第4話
「夕理、起きなさい」
日曜日の朝、母の声で目が覚めた。寝起きの悪いわたしは重いまぶたを開け、母の方を睨んだ。
「なに」
「なにって、行くよ。おばあちゃんのところ」
母は平然と言い、部屋から姿を消す。わたしは身体を起こし、うんざりとため息をついて寝癖のついた頭を掻いた。
母親の運転する車に乗って、祖母が暮らす老人ホームへと向かう。数年前、認知症の症状が出始めた祖母は、ひとりで生活することもままならなくなり、老人ホームへ入った。毎週日曜日の訪問は、その頃からずっと続いている決まりごとだった。
「ねえ、わたし一応受験生なんだ」
「そうね」
わたしの言葉に、母は短く返す。わたしは早口で続けた。
「受験生のわたしが時間を割いてまで付き合う必要ってあるの」
「日曜の朝はずっと寝てるじゃない」
苛々としながら言うわたしを、母は適当に受け流す。しばらくして信号待ちの時にふと、
「おばあちゃんは、あんたに会いたいのよ」
と呟くように言った。わたしは吐き捨てるように呟く。
「……知らないよ、そんなの」
幼い頃からおばあちゃん子だった、と、親族に会うたび決まりごとのように言われる。両親が共働きだったこともあって、小学生の低学年の頃はほとんど直接家には帰らず近所の祖父母の家を訪ねていた。祖父はわたしが七歳の時に亡くなり、それからの約三年間は、祖母と共に過ごしていた。だからといって、わたしが祖母のことを好きだったのかと問われれば、それはよくわからない。ただ、学校帰りに祖母の家に行くのは決まりごとだった。それだけだった。
祖母は決まって、父と母と父方の祖父母の悪口をわたしに吹き込んだ。認知症にかかる前から、祖母は妄想癖の気があり、父や母、父の両親を悪者に仕立て上げていた。
父は冷たく、性格の悪い人間だから職場でも嫌われている。と、祖母は言った。わたしに結婚式のビデオを見せながら、
「ほら、お父さんの関係者はこんなに少ない。人望のない人間だったんだよ」
と笑う。こんな、人に嫌われてばかりいるような人間に父親が務まるわけがない。だから、お父さんの言うことは聞いてはいけないよ。祖母はわたしにそう言い聞かせた。
父方の祖父母の場合はこんな風だった。あちらのご両親は母のことを嫌っている。だから、お母さんに良く似た夕理のことも可愛いわけがない。可愛がってくれているように見えても全部嘘だよ。騙されてはいけないよ。祖母は何度も同じことを繰り返した。
彼女の攻撃は、赤の他人である父や祖父母に対してだけではなく、実の娘である母親にまで及んだ。
「お母さんのこと好きかい?」
だいすき、と素直に答えるわたしを見て、祖母は嫌な顔をした。
「お父さんみたいな男に騙されるお前のお母さんはね、馬鹿な出来損ないだよ。あいつは恥だよ。私の恥だ」
幼いわたしはそれを全て鵜呑みにした。家族がみんな、嫌いになった。
祖母の言うことが全て間違いであったとは言えないかもしれない。だが、その八割は祖母が仕立て上げた作り話である、と、今は思っている。わたしも成長して、祖母が悪意からあんな発言をしていたということもわかるようになった。それでもわたしは、未だにまともに両親の顔が見られない。すべて、祖母のせいだった。
小学校高学年に上がり、それから中学生を卒業するまで、祖母の家に顔を出すことは滅多になかった。わたしが高校生になった頃、足を悪くしてから祖母の症状は急速に進み、ホームに入ることになった。
わたしはずっと、祖母を憎んでいる。
しかし母は、わたしが何を言っても、どんなに拒否しても必ず日曜日にホームにわたしを連れて行くようになった。それはもう執念と言ってもいい。母と祖母はもともと仲の悪い母子だったし、祖母がわたしに家族の悪口を吹き込んでいることを知ってからは、極力わたしと祖母を会わせないようにしていたのに、祖母が老人ホームに入ってから母の態度は急変した。何が母をそうさせているのか、わたしにはよくわからない。
祖母の部屋に着くと、母はにこやかに笑って、夕理を連れてきたよ、と祖母の耳元で囁いた。祖母はまるで母が見えていないように、まっすぐわたしだけを見ていた。
「ゆうりちゃん、久しぶりだね」
わたしの名前を呼んだ。わたしは嫌な気持ちになる。反吐が出そうだった。
「遠いのにわざわざありがとう」
祖母は優しい声で言う。
「心配かけちゃってごめんね」
目を逸らしたまま、わたしはその声を聞き流す。
「今日は、どうしたの?」
不思議そうな顔で尋ねる。わたしは何も答えない。
「ゆうりちゃん?」
祖母は不安げな表情を作って、首を傾げた。そうかと思えば、にこにこと笑い、
「ゆうりちゃん、大きくなったねえ」
と、言った。
「ランドセルは気に入った?」
祖母は何度もわたしの名前を呼んだ。幼いわたしに話しかけるように、今のわたしに縋るように、ゆうり、ゆうり、と何度も呼んだ。今も過去も未来も現実も虚構もわからなくなった世界で、まるでそれだけが真理であるかのように祖母はわたしの名前を呼んだ。
わたしはここに来るたび、神様にお願いした。この人をわたしの前から消して下さい。殺して下さい。早く。今日も、何度も願った。この手で、殺してやれるならどんなにいいだろうか。そんなことも思った。
疎ましい。
その時ふと、沙月の顔が頭に浮かんでわたしは自分の顔から血の気が引くのを感じた。
このところ、ずっと目を逸らしていた感情だった。疎ましい。面倒くさい。大事な友達に対してそんなことを思ってはいけないと思っていた。けれど、今、目の前の祖母と沙月が二重写しのように見えて仕方がなかった。
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