第7話

 日曜日の朝、わたしは祖母の部屋へと連れて来られていた。わたしは祖母の声に一切反応せず、部屋の端に立って、ベッドに座る祖母と、すぐ側で椅子に座る母の姿をぼんやりと眺めていた。

 母は時折祖母に話しかけるが、祖母はそれに一切反応しない。反応しない祖母に話しかける母。反応しないわたしに話しかける祖母。傍から見ると異様な光景だ。

 わたしは視線を母に向けた。この人は何故こんなに献身的に、ここへ通うのだろう。

 母は、にこやかに祖母に話しかける。一体どうやって、彼女は今までのことを水に流したのだろうか。母は桃の皮を剥く。小さく切って祖母に差し出す。祖母はそれに見向きもしない。母はゆっくりと、わたしに視線を移した。わたしはそれも無視した。


     *


 月曜日、予告していた通り沙月は学校に来た。本当に登校してくるか半信半疑だったが、彼女は青褪めた顔で教室のドアをくぐり、自分の席についた。わたしの前の席で晴花が動揺した表情を見せる。

「晴花」

「わかってる」

 土曜日、沙月がわたしに話したことは、全て晴花に聞かせてあった。沙月の方に目をやる。彼女はクラスメイトの女子たちに囲まれて、大丈夫、ありがとう、と繰り返している。手首に巻いてあった包帯はこれ見よがしに手の甲まで広がっている。あそこに居る女子全員、あの下には痛々しい切り傷があると信じている。彼女たちはちらりと、軽蔑するような目をわたしと晴花に向けた。わたしは目を逸らし、窓の外に目をやった。空は嫌味なほどに青かった。


 わたしたちの担任は世界史の担当で、毎回視聴覚室で適当な歴史関係のDVDを見せて授業にしている。真面目に映像を見ている生徒はほとんどいない。みんな自分の受験科目を復習したり、居眠りをしたりしている。わたしもジャンヌ・ダルクの生涯の音声だけを聞きながら、単語カードを捲っていた。

 時計を確認し、もうすぐ授業が終わる頃になると、ペンケースの中に入れた音声レコーダーを手に取った。火あぶりの刑に処せられたジャンヌが、イエスの名前を叫ぶ。物悲しいモノローグの後、スタッフロールが流れ始め、先生が再生機の電源を落とす。

「じゃあ、今日の授業はここまで」

 彼がそう言った瞬間に、晴花が立ち上がる。

「待って下さい」

 教室がざわつき、クラスメイトが少し驚いた表情で晴花の顔を見る。

「おい、何を」

「授業は終わったんですよね」

 先生の言葉をさえぎってわたしも立ち上がり、教壇に備え付けられたスピーカーにレコーダーを接続した。

「先生もみんなも、あたしと宮原夕理が塩田沙月をいじめていると思っていますが、それは嘘です」

 視聴覚室がまたどっとざわめいた。沙月の方に目をやった。口元を押さえ、目を泳がせている。わたしたちが何をしようとしているのか、わかっているようだった。

 ざまあ見ろ。

 わたしは少し笑って、再生ボタンを押した。ざーっというノイズの後、くぐもった声が聞こえる。――ゆうりちゃん? ――沙月に、聞きたいことがあって。

少し聞きづらいが、言っている言葉も、そこで話をしているのがわたしと沙月ということもはっきりとわかる。

「やめて!」

 沙月が悲鳴のような声を上げて立ち上がった。クラスメイトはみんな唖然としている。

「ゆうりちゃん、はるちゃん、もうやめて……」

「嫌だね」

 彼女の悲鳴で掻き消されないように、わたしは音声のヴォリュームを上げる。

――なんだあ、そんなことかあ。

「嫌……!」

 沙月は頭を抱えてしゃがみこむ。それを晴花が冷たい目で見ている。

――この前塾で模試があったんだけど、やっぱり全然駄目でさ、お母さんに怒られちゃったんだよね。このままじゃまずいな、どうにかしなくちゃって思って、いじめられてることにしちゃおうって。

 わたしは青褪めた先生の顔と動揺するクラスメイトを眺め、もうやめて、と泣きながら繰り返す沙月に視線を移した。

――うそついたらみんな心配してくれるでしょ? いじめられてるって、結構いろんな人に言ったんだけどね、みんなの反応、嬉しかったな。私みんなから好かれてるんだって思えて。圭太くんなんて最高だったよ。十年以上仲良くしてたはるちゃんと、縁切るなんて言いだしちゃって。

 よく、わかったよ、というわたしの声を最後に録音が切れた。わたしはスピーカーの電源を落とす。

「これが証拠です。すみません、以上です」

 わたしはそう言って、席に戻った。丁度その時、チャイムが鳴った。鳴り終わっても、誰も動けずにいた。

「授業は終わりなんですよね?」

 晴花が問う。

「あ、ああ」

 先生は頷いた。わたしは机の上の荷物をまとめ視聴覚室を出た。晴花が隣に並ぶ。

「あとは何してもいいよ、晴花」

 わたしは言う。晴花は頷き、へらっと笑って見せた。


 その次の時間から、沙月は保健室に行った。クラスの雰囲気はしばらく凍ったようだったが、次第にみんな、わたしと晴花に謝罪をしてくるようになった。わたしたちは彼らを笑って許し、

「沙月のこと、どうか責めないであげてね」

 と言うのを忘れなかった。沙月に制裁を加えるのは、わたしと晴花だ。

「あの子の家、厳しいみたいなんだ。それで追い詰められてたんだと思うの」

「あたしたちもあんなことしたくなかったんだけどね、でも、こうでもしないと……」

 そう言うと、みんな真剣な顔で頷いてくれた。あんなことあっても、やっぱり友達なんだね、と言われる。当たり前だよ、と返す。胸の奥はぐるぐると渦巻く。笑顔を保つのがかったるい。辛くも悲しくもなかったが、ただ猛烈にかったるかった。


 放課後、わたしと晴花は沙月のいる保健室に向かった。ベッドにはカーテンが掛けられ、沙月はまだ眠っているようだった。が、晴花は容赦なくカーテンを開ける。シーツは眩しいほどに白かった。清潔そのものだ。この古い保健室の中で、その色はまるで現実味がなかった。沙月が眠っていないことは分かっていた。布団を被った沙月に、わたしは囁くように言った。

「演劇部、活動再開出来るから部室で待ってるね。もし来なかったら、あの音声あんたのお母さんに聞かせるから」

 布団の中の沙月が、びくりと震えるのがわかった。

「全部あんたが悪いんだよ」

 おかしそうに晴花が言う。

 わたしたちは保健室を後にして、一週間振りに部室に入った。

「これからどうすんのかな、あたしたち」

 晴花が言う。

「どうもしない。公演もしない。演劇部は終わったんだ」

 わたしの言葉に、晴花は然して感情を出すこともなく頷いた。彼女は窓を開け、ああ今日も暑いねえ、と呑気なことを言う。そうしていると、二週間前の晴花と変わらないように見える。わたしに、卒業旅行は北海道にしようよ、と言った彼女と。

「まあ、いいよ」

 けれど、もう違う。

「ここは、沙月をいじめるためだけに使う」

 そうだね。わたしはそう言って目を伏せた。


 三十分が経った頃、部室のドアがゆっくりと開いた。わたしはそちらに目をやる。

「遅かったね、沙月」

 わたしの言葉に、沙月は睨みつけるような視線を返した。晴花は椅子から立ち上がり、部室の鍵を閉めてから沙月に向き直った。

「ねえ、何かあたしたちに言うことがあるんじゃないの」

 入口で俯いたまま立ち尽くす沙月の顔を覗き込む。沙月は俯いたまま視線を逸らす。にやにやと笑っていた晴花の表情がすぐに消え、彼女は右手で沙月の頬を殴った。

「謝れって言ってんだよ」

 沙月は頬を押え、目を見開いて晴花を見た。

「土下座して謝れ」

 晴花は沙月を見下す。沙月は泣き出しそうに表情を歪め、そのままゆっくりと床に手をついた。震える声で、ごめんなさい、と言う。晴花はその背中を、足で押さえつけた。

 パソコンの前でその様子を眺めていたわたしに、晴花が言う。

「夕理、こいつもあたしたちと同じことするかもしれないから、持ち物全部調べて」

「わかった」

 わたしは立ち上がり、沙月のスカートのポケットと鞄の中を探る。音声レコーダーのようなものは見つからなかったが、鞄の内ポケットの中から携帯電話が出てきた。わたしはそれを晴花に渡す。

「これはあんたが持っておいたら?」

 そうだね、と晴花は愉快そうに笑う。

「やめて……」

 震えた声で沙月は言うが、晴花はげらげらと笑いながら沙月の背を押えつけていた足を頭に移した。

「そんなことが言える立場かよ!」

 土下座したままの沙月の頭を、晴花は踏み付ける。沙月が呻き声を上げるのを聞きながら、わたしはまだ、彼女の鞄の中を探っていた。

「財布は?」

「現金だけもらっとこうかな」

 晴花の言う通りに、わたしは沙月の財布から現金を抜く。

「苦しい? 痛い?」

 優しい声で晴花は言う。足の力を緩めることはない。何も答えない沙月を睨みつけ、彼女はその右耳を思い切り蹴った。沙月が呻き声を上げてうずくまる。

「痕が残らないようにやれよ」

 わたしはそう言って、椅子に座った。

「難しいこと言うねー」

 晴花は笑う。わたしはそれを無視して、自分の鞄からノートと万年筆を取り出す。顔を上げた瞬間、眩暈がした。酸素が薄い。空気が重い。わたしは思い切り息を吸いこんで吐くが、まるで呼吸をした気にならない。

「ずっと続くからね」

 晴花は言った。

 わたしは彼女を一瞥して、ノートを開く。びっしりと並んだ自分の文字がこちらを見ている。ページを埋め尽くす、沙月の虚言。わたしは万年筆のキャップを取り、新しいページにこの部屋の描写を始める。

――壊れてしまった。

 閉め切った部屋は蒸し風呂のように暑かった。晴花だけが涼しい顔をしている。沙月の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃだった。太陽は西に傾き始めているが、まだ随分高く強い光を注いでいる。二回戦で敗退した野球部が新体制で練習を始めている。その中に、圭太の姿はもう無い。

「許すつもりはないから」

 公演はもう出来ない。新しい脚本を書く必要もない。左手は今も、重い。

 だがわたしは万年筆を走らせ続けた。意味はない。何の意味もない。けれど書いておこうと思った。わたしたちの終わり方を。

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