第9話

 祖母の部屋で、わたしたちはまた、交わらない視線を送り続ける。わたしは今日も母の罪滅ぼしに付き合い、祖母を一層嫌いになっていく。この人は、わたしのことも愛してなどいないだろう。わたしを見て優しい目で笑う祖母を、視線の端で捉える。

「ゆうりちゃん、大きくなったわねえ」

 そこには誰もいない。

「ランドセルは気に入ったかしら」

 この人が大事なのは、もういないあの頃のわたしだ。この人は今、誰にも愛されていないかもしれない。それはもちろん哀れだと思うが、それ以上に哀れなのは、この人が愛している人間も、もう何処にもいないことだ。

 哀れだ、なんて。

「母さん」

 母が祖母を呼ぶ。

「ほら、桃が剥けたわよ」

 わたしは母の顔を見た。何の感情も見えない。まるで今初めて渡された脚本を読んでいるようだった。


 わたしは部室のパソコンに向かって、脚本を書いている。クラスの用事で晴花が遅れているため、沙月と二人だった。沙月は何も言わない。そのまま、しばらく経った。ふと集中力が切れ、わたしは汗を拭って沙月を振り返った。彼女は椅子に座ることもせず、ずっと入口に立っている。

「今日は晴花、来ないかもしれないよ」

 わたしは言う。

「そう」

 沙月は短く応える。

「逃げないんだね」

 声が震えたことに少し驚いて、わたしは一度口を閉じた。喉の奥が熱かった。涙がこみ上げた。唇を噛む。違うだろう。そうじゃないだろう。わたしは、こいつを殺したいほど憎んでいたんじゃなかったのか。祖母と同じくらいに。

 一度呼吸を整え、わたしは再び口を開く。

「怖いから? お母さんに嘘がばれるのが。もう、うそなんて何処にもないけど」

「……そうだね」

 沙月は黙った。彼女は顔を伏せ、それから肩を震わせ始めた。泣いているのだと思っていた。しかし沙月は次第に腹を抱え、声を上げておかしそうに笑いだした。

「沙月……?」

 背筋が凍った。風通しの悪い蒸し風呂のような部室の温度が、下がった気がした。

「ねえ、ゆうりちゃん」

 歪んだ笑みで、沙月はわたしの方へ歩いてくる。わたしは思わず椅子から立ち上がり、後ずさる。

「本当のこと、教えてあげるよ」

 沙月は言った。

「ずっとねえ、待ってたんだ。こうなるのを」

 笑みは泣き顔のようになり、笑い声は悲鳴のように聞こえた。

「全部嘘だよ」

 にい、と口角を上げ、沙月はわたしの目を覗き込む。

「点数が上がらなくてお母さんが口を利いてくれないだなんて嘘。部活を辞めろって言われただなんて嘘」

 彼女の言葉に、わたしは目を見開く。

「あの人は、私のことなんて何ひとつ見てなかったんだよ」

「どういう……」

「はじめから全部嘘。演技だったんだよ。こうやって、いじめの対象になるのがそもそもの私の目的だったの」

 彼女が何を言っているのか、わたしには理解出来なかった。

「お母さんはね、最初から私に何の興味もなかったの。お父さんと離婚してからずっと。何度も彼氏を替えて遊ぶばっかり。私はその間ずっとひとりだった。寂しくて悲しくて、何でもやったよ。いい子にしてたし、いつも一番を取った。でもお母さんは何も見てくれなかった」

 お母さんにまた怒られて、と困った顔をしていた沙月を思い出す。今まであまりにたくさんのものを受け取ってしまったから、何をされても嫌いになれないと、言っていた、あれは――

「高校生になった時に、今度こそはって思った。今度こそお母さんに見てもらうんだって。そう思って演劇部に入った。でもねえ、駄目だったよ。高校生の演劇を見に行くくらいなら好きな人とプロの芝居を見る方がいいって言われたよ。そんなこと言われたら舞台に立つ意味なんかないじゃない。だから反対されてる振りしてずっと裏方やってた。お母さんが観に来てくれる時、初めて舞台に立とうって思ってた。でもそんな日は来なかったよ」

――あれは、全部、嘘だったと言うのか。

 沙月は笑う。

「何しても駄目だった。どんなに頑張っても見てもらえない。他の方法を考えるしかなかったよ。それがね、これだった。いじめに遭えばいいんだって思った。私が毎日痛めつけられて帰ったら、お母さんはきっと私の方を見てくれる。今度こそ見てくれる。そう思ったんだよ」

 笑い転げる沙月を、わたしは呆然として見下ろしていた。ここまでが、沙月の書いたシナリオだったのか。

「ちょっと落ち着いた声で話したら、先生、わたしのことお母さんだって信じちゃって。演劇部の二人に娘がいじめられてるって言ったらすぐ動いてくれたんだよね。圭太くんのことは想定外だったけどラッキーだったよ。もちろん、ゆうりちゃんが録音機を部屋に持ちこんだことも気付いてた。世界史の時間に流すこともわかってた。全部、全部私の考えた通りだった。はるちゃんもゆうりちゃんも派手に痛めつけてくれたよね。これで、今度こそ上手くいくって思ったんだよ」

 寒気がする。鳥肌が立つ。彼女の目を見てわたしは思った。そこにあるのは、狂おしいほどの執着と、寂寞だ。

「だからさあ、やめられないんだよ。私は」

 沙月の表情が崩れる。

「ねえ殴ってよ。もっとめちゃくちゃに殴ってよ」

 縋りつくような彼女を、わたしは突き飛ばした。恐怖に思わず呼吸が荒くなる。沙月は泣きじゃくりながら言った。

「お願いだよう、ゆうりちゃん。おねがい。こうしないと、こうでもしないと、愛してもらえないんだ、私。ひとりぼっちなんだよ。寂しいんだよ」

 奥歯を噛む。絞り出すように、わたしは言った。

「馬鹿だよ」

 もう、よくわからなかった。

「わたしたちは、ずっと側に居たのに」

 このシナリオを、わたしはどうやって終わらせればいいんだ。

「もう、戻れないよ」

 わたしはパソコンからデータを抜き、鞄を引っ掴んだ。逃げるように沙月の脇を通り抜け、部室を出た。

「夕理……?」

 そこに、晴花がいた。

「何、泣いてんの?」

「最悪だよ」

 わたしは眼鏡を外し、歪んだ視界をシャツで拭って、言った。

「何もかも全部最悪だ」

 そう言って膝を折るわたしを、晴花が笑った。

「何を今更。わかってるよ。最悪だよ。あたしも、あんたも、沙月も、何もかも全部最悪だよ。でも、」

 晴花はわたしを見下ろした。

「戻れないんだよ、もう二度と」

 苦痛に耐えるような表情で彼女はそう言って、部室のドアを開けた。それがゆっくりと閉まって行くのをわたしはただ、見ていた。


     *


 ぱん、と沙月が手を打った。

「はい、ここまで」

「え、ここで二時間?」

 晴花が時計に視線を移しながら言う。

「うん。前口上からここまででジャスト二時間」

 沙月が頷いた。

「うわー、マジか。あと三場くらいあるのに」

 わたしは膝を折っていた体勢から、そのまま床に座り込んだ。

「あーあ、出ちゃったよ、宮原夕理脚本の悪い癖。公演予定時間を大幅に過ぎる」

「いやー、今回はやばいかなーって思ってたんだけど」

「だったら通しの前に何とかしとけよ」

 晴花が呆れたように言う。沙月は机の上に置いた脚本を見返して、

「今は暗転のタイミングを適当に取ってるから、実際の公演になるともっと余裕ないかもね」

 と苦笑を洩らした。彼女の隣から脚本を覗き込み、わたしは眉間に皺を寄せる。

「止むを得ん。削るか」

「何処削る?」

「一人二役きついんですけど」

「そこは削りません」

「えー」

「そんな顔しても駄目。沙月だって二役なんだから我慢して!」

「はるちゃん良かったよ! 超良かった! 大丈夫大丈夫! できるできる!」

「沙月凄い! 全然気持ちがこもってない!」

 晴花は沙月の称賛にげらげらと笑いながら、ジュースに口をつける。勝手に休憩に入る晴花を放って、わたしと沙月は一場から脚本を見直す。書き込みでいっぱいになったページを、一枚一枚捲っていく。

「あのさ、ここのシーンなんだけど、ゆうりちゃんの独白だけにしたらどうかな……」

「あー、なるほどね。似たようなシーン多いしな」

「ねえねえ! ふたりとも!」

 声を上げる晴花を、わたしと沙月は振り返る。

「何だよ」

「ねえ、その続きマックでやろうよ」

 へらへらと笑いながら晴花は言う。わたしはため息をつく。

「お前はそうやってすぐにマックに行きたがる」

「えー、だってさあ、どうせ今日脚本の修正で終わっちゃうでしょ? だったらマック行ってやろうよー。あたしも手伝うからさー」

 わたしは眉間に皺を寄せたまま眼鏡を上げ、沙月の方を見た。どうする、と無言で尋ねると、彼女は目尻を下げて笑いながら、

「いいんじゃないの? 行こうよ、マック」

 と言った。勝ち誇った表情を浮かべる晴花に、わたしは大きくため息をついてから眼鏡を上げ、緩く笑った。

「わかったよ。でもついでだから、最後まで通してからにしよう」

「よし! 任せろ!」

 晴花は脚本を確認し、にっと笑って頷いた。

「そう言うわけで沙月、よろしく」

「はーい」

 沙月は腕時計で時間を確認する。

「じゃあ、次のシーンからね。よーい、はじめ!」

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