第10話

 わたしは、一心不乱にキーボードを叩いていた手を、止めた。造り上げていた世界が現実に溶けて消えていく。ここに居る自分の輪郭がはっきりするにつれて、わたしは思った。こんなシーンは、要らない。キーを押し、消えていく文字を追う。まだこんなにも鮮明に、あの頃の自分たちが描けることに少し驚いていた。どうしてだか喧嘩腰になってしまうわたしと晴花。それを楽しそうに見ている沙月。それさえも嘘だったのだろうか。わたしたちはずっと、虚構の中で笑ったり泣いたりしていたのだろうか。

 ぱん、と手を叩けばこの虚構が終わって、やれやれ、お疲れさまでした、と顔を見合わせて笑えないだろうか。そんな幻想に縋るほど、わたしはもう疲れていた。

 わたしは頭を抱える。その時、携帯が鳴った。晴花からだった。わたしは通話ボタンを押し、もしもし、と小さく言った。

「夕理? 起きてた?」

「うん」

「ちょっと、話がしたくなって」

「どうした?」

「あたし、もう嫌だ……沙月のこと、許せないのが嫌だ」

「……そっか」

「本当はもう、いいんだ、あたし。最初はね、沙月のこと殺したいくらい嫌いだって思ったし、酷いことならなんだってしたかった。でも、自分の感情を沙月にぶつけるたびに、自分がどんどん最悪になって、もう、辛いんだよ。でもどうやってやめていいかわからない。どうしたらいいんだろうって、思って」

「……うん」

「なんで、こんなことになっちゃったんだろうって」

「わたしも今、同じこと考えてた」

 電話口の向こうで。晴花は鼻をすすった。勝手なものだった。わたしも彼女も、沙月も。

「どうしたらいい?」

「もうやめよう、全部」

 わたしは静かな声で言った。

「明日三人で顔を合わせて、それでもう全部終わりにしよう。沙月はもうもとに戻らないし、わたしたちも戻らない。でも、これ以上は、もう、やめよう」

「……うん。そうだね」

 絞り出すように、晴花は言った。それから少し笑って、彼女は続けた。

「さっき、夢を見たよ。沙月が手を叩くんだ。はい、ここまでって。あたしたちは演技をやめて、あんたが書いた脚本を覗き込むの。夕理の脚本には、あたしと沙月が一緒に買った万年筆でたくさん書き込みがしてある。ココア色だって、沙月が言い張ってたあのインク」

 わたしは、花柄のノートにびっしりと並んだ自分の字を見下ろす。


 思い出すのは、去年の四月。

 わたしの十七歳の誕生日のことだった。

――夕理ちゃん、誕生日おめでとう! これねえ、はるちゃんと一緒に買ったんだ。ね?

――奮発したんだから大事に使えよ。

 沙月に手渡された箱を開くと、黒い万年筆と、十本の予備のインクが入っていた。わたしはキャップを開け、ノートに線を引く。

――凄い色だな、これ。

――わ、ほんとだ。

――晴花お前……知らなかったのかよ。

――インクの色は沙月に任せたんだよ。

 沙月はインクの色を見て、にこにこと笑った。

――ココア色だよ。夕理ちゃんココア好きだから。

――ココアと言うか……。

――錆色だなあ。

 それはどう見ても赤茶けた、錆の色だった。

――ココアだよう。

 わたしと晴花の言葉に沙月は口を尖らす。わたしはそれを見て笑った。

――でも、嬉しい。ありがとう。大事に使う。


 こんなことになっても、この万年筆だけは手放せなかった。わたしが二人を好きだった証だ。二人がわたしを好きだった証だ。楽しかった記憶も、これからの約束も、全てこの錆色のインクで書いてきたのに。

「真っ赤な嘘なら良かった。全部」

 晴花は言った。わたしは何も言わなかった。晴花は、ふ、と息を吐き、少し明るい口調で言った。

「ごめん。ありがとう。また明日ね」

 おやすみ、と言って電話を切った。

 これで良い。これで良いのだ。わたしは目を伏せ、手元にあった万年筆を握りしめた。


     *


「明後日から夏休みだね」

 放課後の部室。蒸し風呂のような室温。パソコンに向かうわたしの背中を、晴花が眺めている。夏休み何処に行く? なんて、言い出しそうな晴花の口調。

「うん。丁度良かったな」

 わたしは振り返る。うまく笑えている気は、しなかった。わたしたちに、一緒に過ごす夏休みなんて来ない。

「あたし、謝る気はないよ」

「それでいいと思うよ」

「ただ、終わりだって」

「そう。さよならって言うためだけに」

 わたしたちは会話を止めた。ドアノブが回るのが見えた。ごめーん、遅くなっちゃった。そう言って目尻を下げて笑う沙月を思い出した。ゆっくりとドアが開く。わたしと晴花はそちらを見ていた。ふらつくような足取りで、沙月は部室に入ってくる。沙月は赤い目をわたしたちに向けた。彼女は鞄を開ける。

「沙月、話が、」

 言いかけた晴花が、言葉を止めた。立ち上がり、後ずさる。沙月が鞄から出した、不自然な銀色を目の当たりにしたからだった。

「沙月?」

 悲鳴のような声で晴花が沙月の名前を呼ぶ。沙月は包丁の柄を握りしめている。

 一瞬だった。悲鳴を上げる暇もないほど。沙月は刃を向けたまま、晴花の胸に飛び込んだ。

「何、で」

 目を見開く晴花。一瞬遅れて悲鳴が聞こえた。自分の声だった。晴花は崩れ落ちる。

「さ、つき」

 沙月の白いシャツが赤く染まる。沙月は晴花の胸に刺さったナイフを抜く。びゃっと血しぶきが散った。返り血を浴びた沙月がわたしを見る。からん、と音がして沙月の手から包丁が滑り落ちた。血だまりの中で銀色がてらてらと光った。

 沙月が、晴花を。

 晴花が――。

 吐き気がした。わたしは床に座り込み、両手で必死に口元を押さえる。涙が滲んで指先が震えた。

「……ゆうりちゃん」

 沙月に名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。彼女は晴花を見下ろした。

「私、人殺しだねえ」

 何で笑うんだ。わたしは嗚咽を洩らしながら、歪んだ視界に沙月の笑顔を認めた。息が、出来ない。

「ねえ、お母さんね、赤ちゃんが、出来たんだって。だから、結婚するんだって」

 過呼吸を起こすわたしに、静かな声で沙月は語る。

「そんなの許せなくってさ」

 晴花を見た。彼女は目を見開いたまま、血だまりの中で動かなくなっていた。

「だから、私が枷になってやるの。人殺しの母親にしてやる。そしたらもう、お母さんは何処にも行かないでしょ。ずっと私に囚われて生きなきゃいけない」

 沙月は堪え切れなくなったように、笑い声を上げる。

「ちが……う」

「え?」

 沙月は笑うのをやめて、わたしを見下ろした。

「ちが、うよ、沙月……」

 止まらない過呼吸に喘ぎながら、わたしは言葉を絞り出す。

「あんたのことを……あんたのことを、愛してくれたお母さんはね、もう、この世界の、何処にもいない。だから……何をしても、無駄だよ。その人は、あんたを置いて、何処へでも、行くよ」

――ゆうりちゃん、大きくなったねえ。

「あんたは、もう、何処にもいない人に……縋りついてる、だけだよ」

――ランドセルは気に入った?

 沙月の表情が、消える。わたしは黙って、呼吸を落ち着ける。言わなくては、事実を言わなくては。言葉を、彼女に。わたしは大きく、息を吸った。

「もうやめなよ。もう、全部遅いけどさあ、もうやめなよ。そんなの。あんたもう愛されてないんだよ。十年以上前に捨てられてんだよ。そんなんわかってたじゃん。最初から、わかってたでしょ。なのにそんなものに縋ってさ、馬鹿だよ。馬鹿だ。あんたは馬鹿だ!」

 悲鳴のような声でわたしは言った。目の前がざっと砂嵐に覆われる。耳鳴りと眩暈に耐えながら、顔を上げる。沙月は呆然とした表情のまま、わたしを見ていた。その目から、つう、と涙が落ちる。揺らいだ黒目がわたしを捉える。

「わたしたちは側に居たのに!」

 頭に血が上っていた。わたしも刺し殺されるかもしれない。けれど震えは止まり、恐怖心も無かった。

「ずっと側に居たのに……なんで、こんな風になっちゃったんだ。なんで……。晴花はもう、あんたに酷いことしたくないって言ってたんだよ。いっそ全部嘘なら良かったって。真っ赤な嘘なら良いって言ってたのに! なんで! なんでこんなことしたんだよ!」

 涙が零れた。

「そっちを殺せよ。あんたの頭の中に居る、あんたを愛してくれる優しい母親を殺せよ。もうそんな人何処にもいないんだからさあ!」

 傾き始めた太陽が、部室を照らす。晴花はくたびれた錆色の中に身を沈めている。

「できるわけ、ないじゃない」

 震える声で沙月は言った。

「私に出来るわけ、ないじゃない」

 沙月はそう言って、血だまりに落ちた包丁を取った。わたしは沙月をまっすぐに見ていた。沙月はわたしに向けていた刃を、自分の方に向ける。包丁の柄を、わたしに差し出す。

「ゆうりちゃん、殺してよ」

 沙月は言う。そんなに言うなら、殺してよ。

「私ごと、私の中のお母さん、殺してよ」

 わたしは差し出された包丁に手を伸ばす。その柄に手が触れるか触れないかで、手はがくりと落ちた。カラン、と目の前に包丁が落ちる。

「ごめんね」

 沙月はわたしの方を見て、言った。

「嘘だよ」

 彼女はそう言って笑った。嘘をついた。沙月はふらふらと歩き、窓を開けた。夏の湿気を含んだ空気が、部屋の中へ入り込む。空はまだ青かった。ほのかに金色が混じっていた。沙月は窓に足を掛ける。

「さつき!」

 ここは四階だ。下はアスファルト。落ちたら助からない。わたしは手をついて立ち上がる。

「ねえ、ゆうりちゃん」

 もつれる足で、窓の方へ必死で進む。もう少し。わたしは手を伸ばす。沙月の身体が傾く。

「私、生まれてこなければよかったな」

 わたしの手は、空を切った。

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