばし深々と頭を下げた。
「改めて、本当に一昨日はすみませんでした。それと、愚痴に付き合っていただいてありがとうございました」
「いやいや。どういたしまして」
なんとなくつられて俺も頭を下げると、頭上から舞ってきていた雨粒がぽつりと首筋にあたった。一昨日の別れ際にするはずだったやり取りを交わす俺たちを、通りすがりのタクシーがまぶしく照らしていった。
「ところで、九条さんはどうしてここに?また、眠れないんですか?」
雨をよけるために軒先に移動した俺に、御子柴さんが先ほど上末さんにも言われたことを尋ねてくる。御子柴さんに嘘をつく必要はないだろう。
「いや、君にまた会えるかなって思ってふらっとね。ドタバタで別れたから心残りもあったし」
「そうでしたか」
御子柴さんが照れくさそうに前髪をいじる。
「ほんの思い付きだったけど、来てよかったよ。こんなに早く再開することができて、御子柴さんが無事だったこともわかった。ついでに悪い虫からも守れたみたいだからね」
「あ、そういえば、その件はお礼言ってなかったですよね。ありがとうございました」
「別にいいけど、これに懲りたら今度からは寄り道せずにまっすぐ帰りなよ。世の中悪いこと考えてる奴はたくさんいるんだから。年頃の女の子なんだしもっと危機意識を持たないと」
やんわりと注意喚起。あえて「年頃の女の子」としか言わなかったが、それに加えて御子柴さんは可愛い。遊んでいる風ではなくおとなしめではあるものの、そこに付け込んで近づいてくる男も大勢いる。今まで声を掛けられなかったのが奇跡なのだ。
「わかった?」
「そう……ですね。さすがに今日は怖かったので今後は控えようと思います」
よし、と頷く。できれば控える、じゃなくてやめると言って欲しかったが、怖かったと思っているのなら言葉以上の注意は向けてくれることだろう。
「ところで、九条さん明日はお休みですか?」
「ん?そうだけど」
「じゃあ、この後の予定とかは」
「そりゃあ帰って寝るだけだけど、それが?」
「あの、よかったらこの後またお話に付き合ってもらったり……できませんか」
舌の根も乾かぬうちに御子柴さんはそう言った。俺が呆れてどんな顔をしていいかわからないでいると、御子柴さんが慌てた様子で付け足す。
「九条さんと一緒ならナンパにあう心配もないじゃないですか。一昨日のように夜通しには絶対にしませんし、ほんの少しでもいいですから」
あれだけ話して、まだ話したりないというのだろうか。どれだけ話題を隠し持っているのやら。それとも会っていなかった二日間でまた話のネタになるようなことがあったのか。
「御子柴さん、一昨日オールで昨日もこの時間にここにいたんでしょ。その上今日もって、さすがに身体によくないよ。それに仕事帰りでしょ?」
「私なら大丈夫です」
「だとしても、今日はおとなしく帰ろう。嫌ってわけじゃなく、御子柴さんの為にもそうした方がいいと思う」
諭すように言う。本人には見えていないだろうが、御子柴さんの目元には薄暗闇でもはっきりとわかるほどのクマが浮かんでいた。口では大丈夫と言っていても身体はその反対であることを物語っている。ここは一昨日のように流されてしまうのではなく、きっぱりと断っておくべきだった。いくら御子柴さんが、「だめですか?」と訴えるように上目遣いをしてこようとも、俺は決意を覆すつもりはなかった。
しかし、彼女も粘る。俺の気が変わるのを待っているかのようになかなかはいとは言ってくれなかった。或いは俺を納得させる案でも考えているのかもしれない。
平行線の状況に困り果てた俺は、だったら、と一計を案じることにした。
「メールでじゃだめかな」
押し黙っていた御子柴さんがきょとんとして、訊ねてくる。
「メール、ですか?」
「そう。電話でもいい。絶対に今である必要がないのなら、連絡先を交換して後日メールなり電話なりで話そうよ。それならいくらでも付き合うしさ。御子柴さんが嫌でなければだけど、どうかな」
「あ、はい!メール、はい!嫌じゃないです!」
御小柴さんの反応は早かった。顔を赤らめながら何度も頷き、いそいそとカバンの中をまさぐって、ストラップも何もついていないシンプルな白い携帯を取り出すと、それを両手で差し出してくる。
「お願いします!」
「うん。でも、操作わかんないから、メルアドの画面まで進んでくれるとありがたいな」
「あ、そうですよね」
御小柴さんはまごつきながら携帯を操作し、緊張した面持ちでもう一度差し出してきた。俺はそこに記されたアドレスを携帯に打ち込み、空メールを送信する。
数秒して、御小柴さんの携帯が震え、画面の左上に新着メールの着信を知らせる封筒のマークが表示される。
「メールはオッケーと」
「電話番号はアドレスの下にあります」
「ああ、これね……ワンギリするよ」
画面を切り替えテンキー11桁の数字を入力し発信ボタンを押す。再度御小柴さんの携帯が震えたのを確認して、通話を切る。
「これで今日はもういいよね?」
御小柴さんのメールアドレスと電話番号を電話帳に登録しながら言う。
「はい!あの、いつでもメールしていいんでしょうか」
御子柴さんが恐る恐る聞いてくる。
「すぐ返事できる時とできない時はあるけど、それでよければ24時間いつでもいいよ」
「わかりました。それと……会って話してもらうこともできるんでしょうか」
「もちろん構わないよ。俺もたまには会いたいな。深夜じゃなくて、もっと早い時間にご飯でも食べながらさ」
「じゃあ!今度食事に行きましょう!」
息巻く御子柴さんに、俺は思わず笑ってしまう。
「いきなり?でも、いいね。楽しみにしてるよ」
携帯をポケットにしまう。プライベートでアドレスの交換をしたのは何年ぶりだろうか。仕事でなら新人が入るたび、他部署の人とかかわりをもつたびにしてきたけど、プライベートとなると学生時代まで遡ることになりそうだった。社会人になると仕事以外の関係は築きにくいとよく言うが、まさしくその通りだ。そう思うとこの出会いはかなり貴重なのかもしれない。データが一つ増えたところで重さが変わるわけがないのに、それを自覚した前と後では携帯のしまわれたポケットの重さが違うように感じられた。
視線を上げると、御小柴さんは画面を直視したまま神妙な顔をしていた。
「どうかした?」
携帯を横目で覗き込む。続柄の欄でカーソルが点滅していた。
「私たちって、友達でいいんでしょうか」
御子柴さんにそう聞かれ、どうなんだろうと腕を組む。俺は面倒だから名前と連絡先を入れただけで登録してしまって深く考えていなかったから、改めて聞かれると迷う。知り合い。顔見知り。或いは深夜仲間とかか。どれもしっくりこない。それにどれも他人行儀だ。
「いいんじゃない?友達が一番無難だと思う」
「そうですよね。友達……っと」
携帯に友達と入力し終えた御子柴さんは、えへへ、と嬉しそうにはにかんだ。
「引っ越して、初めての友達です」
そういえば一昨日、引っ越したばかりでまだ一人も友達がいないと言っていたのを思い出す。なんだかむず痒かった。友達とはいえど、彼女にとって特別な存在になれたような気がした。
その後少しだけ会話を交わして、俺たちはお互いの家路についた。帰り際、「またね」と俺が言った後にした、御子柴さんの満点の笑顔がいつまでも脳裏に焼き付いて、俺は小雨が降る中を軽快な足取りで進んでいった。
コンビニに傘を忘れたのに気づいたのは、翌日だった。
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