錆色の虚構

村谷由香里

第1話

 せめてこれが、真っ赤な嘘ならば良かった。


     *


 開演のブザーが鳴り、舞台袖から沙月が現れる。彼女は客席に向かって一礼、前口上を述べる。

「本日は誠華高校演劇部第二十五回公演『錆色の虚構』にお越し下さり、誠にありがとうございます。開演に先立ちまして、お客様にいくつかお願いがございます。会場内での許可のない撮影はご遠慮ください。携帯電話は音のならないよう、電源を切るかマナーモードに設定をお願い致します。なお、上演時間は、二時間を予定しております……それでは間もなく開演です。ごゆっくりお楽しみください」


 舞台は、演劇部の部室。

「――舞台は、演劇部の部室。わたしはパソコンに向かっている。…………」

 わたしはキーボードを叩く手を止めた。一度読み返し、バックスペースキーを押す。ワードの画面を白紙に戻して眉根を寄せた。さっきから前口上を書いては消し、書いては消している。何も思いつかない。

「部長ー。お困りですねえ。この晴花ちゃんがネタ提供してあげようかー?」

 背後からからかうような声が聞こえた。不機嫌な顔のまま振り返ると、同級生の岡本晴花がパソコンの画面を覗き込んでにやにやと笑っている。

「言ってみたまえ」

 どうせろくなもんじゃないだろうと思いながら、わたしは応えた。

「まず、カニ型の宇宙人が襲来してくる。で、みんなで協力して戦うの」

「一応聞こうか……それから?」

「カニ鍋で大団円」

「却下」

 間髪いれずに彼女の案を取り下げる。晴花は口先を尖らせて、えー、と言った。

「夕理知らないの? カニってよく見たらすっごい気持ち悪いんだよ。美味しいだけじゃないんだよ。その二面性って、なんて言うの、あたしたちみたいな思春期の少年少女が内包するこの、美しさと醜さの暗喩として最適だと思うんだよ。ね、醜い殻に守られた美味しいカニの身こそ我らの青春」

 わたしは無視してパソコンに向き直る。

「こらー! 無視すんなー!」

 晴花が楽しげに笑うので、わたしもため息交じりに少し笑って、ノートを開き、ペンケースから愛用の万年筆を取り出した。『醜い殻に守られた美味しいカニの身こそ我らの青春』と書いてみた。すぐに二重線で消した。その線が掠れている。わたしは万年筆の軸胴部を外し、空になったカートリッジを取り出す。ペンケースの中に、予備のインクが入っている。十本あったインクは、いつの間にかあと三本になっていた。そのうちの一本を、ペン軸に取りつける。

「カニ食べたいなあ。ねえ卒業旅行は北海道にしようよ」

 晴花は呑気に英語のワークを取り出す。

「受験に受かってから言え。あと宿題すんな。発声と柔軟しろ」

 わたしは振り返らずに応える。

「冷たい。北海道の雪みたい」

「そんなに行きたきゃ仲良しの圭(けい)太(た)くんでも誘いなさいよ」

「別に仲良くないです」

「毎日一緒に帰っといて仲良くないとかよく言うわ」

「うるさい」

 わたしと岡本晴花は、誠華高校演劇部の三年生だ。わたしが部長で、彼女は副部長だった。部員は全員で三人。わたしたちと、もうひとり、塩田沙月という同級生がいる。全員三年生だ。去年、今年と新入部員に恵まれなかった我が演劇部は、わたしたち三年生の引退をもって廃部となる。

 わたしと晴花、そして沙月は、一年生の頃からずっと同じクラス、同じ部活で苦楽を共にしてきた。親友と呼べる関係だ。

「沙月はまだ保健室かな」

 発声練習を一通り終え、晴花がぽつりと言った。眼鏡をかけ直し、わたしは応える。

「どうかな。帰ったかもね。放課後迎えに行った時はまだ寝てたし」

「そうだねえ。最近増えたね、あいつ。保健室に行くこと」

 晴花が視線を落とす。わたしは彼女が立つ窓辺に視線をやった。梅雨明け前だが、外はすっかり夏の様相だった。熱気と湿気を含んだ空気が満ちている。県予選を間近に控えた野球部の声がここまで響く。わたしは窓の外に目をやったまま、口を開いた。

「いろいろ大変なんじゃないの。受験の件とかさ。お母さん、最近一層厳しいみたいだし」

 その時、ゆっくりと部室のドアノブが回った。わたしたちはそちらに視線を向ける。ドアを開け、沙月が姿を現す。

「ごめーん、遅くなっちゃった」

 申し訳なさそうに言い、白い肌を一層青白くさせて彼女は笑った。

「大丈夫なの?」

「大丈夫。偏頭痛が酷かっただけだから」

 晴花の問いに沙月は薄く笑って頷いた。疲れている。わたしは沙月の表情を見て思う。

「ねえ」

 晴花がわたしを振り返って口を開く。わたしは首を傾げて先を促した。

「今日の部活は終わりにしよーよ」

「え、私今来たのに?」

 沙月が目を見開く。わたしは目を伏せて少し笑う。

「どうせ脚本も出来てないんだし。そうだ、マックに行こう!」

 晴花の考えていることは何となくわかった。沙月を元気づけたいのだ。ゆっくり美味しいものでも食べて話をしようとでも言いたげだ。わたしは眼鏡を上げて、

「マック行くかー」

 と言った。沙月も目尻を下げて笑い、小さく頷いた。


 マクドナルドでポテトとコーラを頼んで、わたしたちはどうでもいい話をする。話しながら、わたしは脚本のネタになればと、万年筆でノートに自分たちの会話を写し取る。

――そう言う感じでね、あたしは夕理にネタを提示してやったってわけ。

――はるちゃん何て言うかあれだね。前衛的。

――夕理がスランプ抜けられなかったらあたしが脚本書こうかな。

――それいいかも。新しい。

「ちょっとそう言うこと言うのやめてくれるー?」

 わたしは手を止め、口を尖らせて抗議する。晴花はげらげら笑って、

「冗談だってー!」

 と言う。ごめんごめん、と沙月も愉快そうにしている。わたしも笑い、また万年筆を走らせる。そこから晴花は、卒業旅行は北海道にしようとカニの話を蒸し返した。

「いいんじゃない? 北海道」

 案外沙月が乗り気で、わたしは少し困った顔になる。

「三月だよ。あっちはまだ寒いし超絶お金かかるよ」

「でも、私たちみんな志望校別々だし、最後にぱーっといい思い出作りたいじゃない」

 沙月は言う。そうだそうだ、とシェイクを吸いこみながら晴花が続く。わたしは顔をしかめたまま、ノートに万年筆で卒業旅行候補地、北海道、と書いた。

「あー。やだなあ。卒業も、受験も」

 少し冷めたポテトに手を伸ばしながら晴花が呟く。

「あんた期末テストどうだったのよ」

 わたしの言葉に、晴花は成績表持ってるよ、と鞄を開けた。じゃーん、と晴花は軽い調子で成績表を開く。わたしと沙月はそれを覗き込む。全体的にひどい。赤点だらけである。学年順位は下から数えた方が早い。

「やばいぞ晴花! 流石に三年の今の時期に赤点はやばい!」

「うわー、先生みたいなこと言っちゃってるんですけどー」

 わたしの言葉に、晴花は危機感のない様子でげらげらと笑う。

「そういう夕理はどうせミス平均点なんだろ。順位もど真ん中だろ」

「その通りだよ、悪いか。お前よりは大分上だよ」

 わたしたちのやりとりを見て愉快そうに笑っている沙月に、

「ちなみに沙月は?」

 と、晴花が尋ねた。

「私も大体いつも通りかな」

「沙月のいつも通りは大体学年一位か二位だよね。凄い」

「いやー、ところが今回四位だったんだー」

「それでも上位じゃん! 二百五十人中の四位だよ! 凄いよ!」

「そうでもないよ」

 沙月のその言葉は謙遜でも、まして嫌味でもなく、彼女は本当に困っているように目を伏せた。

「最近成績落ちてばっかりなんだ。模試でもそう。偏差値が上がらなくて。やればやるほど何だか空回りしちゃってね。駄目なの。またお母さんが口利いてくれなくなっちゃって」

 そこまで言って、沙月はしまった、というように口に手をあて目を見開いた。弱音を零したことを詫びるように、彼女は申し訳なさそうな視線を向ける。

「大丈夫だよ、沙月」

 晴花が笑って言う。沙月は目を泳がせて、微かに頷いた。わたしは少し、目を逸らした。

 沙月の両親は彼女が幼い時に離婚している。それからずっと、沙月は母親と二人で暮らしてきたそうだ。母親は美しく優しい人だが、時折酷く情緒不安定になると聞く。母親の悲しみも、怒りも、過度な愛情も、大き過ぎる期待も、この十年間全て沙月に向けられてきた。それに応えようと、彼女は努力を怠らなかった。成績は常に学年上位だったし、志望大学も難関と言われる某国立大学だ。彼女は勉学だけでなくスポーツでも音楽でも優秀な成績を残した。二年生の頃は推薦で生徒会役員を務め、クラスのまとめ役を進んで買って出るような、絵に描いたような優等生だった。それもこれも全て、一心に注がれる母親の期待に応えるためだ。彼女が無理をしていることは、側に居ればわかった。

「親は大事かもしれないけどさ、結局他人だよ。お母さんは沙月の神様なわけじゃないでしょう」

 わたしは言う。沙月は、そうだね、と応える。肯定の言葉を返しても、その目は決してわたしを見ようとはしない。何をされても母親を嫌いになれないと言う。あまりにたくさんのものを受け取ってきたから。彼女はそう言って笑う。けれど、沙月はもうぎりぎりだ。

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