倉庫

孔田多紀

冬の娘たち

  1


 私が育子さんの家を最後に訪ねたのはクリスマスの日の寒い昼だった。

 東京では時期としては珍しい小雪が、夜明け前からちらついていた。大通りを外れると、嘘のようにひっそりした一画があった。まだ日没前だというのにあたりは薄暗く、長い塀の続く小路をこわごわと歩きとおして、ようやく目指す家へ着いたような気がした。

「萩原家」という、敷地の割に小さな表札が出ている。奇跡的に空襲を免れたこの一帯には、昔から萩原の一族が固まって暮らしているという。育子さんが結婚して以来、私も何度も通ったことのある家だった。

 使用人のお爺さんが門を開けてくれ、庭に足を踏み入れた。隅には小さな池があり、風が水面に細波を立てている。その脇は山茶花の植え込みで、赤い花弁の上に雪の欠片が絶えずしらしらと降りかかる。案内されるまま敷石をたどり、母屋へと向かった。もうどのくらい悪いのだろう。待たされているあいだ、そのことばかりが気にかかった。

 育子さんと知り合って、十年になるだろうか。きっかけは美術学校で同期だったことだ。何かにつけぼんやりした私と違い、育子さんの活躍は、最初から目覚ましかった。西洋画に較べるとどちらかといえば古臭い日本画の技法に、若いうちからあれこれと勉強した成果を次々もちこんだ。筆も早く、展覧会などで頭角を現すのもあっという間だった。

 学校で教えていた萩原先生から目をかけられ、息子さんとの縁談を勧められたのも、彼女がそれだけ優秀だったからだろう。そんな彼女と私が長いこと友人づきあいしているのも不思議だけれど、あまり鋭い人にはほどほどに鈍いヤツのほうがついていけるのかもしれない、と自分では納得させている。

 育子さんが身体の不調を訴えたのは、一年ほど前のことだった。青森ではそれなりの名家の出身だという彼女は、大学教師の萩原徳夫氏と結婚し、子供はいない。一年のうち数ヶ月は、東京の家をおいて信州の別荘で制作に没頭する生活を送るという、うらやましいような境遇だった。私のほうはといえば、卒業以来、三十を前にまだ独身で、絵を専門に生活できるわけもなく、ふだんは働きながら時折思いだしたように描いては出品に応募している。年に何度か育子さんに呼びだされ、話し相手というか、美術界の最新動向に「はあ」と相づちを打つ役割だった。

 ある日、別荘生活から帰ってきたばかりの彼女は、どうもこのところ根を詰めて作業ができないといった。二十歳の頃とは違うとはいえ、まだそんな年齢でもないし、と、不審がって医者に見てもらったところ、どうも甲状腺に異常があるという。それからは会うたびに元気をなくす様子で、私の慰めはことごとく空しく響いた。

 お爺さんに合図され、私は二階へと階段を上がった。他に誰もいないのだろうか、と思うほど、家の中は静かだった。部屋に入ると、ベッドの上の育子さんが見えた。

「なんだ、思ったより元気そうね。もうダメだなんて弱音を吐いてたって聞いたから、心配しちゃった」

 私は努めて明るくそういいながら、内心驚いていた。前よりだいぶほっそりしていた。ずいぶん身だしなみに気を遣う人だったのに、化粧っ気はないのはもちろん、うなじのあたりにほつれ毛が目立つ。寝間着の白さが、顔の血の気のうすさを引き立てていた。

 育子さんは私のほうを見ながら、しばらく無言のままだった。お見舞いの林檎を渡すと、ありがとう、と小さく呟いた。そのまま手に持った丸い林檎を見つめて、「わたし、もう長くないかもしれない」といった。

「何いってるの。育さんみたいな人にそう簡単に死なれたら、世の中困っちゃうわよ」

 私はどうにか元気づけようとして、理由にならないようなことをいい続けた。この時ほど自分の無力さ、頭の悪さを呪ったことはない。育子さんはそんな私の心情を知ってか知らずか、「もう体力がなくって、ダメね。最近、全然描けないの」と、窓のほうを見ながらいった。庭はうっすらと白くそめあげられて、粉のような雪が、かさかさと窓ガラスにぶつかっていた。私はその時なぜか、昔読んだアメリカの短編小説のことを思いだした。

 若い女の画家が二人、同じアパートに住んでいて、一方が肺炎にかかる。生きる希望を失い、ベッドの上で、庭に見える木から散る葉の数をかぞえる。最後の一葉が落ちたら、自分の死ぬ時だ、などといって、語り手の女を心配させる。

 読んだのはたぶん、まだ中学生だったころで、(なんて馬鹿なことをいう女だろう!)と思ったものだけれど、実際、人は気弱になれば、どんなことでも悪い方向へ考えがちになるものだ。そしてこの部屋からは、そうした話のとっかかりになるようなものは、何も見えなかった。私は、せめて話の種にそんな木の一本でもあればいいのに、と思った。

「もっともっと実力をつけるつもりだったわ。そして六十くらいになったら、集大成みたいな世界的な傑作を描いて、歴史に名を残すんだ、なんて、俗な野心をもってたのに」「描けるわ、育さんだったら」「だから、もう駄目なのよ。……燃やしちゃったもの」「何を?」「これまで描いたものを」

 そこから先の会話はあまり覚えていない。彼女は自分のこれまでの作品を不完全な欠陥品だと見なし、爺にいいつけて、ほとんどを燃やしてしまったという。

 どのように別れを告げたのだろう。帰り際、玄関先で爺に呼び止められた。別室に招き入れられるなり、私は彼に問い質した。でもすぐ、彼の立場の苦しさに思いあたった。

「実は、そのことなんですが……」彼は声を潜めて切り出した。「わたくしはどうも、しくじってしまったようなのです」「どういうこと?」「奥様の御作は、手に入る限りすべて集めたはずだったのですが……つい先ほど、一枚出てきてしまったのです」

 そういいながら、私も見覚えのある一つの絵をとりだした。幻のような、霧のような淡い白の中にたたずむ二人の若い女……。「冬の娘たち」と題されたものだ。制作されたのは、まだ学生時代の頃。正月の帰省から戻ってきた育子さんと、遅い初詣と称して二人で出かけた時の光景だ。

「東京の雪はやっぱり軽いわ。小さい時、ズンズン積みあがるように降るものだから、わたし、一生ここに閉じこめられちゃうんじゃないかと思って、早く出て行きたくて仕方なかった。でもたまに帰ると、(ああ、帰ってきたな)ってなんとなく安心する。本当にたまにだけど。この前、とっさに誰の顔が浮かんだと思う?」

 私は突然の質問に答えられず、

「誰かしら」

「あなたよ」

 なんだかドギマギするようなことをいわれた。

「いつか、こんな季節に一緒に行ってみないかしら。案内したい」

「ええ、私も。きっと行きましょう」

「きっとよ」

 それから私が彼女の実家を訪ねることはなかったのだが、彼女はその日の印象を想像的な絵にした。広い雪原の中に、女が二人でいる。これが私たち。単行本二つを横に並べたほどの大きさしかない、小さな絵にぽつんと描かれた人物の顔は読みとれない。

「もしかすると、この絵は、あなたがお持ちのほうが良いのではないかと……」私は爺の目を見た。彼はいった。

「このことはどうぞ、ご内密に」


 家へ帰ると、さっそく絵を紐解いた。人物がまるで生きているかのような鮮やかさは、まさに育子タッチだ。印象派の描く柔らかな光に似た珍しい技法で表された雪は、寒さと同時に、あたたかさも伝えてくる……。

 二人の娘が、どことも知れない場所を歩いている。それは初詣帰りの東京であり、幻の青森行でもある。娘たちは絵を描く。一方は結婚し、一方は就職して、二人は別々の道を歩き始める。やがて戦争があり、空襲があり、食糧難、住宅難、復興、と周囲の状況が目まぐるしく動く中で、二人は絵を描き続ける。ふいに一人が病気で寝込む。もう一人は慌てる。見舞った帰り道、泣き出してしまう。家に着いて、自分に何ができるだろうと考える。彼女は祈った。生まれて初めて真剣に。でもふだんそう熱心に祈ったことなどなかったから、とてもヘタクソだった。もし絵の神様がいるのなら聞き届けてください。私はもう、何も描けなくてもかまわない。そのかわり、彼女のことを助けてあげてください。……なんて馬鹿な女だろう!


 目が覚めると、暗い部屋に朝日がさしこんでいた。


  2


 ――そして、その願いは聞き届けられた。




【参考資料】

『オー・ヘンリー傑作選』大津栄一郎訳(岩波文庫、1979)

舟橋美香子『父のいる遠景』(講談社、1981)

辻原登『父、断章』(新潮社、2012)

村松友視『極上の流転 堀文子への旅』(中央公論新社、2013)

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