時計

 真っ白な部屋。ふわふわした感触に包まれながら、向こう側を見る。丸い時計がぴたりと壁にくっついている。針は真上を見上げて動かない。そろそろお腹が空いた。大声を上げると、髪の長い女の人がすぐにやってきた。いつでも自分勝手に呼びつけるのに、この人は嫌な顔一つすることない。それどころか何がそんなに嬉しいのか、ニコニコと温かい眼差しを向けてくれる。用意ができたところで、空腹に耐えられずにすぐにしゃぶりつき、満足するまで食事に没頭した。

 針が1を指す。今日も楽しい一日だった。太郎君と花子ちゃん、次郎君と一子ちゃん。仲良し5人組の遊びはいつだって楽しい。時々花壇をいじっている園長先生も一緒に、かくれんぼをしたりボール遊びをしたり、おままごとをしたり折り紙をしたり。家でゲームで遊ぶのも楽しいけど、やっぱり誰かと一緒に過ごすというのは素敵だね。明日は、どんな一日が待ってるのかな?今日の僕、またね!

 眠い目を擦る。もうこんな時間か。今までうつ伏せていた机の上には教科書やらノートやら学習帳やらが散乱している。結局終わらなかった。夏休み終了の一週間前、あのタイミングで手をつけておけばまだ間に合ったかもしれない。それを暑さのせいにしたり、追い込まれてから本領発揮するとか何の根拠もなく思ってしまったり…自分の馬鹿さ加減に嫌になる。夏休みを全力で楽しみ過ぎた結果、こうしてサボったツケが返ってきたわけだ。日記や自由研究はその場の閃きでどうにかなった。おかげで妄想日記とインターネットで調べた無難なことしか書かれていないアサガオの成長日記になってしまったが、書き直す時間は既にない。後は国語と算数ドリル…その他の宿題は次郎にでも見せてもらうとしよう。集団登校まで後一時間。せめて片方だけでも終わるといいな。

 東を向く針。塾が終わってようやく一息つける。外はすっかり暗くなってしまった。遅い帰宅というのは部活動をやっていたときは当たり前だったし慣れていたが、終わった後の疲労感というのは、体を使った後よりも頭を使った後の方が何故か大きく感じる。僕だけだろうか。帰りにコンビニで買ってきた一口チョコを口の中に頬張り、ベッドに背中からダイブ。両腕で枕を作り、ぼんやりと天井を見つめる。進路が決まらないままとりあえず進学校を目指す。この決断は正しいのだろうか。良し悪しがどうであれ、先に進んでから見えてくるものもあるかもしれない。今は真っ直ぐ志望校合格を目指さないとな。

 雀の挨拶で目が覚める。スマホのアラームよりも早く起きてしまった。窓を開けて大きく深呼吸をする。外はギラギラ元気な晴れ模様。雨にならなくてよかった。今日は忙しくなる。郷土博物館へ行って展示物の写真や資料を撮影・入手して、歴史資料館でアポを取った学芸員さんに取材して…少し街中を歩いて史跡を確認してから帰ってきてプレゼン用のデータと配布資料の作成。今までグループ活動が多かっただけに、単独での施設訪問と聞き込みは緊張する。しかしこれを乗り越えられなければ、更に緊張するであろう大勢を前にしてのプレゼン会に挑むことはできない。大丈夫だ、僕ならできる。事前に質問内容の確認と練習もしたじゃないか。大丈夫。両頬を叩いて悪い考えを吹き飛ばし、ひとまず顔を洗いに洗面所へ向かった。

 疲れた…。慣れないスーツは本当に肩が凝る。重苦しい社会人アーマーを荒々しく脱ぎ捨て、Tシャツとパンツだけになってベッドに倒れこむ。厳しい所に入ってしまったものだ。簡単なミスをしただけでも轟音を伴って雷が落ちる。休憩時間中もネチネチと絡んできて、安らげる時間が無い。新人がすぐにやめる理由の一つがこういう所にあるのだろうが、これも一人前になるための試練の一つと考えれば耐えるべきところなのだろうか。それにしてももう少しお手柔らかに願いたいものだ。思い出したように起き上がり、冷蔵庫から冷えたビールとチーズスナックを取り出す。テレビを流してボーっとしながら、お疲れ様の一杯をグイッとやるのが今のささやかな楽しみだった。

 時計の針は俯いたまま。対照的に僕は前を真っ直ぐ向いている。明日は結婚式。入籍は昨年済ませたわけだが、花絵との仕事の都合もあり、式はこの時期に決まった。花絵のご両親に報告に行った時には、彼女の祖父が「死ぬ前に孫の晴れ舞台まで見られて嬉しい」と喜びに満ち溢れていた。親孝行だけでなく、祖父母孝行もできて花絵も誇らしげだったな。招待状を送ったほとんど全ての人が忙しい中足を運んできてくれる。必ず成功させたい。そして、頼れる夫として花絵をちゃんとエスコートしないとな。ベッドで眠る彼女の頭をそっと撫でて、スポーツウェアに着替えて、日課の早朝ランニングに向かった。

 今日は随分と飲まされた。山田のやつ、加減を知らないから困る。後輩たちも大分飲まされていたし、明日は寝覚めが悪そうだ。ベッドでは、小さな妖精たちが先にお休みになっている。無垢な寝顔が一日の疲れを吹き飛ばしてくれる。椅子に座って癒しの天使たちを眺めていると、最愛の女神様が昆布茶を持ってきてくれた。飲み会の後のこの一杯が胃に安らぎを与えてくれるようでホッとする。女神様と〆の杯を交わしながら、明日への活力を取り戻した。

 外はまだ薄明るくなったばかり。日頃から走ってはいるものの、競技として体を動かすのは大学時代以来だろう。今日は息子の運動会がある。親子参加の種目がいくつかあるほか、リレー戦のOBチームに誘われてしまった。陸上部チーム、教員チームとのスペシャルマッチになるのだが、ここは是非とも父親のかっこいい所を子供達に見せたいものだ。自分が子供の頃は、同じように父がリレー戦に参加して途中で肉離れを負いながらも最後まで走り抜けた。チームの足を引っ張るまいと苦痛の表情を浮かべながら最後まで走り切った父の姿は素直にかっこよかった。それを察してか、父も息子に良い背中を一つ見せられたと満足そうだった。父親になって、彼が学校行事に全力で取り組んだ気持ちがより分かった気がする。僕も父親として子供たちにできるだけ多くを残してやりたい。その一つとして競技に全力でぶつかる父の背中を焼き付けられればいいな。軽くその場で屈伸して、最後の調整というほどでもないが、いつものようにランニングに向かった。

 9に目を奪われる時計の針。これが本当の求愛ってか。…最近はこういう物言いがすっかり癖になってしまった。気持ちは今なお20代のままだが、僕ももう親父ギャグの似合うおっさんなんだなぁ。花絵は「それだと私もおばさんになっちゃうから、いつまでも若者意識を持っていて!」なんて可愛らしいことを言っているが、増えたしわ、深みを増す声、徐々に衰えつつある体力…現実には抗えない部分が見え始めている。とは言っても、病は気から、ではないが、気持ちだけでも元気に保っていれば、若々しさも自然とついてくるのではないだろうか。そう思いつつ、テーブルの脇に並べられた栄養ドリンクの小瓶の数を見て鼻で笑った。

 目覚ましよりも先に目を覚ます。悪夢を見ていた。息子が何も言わずに家を出て、二度と帰ってこないという夢。ここ半年、息子と会話ができていない。声を掛けても「うるせえ!」と舌打ちされておしまい。花絵も手を焼いているようで、彼との関係が上手くいっていないと漏らしていた。時期的に反抗期なのだろうか。ただここで黙って静観するだけというのは違う気がする。自分の時もこっぴどく父に叱られ、一人で色々考えて結論を出した覚えがあった。彼にもきっかけと時間が必要なのかもしれない。ツンツンしてはいるが、腹が減ればご飯の時間にはちゃんと家族の前に現れてくれるし、その時にでも話をしてみるとしよう。

 緊張した。娘が彼氏を連れて来た。お義父さんも僕が挨拶に行ったときは、同じように不安と緊張感を持っていたのかもしれない。しっかりと娘を幸せにできるか、人としての常識は弁えているか、ドラマのように結婚してから豹変したりしないか…最後のは考えが早過ぎるが。まあ、心配は結局杞憂に終わったのだが。実際に会ってみて、想像していた以上に好青年だった。快活で、話し方もハキハキしていて話し易い。ちょっとした心遣いもできて、娘には見る目があると感心してしまった。妻も彼を気に入ったみたいで、うちとしては完全にウェルカム状態になった。息子との対面はまだ実現していないが、彼もきっと気に入ると思う。相手方の御両親も娘を気に入ってくれれば、大団円の万々歳だが、果たしてどうなるやら。

 壁に掛けられた丸い時計を見る。針は真上を向いていた。もうこんな時間か。本を机に置いて立ち上がると、後方の小さなベッドから元気な泣き声が発せられ、部屋中に響く。その声に気付いた息子の嫁が部屋にやってきた。おまんまの催促だろうか。さすがに食事時に居座るのは嫁もバツが悪かろうと、僕は足早に部屋を出ていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る