第6話
眩暈がするような、猛暑日だった。坂道に沿って綺麗な新しい家が並んでいた。わたしはその間を歩く。こめかみを汗が伝う。ハンカチを取り出そうと鞄を開けた。内ポケットからハンカチを取り出す時、同じ場所に入れていた万年筆が視界に入った。わたしはそれに触れようとして、やめた。今日、これを使うことはないだろう。住宅地の中程に、二階建ての新しいアパートがある。沙月はここで、母親と二人で暮らしている。二〇三号室のチャイムを鳴らした。沙月の母親が出てきたらどうしようかと一瞬身構えたが、
「はい」
とインターホン越しに応えたのは沙月だった。
「夕理だよ」
わたしは言う。戸惑うような間が一瞬空き、
「すぐ開けるね」
と、沙月は応えた。
沙月がドアを開けて、床に手をついて許しを請うたら、どうしようかとわたしは思った。泣きながら謝る彼女を、わたしは許すだろうか。カーディガンのポケットに、一度手を入れた。ガチャリとドアが開く。わたしは顔を上げた。
「いらっしゃい」
涼しい笑顔で、沙月は言った。
「暑かったでしょう。入って」
わたしも笑顔を作った。口角を上げたまま、奥歯を噛んだ。
そうか。わたしは思う存分、あんたを嫌っていいのか。
「おじゃまします」
わたしの笑顔が歪んだことに、沙月は気付いただろうか。
沙月の母親は今日も仕事だと言う。
「ゆうりちゃん、久しぶりだね」
「うん」
「遠いのにわざわざありがとう」
「いいよ。心配してたんだ、ずっと」
「心配かけちゃってごめんね」
わたしは目を伏せたまま首を振った。
「今日は、どうしたの?」
彼女は不思議そうな顔で尋ねる。わたしは少し間を置く。落ち着きなく、カーディガンのポケットに手を入れる。
「ゆうりちゃん?」
沙月は不安げな表情を作って、首を傾げた。
「沙月に、聞きたいことがあって」
わたしは顔を上げた。
「なに?」
「どうして嘘、ついたの?」
「え?」
「なんで、わたしや晴花にいじめられてるって、嘘、吐いたの」
わたしの言葉に、沙月はすうっと目を細めた。
「なんだあ、そんなことかあ」
彼女はおかしそうに笑う。今までの不安げな表情は、全て消えた。背筋が寒くなった。
「この前塾で模試があったんだけど、やっぱり全然駄目でさ、お母さんに怒られちゃったんだよね。このままじゃまずいな、どうにかしなくちゃって思って、いじめられてることにしちゃおうって」
そう話す沙月は、愉快そうですらあった。少し前、嘘をついてしまったと言って泣き崩れていた彼女の姿は、もう何処にもなかった。
「来週からはまた学校に行くからさ、そしたらまた仲良くしようよ。一緒にいたらみんな、ああ仲直りしたんだなって思ってくれるよ」
わたしは沙月の言葉に応えず、もうひとつ問いかけた。
「圭太くんにまで嘘吐いたのは、どうして?」
「え? それ誰だっけ?」
沙月は怪訝そうな顔をしてから、ああ、はるちゃんの幼馴染みね、と笑った。
「あの子、私のこと好きみたいだから。何だかね、可笑しくなっちゃって。うそついたらみんな心配してくれるでしょ? いじめられてるって、結構いろんな人に言ったんだけどね、みんなの反応、嬉しかったな。私みんなから好かれてるんだって思えて。圭太くんなんて最高だったよ。十年以上仲良くしてたはるちゃんと、縁切るなんて言いだしちゃって」
わたしは目を伏せて沙月の言葉を聞く。唇を噛みしめた。
「よく、わかったよ」
もう十分。十分だった。わたしはカーディガンのポケットに忍ばせていた、音声レコーダーのスイッチを切った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます