第8話

 沙月が巻いた包帯の下には、傷一つない綺麗な手首があると、皆思っている。あんなことがあっても彼女はまだ、嘘をついているのだと皆思っている。本当は、包帯の下にいくつも切り傷がある。制服の下には青痣が広がっている。

 彼らは嘘が本当になったことを知らない。わたしはパソコンに向かい、キーボードを叩く。傍らに置いた花柄のノートに視線を移す。わたしの字が、克明に状況を伝えている。沙月の言葉。晴花の行為。わたしの傍観。終わりに向かう全て。


 放課後の部室で、床に座り込む沙月を晴花が見下ろしている。白いブラウスや床に、沙月の長い黒髪がばらばらと散っていた。晴花はハサミを握ったまま、

「似合ってるよ」

 と、笑った。髪を短くまばらに切られた沙月は、力なく晴花を見上げる。

「満足した?」

 疲れた声で沙月は尋ねた。その言葉に晴花は苛立ったように顔を歪めた。

「満足? 何それ」

 うつろな表情のまま、沙月は晴花を見ている。晴花は何かを言おうとして、何も言えず、握っていたハサミを床に叩きつけた。高い音が鳴った。

「言ったでしょ。ずっと続くって」

 震えた声で晴花は言った。その目は、ひどく疲れていた。

「許せないんだよ、あたしは」

 沙月は目を伏せた。わたしは何も言わなかった。

 沙月は、一切の抵抗を見せなかった。晴花が脱げと言えば、固定したビデオカメラの前で彼女は服を脱いだ。剃刀で手首を切れと言われれば切った。死ねと言われたら、彼女は死んだかもしれない。

 

「夕理?」

 部屋をノックする音。母の声にわたしは、なに、と小さく応える。

「また起きてるの? 明日もおばあちゃんのところに行くんだから、早く寝なさいよ」

 わたしは祖母に笑いかける母の笑みを思い出す。母はどうして、あんな風に笑うのだろう。疑問が、再び頭の中を埋め尽くした。わたしは立ち上がり、ドアを開けた。

「ちょっといい? 話があるんだけど」

 母を招き入れる。どうしたの、と尋ねる彼女を、わたしは振り返る。

「母さんは、おばあちゃんのこと嫌いだよね」

 母の表情が曇る。わたしは目を逸らして続ける。

「ずっと聞こうと思ってたんだよ。何であんなに甲斐甲斐しく、わたしまで連れてホームに通うのか。だってそれまで何年間も、お盆と年始のあいさつくらいしか顔合わせてなかったでしょ。どんな理由があるの」

 母は一瞬酷く狼狽したような表情を見せた。それから青い顔で、わたしの顔を見た。自分によく似た娘の顔を見て、彼女は一瞬何かに耐えるように表情を歪め、口を開いた。

「あの人、認知症にかかる前からおかしかったでしょう」

 母は、一瞬見せた動揺と思い詰めた表情を消し、静かな声で言った。それは、母から初めて聞く、彼女と祖母の確執の始まりだった。

「あの人にとってわたしは、思い通りにならない娘だった。あの人は娘には音楽をさせたいと思っていたけれど、わたしは小さな頃からスポーツの方が好きだったし、あの人が受けさせたかった中学受験も受けなかったし、高校も、大学も、就職も、あの人の言葉はみんな無視して選んだ。極めつけは結婚相手ね。あの人は、最後まであんたのお父さんと結婚するのを、反対していた」

 母はわたしを見る。

「わたしはあの人のことが嫌いだったし、あの人もわたしを可愛くない娘だと思っていたんでしょうね。あんたが生まれてからは、わたしにさせたかったことを全部あんたにさせようとしてた。全部拒否したけどね。その頃はまだ良かったの。おかしくなったのは、おじいちゃんが亡くなってから。あの人はあんな性格だから味方なんて自分の夫くらいしかいなかった。その人を亡くして、気付けば回りはみんな敵。そこで目をつけたのが、夕理、あんただった」

 わたしは頷いた。それからは、わたしの記憶にも鮮明に残っている。

「あの人は幼いあんたに縋ろうとしていたのね。周りを一切排除して、自分だけを向くように」

「……それでこんなに嫌われるんだから、馬鹿な話だよね」

 冷たく言い放ったわたしに、母は力なく、そうね、と応えた。

「夕理が中学を卒業する頃、一度しっかり話をしようと思ったの。あの人はその頃からまだら呆けが出るようになっていたし、いずれは同居しなきゃいけないかもしれないって思ってた。……この何十年間を水に流すことは出来ないかもしれない。でも、ちゃんと向き合って話したことって今まで一度もなかったから。何があっても、親子だし、きっと話せばわかり合えるって思ってたの……でも駄目だった」

 母はそこまで言って口を噤む。わたしはちらりと彼女の方を向いた。母は唇を噛み、ゆっくりと一度瞬きをしてから、意を決したように、続きを話し始めた。

「結局言い合いになった。あの人は、思い通りにならない出来損ないの娘なんか要らないって言った。わたしはあの人にとって人形と大差なかった。悲しかった。何処かで、きちんと愛情を向けてもらえるって信じてた。でも、思い違いだった。わたしは逆上してて――自分が何を言ったのかは覚えてないけど、多分あの人の癪に障るようなことを言ったんだと思う。わたしたちは二階の父さんの部屋で話をしてたんだけど、怒ったあの人は部屋を出て階段を降りようとした。わたしはそのあとを追って……その背中を見て、殺してやろうって思った」

 わたしは小さく、え、と呟いた。

「階段から突き落として、殺してやろうって。その時本気で思ったの。躊躇う間もなく、わたしの手はあの人の背中を突き飛ばしていた。あの人が転がり落ちる音で我に帰った。その途端に恐ろしくなった。わたしは、人を、」

 淡々と話していた母だったが、当時のことを思い出したのか、両手で顔を覆った。

「わたしは人を、殺そうとしていたんだって」

 母は言う。

「罪滅ぼしなのよ、夕理。わたしの罪滅ぼしに、あんたを使っているだけなのよ。あの人はわたしが突き飛ばしたことを知ってた。わかってた。でも何も言わなかった。あの人のことだから、すぐに警察に通報すると思ってた。でもしなかった。何でだと思う?」

「……それは、母さんのためじゃ」

 母は首を振った。

「あんたのためよ、夕理。あんたを犯罪者の娘なんかにしたくなかったからよ」

 わたしは母の目を見た。こうしてきちんと母の目を見るのは、何年振りかわからなかった。止めておけば良かった。疲れたその目の色を、わたしはここのところ何度も見た。晴花と同じだ。みんな同じだ。取り返しのつかない悲しみと憎しみを湛えた目だ。

「救急車を待つ間、あの人はわたしに言ったの。折れた足の痛みに顔を歪めながら、わたしを睨みつけて言った」

 わたしは目を、逸らすことが出来ない。

「あんたなんか、生まれてこなければ良かった」


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