第5話

 月曜日、沙月は学校を休んだ。放課後、部活に向かおうとするわたしと晴花を、担任の先生が引きとめた。わたしたちは顔を見合わせる。沙月のことだろう。何かあったのだろうか。職員室まで呼ばれ、わたしたちは黙って、先生の後を追った。

「塩田のことなんだけどな」

 案の定、沙月の話だった。先生は職員室の一番奥のソファに腰掛け、その向かいにわたしたちを座らせた。少し言いにくそうにする先生に向かって、何ですか、と晴花が先を促す。晴花は少し、思い詰めたような顔をしていた。嫌な予感がするのだろう。わたしも同じだった。先生は意を決したように、わたしたちの顔を見た。

「塩田のお母さんから、連絡があってな。沙月が、学校でいじめられていると。……塩田が演劇部を辞めると言いだしたら、岡本と宮原が態度を変え、陰湿ないじめをしてくるようになった、と」

 わたしは目を見開いた。先生の言ってることが、上手く頭に入って来ない。今、いじめられていると言ったか? 沙月が、わたしと晴花に? 

「それは、沙月が、そう話したと、いうことですか」

 わたしは尋ねた。かすれた声が出た。先生は頷く。しばらく沈黙が流れた。わたしは晴花を見る。晴花もわたしを見た。わたしの青い顔を見て、晴花は顔を歪めた。鳶色の瞳が歪む。

「わたしたち、そんなことしてません」

 晴花が言う。今にも泣きだしそうな声だった。先生は目を伏せる。

「お前たちのこと信じてやりたいんだけどな。三人が仲良かったことも知ってるし、最近塩田は受験のストレスで疲弊しているから、些細なことでも傷付いたり、誤解したりしているんじゃないかと、思わないでもない。だが塩田本人がいじめられていると言っている以上、それを否定することも出来ない。指導しないわけにはいかないと思って」

 先生は申し訳なさそうに言う。

「夏休みが明けるまで、演劇部は活動を停止するように」

 晴花が、堪え切れなくなったように泣きだした。わたしは晴花の手を取って立ち上がり、ドアを叩きつけるように開けて職員室を出た。

 どうしてだ、と思った。沙月はわたしたちの前でだけ、きちんと呼吸が出来るのではなかったのか。ここが、彼女の居場所ではなかったのか。廊下を行き過ぎる生徒が、しゃがみこんで泣く晴花を怪訝そうに振り返る。わたしは彼女に手を差し出した。自分の手が震えていることに、その時ようやく気がついた。


 次の日も、その次の日も、沙月は学校に来なかった。クラスには、わたしと晴花が沙月をいじめていたという噂が瞬く間に広まった。沙月の保健室通いも、手首の包帯も、原因は全てわたしたちだと彼らは噂した。

――ほら、やっぱりね。おかしいと思ってたんだ。

――自分たちでいじめといて心配してる振りしてたんだ。最低だね。

 クラスに居場所を失って、演劇部まで取り上げられて、わたしたちにはもう何処にも逃げ場がなかった。校庭で蝉が喚き散らす声に、頭がぼんやりとして涙が零れた。どうして。その疑問符には行き場がない。何度も沙月に連絡を入れたが、一度も返事は来なかった。わたしと晴花は二人で身を寄せ合い、なるべく誰の目にもとまらぬように生活した。


     *


 金曜日の夜、晴花が泣きながら電話をかけてきた。もう駄目かもしれない、と言う彼女をなだめ、わたしは彼女の家まで自転車を走らせた。何があったのかと尋ねるわたしに、晴花は泣きはらした目で、今日の帰りに圭太に言われたことを話した。

 晴花はいつも通り、野球部が練習を終える時間まで図書館で勉強し、圭太と一緒に帰った。誠華高校野球部は県大会の第一試合を勝ち進み、来週次の試合を控えていた。

「頑張ってるね」

「うん」

「この前の試合、最後に代打で出たって、あたし今日知ってさあ」

「うん」

「凄いよ、次も勝つと良いね。絶対勝てると思うよ。ほんとに甲子園行けちゃうかもね」

「うん」

 圭太は生返事を返しながら、彼は少し先を歩き足元ばかりを見ていた。懸命に話を続けようとしていた晴花の声も次第に小さくなる。そのうち彼女は立ち止まった。

「どうか、したの?」

 不自然な笑みが貼りついた晴花の顔を、圭太は振り返った。汚いものでも見るかのような瞳に晴花は戸惑う。

「お前さ、沙月ちゃんのこと、いじめてるのか?」

 晴花の表情が、ぐにゃりと歪んだ。彼女の脳裏に、もっとも起きて欲しくなかった事態が鮮明に浮かぶ。沙月が泣きながら圭太に電話をかける、その姿が。

――晴花にいじめられているの、もう耐えられなくて圭太くんに電話したの。

――ごめんね、圭太くんの大事な幼馴染みなのに。でも、どうしても耐えられなくて。話聞いてくれてありがとう。楽になったよ。

 電話を切り、堪え切れなくなったように沙月は笑う。けたけたと、壊れたように笑う。

「違う」

 晴花は必死に首を振った。

「何が違うんだよ」

「違うの、それは、沙月が」

「沙月ちゃん本人から聞いたんだよ」

「嘘ついてるの! 全部、沙月の嘘なの」

 あたしのこと信じてよ、と震える声で言う晴花に、圭太は軽蔑したような視線を投げ、吐き捨てるように言った。

「最低だな、お前。いじめといてまだそんな言い逃れすんの」

「ちが……」

「お前みたいなやつと何年も友達やってたかと思うと反吐が出るわ」

 堪え切れずに泣きだした晴花を見下ろし、圭太はその場を去ろうとする。晴花は嗚咽を飲みこんで、顔を上げ、圭太を見た。

「圭太は、あたしより、沙月を信じるの?」

 晴花の言葉に、圭太はうんざりしたようにため息をつく。

「当たり前だろ。もう俺に付き纏うのもやめてくれ。お前、見た目だけじゃなくて性格もブスだったんだな。じゃあな」

 それだけ言って、圭太は歩き出した。二度と、晴花の方を振り返ることはなかった。


 泣き疲れてぐったりとしている晴花に、わたしはどんな言葉をかけていいのか分からなかった。圭太も相当クズだと思うが、そんなことを言っても晴花は慰められないだろう。

「沙月のこと、許せない。殺したいくらい」

 いつまでも何も言わないわたしに、晴花はぽつりとそう言った。

 許せないのはわたしも同じだ。誰よりも美しく、演技の上手い沙月。悲劇のヒロインを演じ続け、憐憫と労わりの視線を一身に浴びようとしている我らが看板女優。その舞台上で、わたしたちは裏切られ、罵られ、何もかも奪われる端役だった。

 沙月と二重写しに、殺したいほど憎い祖母の姿が浮かんだ。その瞬間、祖母にぶつけたかった怒りも、殺意も、全て沙月に向いた。同じだ。あいつらがやったことは同じ。

 この手で制裁を加えてやる。沙月の芝居を、ぶち壊してやる。

「明日、沙月に会ってくる」

 わたしは静かな声で言った。

「え?」

 少し驚いた様子で、晴花はわたしを見る。

「わたしに任せて。沙月の嘘、本当にしてやろう」

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