第2話

 塩田沙月は、とても綺麗な女の子だ。

 黒くて長いまっすぐな髪に、大きな目、透きとおるように白い肌。線はほっそりとしていて、黒いセーラー服がよく似合った。他クラス、他学年の男子は沙月とすれ違うと必ず一度は振り返る。わたしが今まで出会ってきた中で、彼女は間違いなく一番綺麗な女の子だ。

 沙月と比べると、ぼさぼさの髪を後ろで無理やり束ねて野暮ったい眼鏡をかけているわたしや、痛み切った癖毛に何度もストレートパーマをあて、肌荒れに悩んでいる晴花なんかは足元にも及ばない。

 演劇部ではいつも裏方の仕事ばかりしているが、本当は沙月が一番演技が上手いのだということを、わたしも晴花もよく知っている。沙月も本当は舞台に立ちたいのだということも、よくわかっている。それを許さないのは、やはり彼女の母親だった。そもそも部活動をすることすら反対されていたのだが、少し手伝う程度、という条件で彼女は母親を説得し、どうにか許しを得たそうだ。沙月が彼女の神様たる母親に、唯一抵抗して見せたのが、この演劇部への所属だった。

 彼女がどうして、そこまで演劇部に執着したのかは、わからない。お芝居が好きだったこともあるだろう。でもそれ以上に――自惚れだと言われてしまうかもしれないが、わたしたちと過ごす放課後を、沙月は望んでいたのではないかと思う。舞台に立つことは出来なくても、彼女はここに居ることを選んだ。


 その日も、沙月は保健室から、部室に来た。遅れてごめんね、と笑った目は、やはり疲れていた。しばらくはいつも通りの談笑が続いた。でも何処かで、わたしも晴花も違和感を感じ取っていた。ふと、会話が途切れる。やわらかく差し込んでいた西日が、急に鈍い色に変わったような気がした。その時、

「ねえ、私ね」

 沙月が口を開いた。

「また、お母さんに部活を辞めろって言われたの。でもね、演劇部まで奪われるのは嫌だなって思っちゃって。本当はね、お母さんの言うこと聞かなきゃいけなかったんだけど、どうしても辞めたくないって思っちゃって。一体どうしたらいいのかわからなくて」

 彼女は一度言葉を切り、吐き出すように、苦しそうに続けた。

「だからね、うそ、ついたんだ」

「うそ?」

「退部届出してきたって言った。その時間で、先生に補習をしてもらってるからって」

 廊下で、場違いなほど楽しげな誰かの笑い声がした。じわじわじわ、と遠くで蝉の鳴く声が聞こえる。その隙間を縫うように、ごめんね、と沙月が言った。

 沙月が母親に嘘をついた、ということに、わたしは動揺を隠せなかった。

「それ、いつの話?」

「三日前」

 沙月の応えに、晴花は目を伏せた。三日前。わたしと晴花と一緒に、マクドナルドに行った日だった。

「そう、だったの」

 それきり、何も言えなかった。沙月は俯いたままだった。伏せた目が泳ぐのがわかった。沈黙を破って、彼女は再び口を開く。

「それからずっと、うそをついてしまうの」

「え?」

「自分でもね、わけわかんないんだけどね、うそをつくのがやめられないの。些細な、意味のないうそばっかりだよ。頭が痛いとか、具合が悪いとか。夕ごはん外で食べてきたから要らない、とか。もうね、よくわかんないんだけど、気付いたらそんなこと言っちゃってるんだよね。なんか、わたしおかしくなっちゃってるのかな」

 わたしと晴花はちらりと顔を見合わせた。わたしの唇はぴったりと閉じたまま開かない。

「あ、ごめん、ごめんね。こんな話して」

 沙月は笑う。晴花が沙月の方を見て、少し躊躇ってから尋ねた。

「今日、保健室に行ってたのも?」

 言ってからすぐ後悔したように、晴花は顔を歪めた。

「あれは本当……ううん、うそだったのかも。どうだったのかな。わかんないな」

 沙月はぼんやりと応えて、俯き、すすり泣きを始めた。泣き声はだんだん大きくなり、晴花が沙月の細い背中をさすった。こんなに近くに居たのに、わたしも晴花も、沙月の異変に全く気付いていなかった。そう思うと、胸が痛かった。

 塩田沙月は、とても綺麗な女の子だ。

 黒くて長いまっすぐな髪に、大きな目、透きとおるように白い肌。線はほっそりとしていて、黒いセーラー服がよく似合った。優しくて頭のいい、わたしの友達。わたしも晴花も、沙月のことが心底好きで、大切だった。


     *


 沙月の嘘は日に日にエスカレートしていった。

 沙月はわたしたちの中で一番演技が上手い。昼食を摂っていたら急に口元を押さえ、トイレに駆け込む姿も、体育の時に貧血で気を失う瞬間も、大袈裟に巻いた手首の包帯も、鞄に忍ばせた錠剤も、保健室で眠る青褪めた表情も、どれもが完璧だった。

「全部うそ」

 彼女は放課後の部室で、おかしそうに笑いながら手首の包帯を解いた。そこにはほっそりとした、まっさらな手首があった。わたしと晴花はただ、狂ったように笑う沙月を、戸惑いながら見ていることしか出来ない。

 今日も、昼休みに晴花と三人で昼食を摂っていると、沙月が急に口元を押さえて青褪めた顔をした。

「沙月? 大丈夫?」

 わたしは彼女の背に手を伸ばす。彼女の背中をさすりながらも、どうせ嘘なんだろうと言う疑念を抱いてしまう。ありがとう、ちょっとごめんね、と沙月は小さく言って席を立つ。晴花がそれに付き添う。席を立って一瞬、晴花はわたしを見た。わたしは何も言わずに二人を見送る。

 ひとり残されたわたしは、顔を上げて回りを見る。近くで弁当を広げていた女子のグループが、わたしたちの方を伺うような視線をよこす。――沙月ちゃん、最近ずっと具合悪そうだよね――うん、大丈夫なのかな。小声で話す声は、好奇心と心配を半分ずつ覗かせていた。

 何も知らない彼女たちが少し羨ましかった。わたしだってあんな風に、心から沙月を心配出来ればどんなに良かったか。でももう無理だった。わたしは、沙月の嘘を知っている。あれが嘘なのではないかと疑ってしまっている。それでもわたしは、何も知らない振りをして、体調不良の沙月を気遣う友人を演じなければならない。

 常に沙月に合わせて行動をすることに疲れているのはわたしだけではない。晴花も同じだった。沙月を保健室まで連れて行って、教室に帰ってきた晴花に、さっきの女子グループが声をかける。ねえ、沙月ちゃん大丈夫なの、という声に晴花は苛ついたような表情を浮かべた。声をかけた女子たちの表情が凍る。それを見た晴花はすぐに我に返り、

「あ、ありがとね、大丈夫。ちゃんと保健室に連れて行ったから」

 と笑って見せた。そう、なら良かった、と彼女たちは返したが、席に着く晴花を見ながら顔を寄せ合った。

――何、今の。岡本、沙月ちゃんのこと心配じゃないのかな。

――てかそもそもおかしいよね。あんなに何でも出来て超可愛い沙月が岡本や宮原と一緒に居るなんてさ。

――あいつら沙月の引き立て役って感じだよね。

――実は沙月に嫉妬してんじゃないの。女ってこわーい。

 やだ、聞こえるよ、という声に、聞こえてるよ、と返しそうになったが堪えた。

「……わたしまでとばっちりなんだけども」

 わたしは不機嫌な顔を作って囁く。

「悪い。ほんと、ごめん」

 晴花は机に肘をついて頭を抱えた。わたしは息をつき、彼女の痛んだ髪をぐしゃぐしゃと撫でる。

「ココア奢ってくれるまで許してやんねーんだからな。売店行こうぜ」

「……うん。行こう」

 晴花は顔を上げ、泣きそうな顔で笑った。

 

「夕理」

 放課後。今も沙月は保健室に居る。窓の外に向かって発声練習をしていた晴花が、ふと小さな声で、わたしの名前を呼んだ。

「どうした?」

 パソコンに向かっていたわたしは、こめかみに流れた汗を拭って晴花の方に視線をやる。彼女はグラウンドで練習する野球部の方に視線を投げている。

「あたしはさあ、沙月が全くわからなくなっちゃったよ」

 外から生ぬるい風が入ってきて、晴花の痛んだ髪を揺らす。わたしは視線をパソコンに戻し、アイスココアのストローを噛んだ。

「わたしにもわからんよ」

 わたしの返答に、晴花は何も言わなかった。 

 沙月はここで告白する。自分は今日、こんな嘘をついたのだと。

 わたしはパソコンの脇に置いたノートを見返す。沙月のついた嘘を、わたしは残らずノートに記入していた。ノートに万年筆を走らせながらわたしは改めて思うのだ。沙月の嘘を見破られてはならない。わたしたちは、演じなければならない。万年筆を走らせる左手は、いつも重い。

「ねえ、夕理、あたしは、沙月が言ってることの真偽も、あいつが何考えてるのかも全く、わかんないんだけどね」

 晴花は泳がせていた視線を、わたしに向ける。彼女は目を細め、そっと口角を上げて見せる。

「でも沙月が、今日はこういう嘘をついてしまったって言ってくれるってことは、あいつはあたしたちの前では嘘をつかなくていいって思ってるってことじゃないかなって思って」

 彼女の鳶色の瞳が、濡れたように光った。

「それだけは信じたいなって思うのはさ、うぬぼれかな」

 わたしは首を振る。

「わたしだって、おんなじ気持ちだよ」

 わたしの言葉に、晴花は頷いた。沙月が、きちんと呼吸が出来るのはこの部室だけなのだとわたしは信じている。だから、どんなに重くても大丈夫だ。わたしも晴花も、沙月のことが心底好きで、大切だ。だから、大丈夫だ。わたしは自分に言い聞かせる。

「ねえ、今度さあ、三人で何処か出かけようよ。マックで話して、服見たり、雑貨屋に行ったりするの」

 へらへら笑いながら晴花が言う。わたしは頷いた。

「そりゃあいい。沙月が来たら改めて話そう」

 けれどその日、沙月は部室に来なかった。

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