トイレ

 校舎の裏手にある封鎖された旧校舎。黄色い規制線が入口に張られていて、中に入ることはできないが、やんちゃな奴らの力で外側から窓の鍵を開けることができる技術が、暗に生徒達の間に広まっていた。おかげで昼間でもどこか不気味な校舎内に入りたい放題。夜には肝試しに侵入する連中が校内外問わずに五万といるとかいないとか。一部の教師はそれを知りつつも、自分たちも恐怖体験を楽しむために敢えて学校側に報告していないという噂もある。そんなわけで、入るところを人に見られなければ、旧校舎への出入りは実質自由状態だった。

 腹痛に耐えかねて侵入した旧校舎のトイレ。個室に駆け込むとズボンを下ろして全力を搾り出す。普通に綺麗な校舎のトイレを利用すればいいのかもしれないが、クラスの連中から陰キャラ扱いされている身としては、少しの油断が命取りとなる。水道で水を飲んでいるだけで、蛇口の口を指で狭められて勢いよく噴射した水でびしょ濡れにされるし、日直の仕事で黒板の文字を消していると、使われていない黒板消しで頭をパンパン叩かれて髪の毛を真っ白にされる。今はまだ悪ふざけという認識で我慢もできるが、次第にエスカレートしていって教科書やノートを破られたり、スマホで動画を撮られてネット上にアップされたり…そんなことになったら堪ったもんじゃない。トイレの様子を撮影されて世界に発信された日には、お婿に行けなくなるじゃないか。…婿入りする予定は今のところないが。そんなわけで、催した時は決まって旧校舎のトイレを利用している。幸い、水も電気も通っていてまだ利用可能なのだ。掃除の頻度が少ないのか、汚いのが玉に瑕ではあるが、洋式なので座れる個室としても便利だ。水音が響く程度で、基本的に静かな場所のため、ゆっくりと寛げるし、チャイムの音も聴こえ易いから居心地も良い。出すものを全て出し、すっきりしたところで、右手に取り付けられたトイレットペーパーに手を伸ばす。

「…あれ?」

突如やってきた危機的状況。手に伝わる感触はスベスベとした芯の肌触りだけ。どれだけ回転させても白い滝は流れ落ちない。清掃頻度が少ないということは、トイレの管理頻度が少ないということで、そもそも利用者が居ないであろう場所に紙を定期的に供給する必要は無いに等しいわけで…。

「隣の個室に、紙、あるかな?」

尻に残った穢れの残党の墜落を恐れながらもその場に立ち上がり、ズボンを下ろしたまま個室から出ようとした時だった。目的地である隣の個室からトイレの水を流す音が聞こえる。はて、ここにやってきた時には隣のドアは開いていたはずだが…。意識を排泄に集中している時に誰か入ってきたのだろうか。一旦腰を下ろして隣が出て行くのを待つことにする。しかし、隣人は中々立ち去ってはくれない。このままでは休み時間が終わって、次の授業に遅れてしまう。ここに居たことが人にバレるのは嫌だったが、諦めて別の手に出た。

「あの、左隣の者ですが、そちらにトイレの紙って余ってます?よければ分けていただきたいのです…おぅ!?」

声を掛けている途中で替えのロールが放り込まれてくる。助かった。返事はなかったものの、顔も分からない人間に対して願いを聞き入れてくれるのだから、親切な人に違いない。地獄に下りてきた蜘蛛の糸に心から感謝をせねば。

「ありがとうございます!助かります!」

返事の代わりなのだろうか、隣人は水を再び一度だけ流すと、それ以降物音一つ立てることはなかった。拭き取りを済ませて個室を出て、気になって隣の個室を見てみると、個室のドアは開いたままで、閉められた蓋の上にトイレットペーパーのロールが一つ置いてあるだけだった。

 今日は母親が早出のため、弁当はコンビニで調達してきた。サクサクのから揚げが4個、卵焼きとスパゲッティーにポテトサラダもついた、から揚げ弁当だ。いつもなら二階の美術室で、残されている絵画や彫像を眺めての優雅なランチを楽しむところだが、そちらには既に先客が数名陣取っていたため、仕方なく便所飯をすることにした。他の教室を利用してもいいが、美術室の連中が腹ごしらえの後の旧校舎探検を始めた場合、遭遇の危険性は極めて大きい。しかしトイレであれば、見るべきものもないので訪れる可能性も少ないだろう。女子トイレならば、七不思議で有名なものがあるし可能性はあるだろうが、男子トイレのオカルト的な噂は聞いたことがないので安心だろう。トイレ独特の臭いは漂っているものの、それをかき消すほどにから揚げの香ばしさが室内を満たしてくれる。弁当の蓋を外して底部に重ねて、膝の上に置き、両手を合わせていただきます。

「っと、忘れてた。」

食べるためには道具が必要だ。割り箸を出すのを忘れていた。膝の上の食事を落とさないようにゆっくり体を動かしながら、ドアのフックに掛けておいたコンビニの袋を手に取る。

「ん?んん!?」

無い。入っていない。店員さんが入れ忘れた?もしくはリュックに入れていて、袋から抜け落ちてしまったか。いずれにせよ、このままでは食事ができない。ワンチャン手で食べるべきか。いやいや、ここに入るまでに雑菌がついていそうな場所にあれこれ触ったぞ。一度教室に戻ってリュックの中身を改めるべきか。

「割り箸があれば…。」

重い息を吐き出して、弁当の蓋を戻し、袋に入れ直して教室に戻ろうと立ち上がる。

「あれ?」

ふと、隣の個室から水を流す音が聞こえる。前にも同じようなことがあったような。隣の個室の方を見て立ち止まっていると、不意に向こうから何かを投げ込まれた。個室に侵入して来た何かは、帰るべき場所に収まるように袋の中に落ちた。再び便座に座り、袋の中身を確認すると、買い物をしたコンビ二のロゴが入った袋に包まれた割り箸が入っていた。こちらの声が聞こえていたのか、隣部屋の利用者が気遣ってくれたのだ。恐らくこの前、トイレットペーパーを取ってくれたのと同じ人物なのだろう。何も言わずに手を差し伸べてくれるその様は、正義のヒーローのように感じられた。

「あの、この前も助けてもらっちゃって、ありがとうございます!」

一度、面と向かってお礼がしたくなり、個室を出て隣の個室の前に立つ。

「あれ?」

しかし、個室のドアは開いたまま、中には人の姿がまるでなかった。出ていったような音も聞こえなかったが、そもそもドアを閉めていなかった可能性もある。向こうとしては、顔を合わせては不味い事情でもあるのだろうか。だとすれば益々正義のヒーローじゃないか。シャイなヒーローの代わりに空白の隣室に向かって深く頭を下げてお礼を言い、自分の個室に戻って昼食を取った。

 最悪だ。人生の中でこれほど死にたいと思ったことは無い。放課後、いつもの個室で用を足しながら、今日の出来事を思い返す。音楽の時間、机の中に花子ちゃんのアルトリコーダーが入っていた。意味が分からなかった。とりあえず、彼女が困っているだろうからそれを彼女の元に持って行こうとしたのだが…。リコーダーを手に持った瞬間にXXが大声を上げた。

『うわ!太郎のやつ、花子ちゃんの笛盗んでる!!』

音楽室内の視線が集まる。いつの間にか自分の机の中に入っていたんだと、彼の言葉を否定して弁明に徹するが、周りの目は軽蔑の色を崩さなかった。足早に花子ちゃんの席に向かって笛を返すが、彼女も疑いの眼差しを向けてきた。今日の音楽の時間は最高に居心地が悪かった。班に分かれて笛の練習になったときも、XXが花子ちゃんに「太郎のやつにペロペロ舐められたかもしれないからよく洗っておいたほうがいいよ」と油を大量に投下していて、疑惑という大火事は当分止みそうになかった。花子ちゃんのことは確かに好きだが、そんな姑息な手段を取ってまで彼女と繋がりたいとは思っていない。全ては間違いなくXXの策略だ。笛を手に取った時点で、あいつが立っていた位置からネームカードを確認することは不可能だった。なのにあいつは花子ちゃんの物と断定した。あいつが盗んだのだ、間違いない。

「くそっ!XXのやつ!!死ねばいいのに!!!」

尻を丁寧に拭き、悪態共々紙を水に流していく。排泄物は流せても、あいつの行なった所業は水に流せはしない。無垢な少年の恋心に終止符を打ったあいつだけは絶対に…。ズボンを上げてベルトを締める。これからの学校生活に気が重くなりながらも、個室を出ようとノブに手を掛けた時、隣の個室から水を流す音が。

「え…うぇええ!!??」

音に気付いてすぐ、隣から質量の大きなものを投げ入れられる。反射的に落ちてきたものを掴んでしまったが、手に収まったものを見て、血の気が引いた。

「腕…?」

関節の部分で綺麗に切断された人間の右腕が手をぐったりと下に垂らしていた。切断部分からは赤い水滴が滴り、人差し指に伝って雫を零している。咄嗟に掴んでしまったものの、急に恐ろしくなって、蓋を閉めた便器の上にそっと置いた。慌てて個室を出て、悪趣味なものを投げ込んできた隣室の前に立つ。立ったはいいが、そのまま声を上げることも出来ずに固まってしまった。

 開かれていた個室のドアの中、床は真っ赤に染まって、ぐちゃぐちゃな肉塊と切断された四肢が散らばっていた。便器の上では、両目を抉られて脳みそを抜き取られたXXの頭が、恨めしそうにこちらを見つめていた。


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