でんでん虫

 大学の庭園に植えてあるアジサイ。太郎は、よくその鮮やかな色合いに目を奪われていた。いや、アジサイも確かに目当ての一つだっただろうが、高校で知り合ったときから、太郎は生き物が大好きだった。校庭の草むしりをしているとアリを追いかけて巣を見つけて、トンボが鉄棒に止まっていれば、休み時間いっぱい使ってその姿を眺めていた。そんなに好きなら理学部にでも進めばいいのにと、彼に言ったことがあるが、「こういうのは趣味に留めておきたい」と返されてしまった。そんなわけで、太郎は俺と同じ大学の工学部に進んだのだが、講義と講義の合間の時間、暇さえあれば大学構内の生き物探しに夢中になっていた。とりわけ最近のお気に入りは、よくアジサイの葉に乗っているカタツムリ。ゆっくりとした動きと殻を背負った姿が愛らしいというが…俺には分かりかねる。今日なんて大雨が降っているというのに、わざわざ傘を差してまで魅入っているのだから恐れ入った。

「いい加減、濡れるぞ?」

「濡れないための傘でしょ。」

太郎の隣に並んでしゃがむ。カタツムリはいつもよりも大きくなっているように見えた。たしか、体のほとんどが水分なんだっけ。雨を取り込んだのだろうか、親指二つ分くらいの大きさはある。ここまで大きくなると、塩をかけて小さくしてみたくなる。巨大カタツムリの遅い行進を目で追っていると、太郎はそのカタツムリが乗った葉を千切り、いつの間にか用意していた空の紙コップに入れた。

「うへぇ、持ち帰るのかよ…。」

「癒しが欲しいんだよ。バイトと勉強に揉みくちゃにされる日々の中に、心のオアシスを。一郎も持ち帰ってみたら?」

「遠慮しとく…。」

太郎は紙コップの中身を愛おしそうに覗き込み、湿らせたティッシュを一緒に入れて蓋をした。

「この子を置きに一旦アパートに帰るわ。そっちの最終講義が終わったら連絡して。」

「うい。次郎と三郎、サークルで忙しいみたいで先に店行ってていいらしいから、現地集合で。」

「了解~。」

太郎は傘を上下させて相槌を打つと、コップを持ったまま出口に向かって歩いていった。ふと、アジサイに目を戻すと、葉のあちこちにカタツムリが集まっていた。パッと見ただけでも20匹はいるだろうか、一匹だけなら絵になって風情があるが、ここまで集結されてしまうと、かえって気持ち悪い。

「この時期、アジサイの花が見頃です…ってか?」

雨中の花見客の一人に息を吹きかけようとしたところでチャイムが鳴る。次の講義の開始を知らせるものだ。

「さて、この時間はレポートを終わらせないとな。」

息の代わりに背中の殻を指で撫で、パソコン室のある学部棟に向かった。


 一体どうしたというのだろうか。三日前から太郎と連絡が取れない。次郎達やサークル仲間の花子も電話やメールを入れたらしいが、返事が一切無いという。何かあったのだろうと思い、昨日、太郎の部屋に向かったが、電気は消えていて、鍵も掛けられていた。大家さんの話では普通にゴミ出しもしているし、長期旅行にも行っていないらしいが…。彼に何か悪いことをしてしまったのだろうか。それとも職場で嫌なことがあって塞ぎこんでしまったか。今日は朝一で講義があるはずだが、アパートの前で待っていても出て来る気配は無かった。もしかしたら大学にも行っていないのかもしれない。彼の無事を案じつつ、これからどうすべきか考えていると、スマホの着信音が鳴る。電話の主は、まさかの太郎だった。

「もしもし!!太郎!?お前、電話もメールも出ないし、どうしたんだよ!ずっと心配して…」

「一郎…ああ、一郎だよね…一郎…」

「…太郎?」

元気がないのだろうか、弱々しい声で太郎はぶつぶつと呟いている。精神的に参っているのかもしれない。

「なあ太郎、辛いことがあるなら遠慮せずに言ってくれよ。俺じゃ頼りないかも知れないけど、それなら次郎や花子だっているし。俺たちが悪いことしたなら謝…」

「一郎…うちに来てよ…。うちに…。」

「え?今からか?」

「今…うん。今から…今からね…。」

「分かった。すぐ行くけど、何か欲しいものは…えぇ!?」

途中で電話を切られた。何なんだ一体…。怒っている様子はなかったが、話をするのがやっとな状態なのだろう。ひとまず他の皆に太郎と連絡が取れたことを報告する。すぐにメールが返ってきて、講義が終わってから彼らもアパートに来るとのこと。一足先に太郎から事情を聞いておけば、皆が集まったときの話し合いも進みやすいだろう。さすがに手ぶらで行くのはまずいだろうから、冷蔵庫に残っていたジュースやアイスを全てリュックに詰め込み、部屋を出て、太郎のアパートへと向かった。

 幸臼荘こうすそう、ここの二階に太郎の部屋がある。カンカンと音を立てて階段を上り、一番奥の部屋に向かって歩いていく。201号室、ここだ。木製のドアを数回ノックすると、中から聞き逃しそうな掠れ声で「どうぞ」と聴こえた。

「お邪魔しま~す…。」

ノブを回してゆっくりとドアを開けると、部屋の中には暗闇が漂っていた。電気は消えたままで、カーテンを閉め切り、淀んだ空気が開放感を求めて入り口から出て行く。太郎はカーテンの掛かった窓を見ながら立ち尽くしていた。

「電気ぐらいつけたらどうだ?目を悪くするぞ。」

入ってすぐ、左側の壁にあるスイッチを入れる。しかし、闇が消え去ることはなかった。

「あれ?これじゃなかったっけ?」

スイッチを何度もカチカチ動かすが、何の反応もなかった。靴を脱いで部屋に上がり、リュックを足元において、部屋の照明を探すが…。

「おいおい…。」

電気がつかないはずだ。電球が全て取り外されて割れていたのだ。それがベッドの上に散乱している。

「…随分辛かったみたいだな。でも部屋が暗いと気持ちまで余計に沈んじまうぞ。」

部屋を明るくする最後の手段として、カーテンに手を伸ばそうとした時だった。

「…え?」

床に尻餅をつく。最初、何が起こったのか分からなかったが、太郎に突き飛ばされたのだと彼の姿勢を見て分かった。

「お前、いきなり何…」

「一郎…。」

太郎は俺の肩を押さえつけるように掴み、馬乗りになって押し倒してきた。太郎は運動系のサークルに所属しているが、それは俺だって同じ。力なら太郎に負けるはずがないのに、彼の怪力に組み伏せられてしまった。

「太郎!おま…なっ!?」

押し返そうとしていた力が一気に抜ける。頭が真っ白になる。見上げる形となって目に入ってきた太郎の顔。輪郭や鼻立ち、口の形などはまさしく彼のものだった。数日会わなかっただけで変わるものでもない。問題があるのは目だ。ギャグ漫画でよくあるように、目玉が前方に突き出すように飛び出ていて、白目の部分が緑を基色として色鮮やかに点滅している。まるで何かが中で蠢いているように…。

「うっ…おぇ…。」

直視しているだけで激しい吐き気に襲われる。堪らず目を横にそらすと、太郎は肩から右手を放していて、いつの間にか包丁を握り締めていた。考えたくもないことが頭の中に次々と浮かぶ。

「たっ、たろ…よ、よせ!!!」

「一郎…ねえ一郎…。」

下手な動きをすれば刃物を振り下ろされるかもしれない。それ以前に動こうにも震えて力が出ない。シャツが大量の汗を吸い、体に張り付く。どうすればいい…。どうすれば…。

「一郎…殺してよ…。」

「…へ?」

殺して…?何を言っているんだ?もしかして、太郎は操られていて、ここで正気に…?そんな作り話みたいな展開、あるか…?

「殺してよ…。こうやって…。」

「!!」

赤い雨が降って来る。俺の顔は見る見るうちに染め上げられていく。太郎は右手の包丁で自分の顔を切った。額に刃を食い込ませ、頬を突き刺して、鼻を削ぎ落とし、唇を刻み…。

「ああ…あっああ…!!」

「こうやって…こうあっえ…おうあっえ…。」

口を耳まで裂き、頭蓋骨を割るように頭を何度も刺し…。

「いい…おぉ…。」

果てに、顔の肉がぐちゃぐちゃになり、もはや太郎としての原型はなくなっていた。太郎は、血塗れの包丁を床に落とし、手を震わせながら両手を自分の目に持っていく。そのまま指を目の中に差し込み、目玉を抉り出した。と、その目玉をすぐに俺の顔の上で握り潰す。最後の飛沫を被ったところで、太郎の体は背中から床に倒れた。ようやく解放されたものの、頭の整理がつかずに、しばらくその場を動けなかった。

 気持ちを無理矢理落ち着かせてから、すぐに大家さんに知らせて警察に通報。血塗れで部屋にいたこともあり、俺が殺したのではないかと疑われたが、凶器に指紋が付いていなかったこと、通報者であること、太郎が数日大学に姿を見せなくなったという証言などがあり、警察はひとまず自殺として捜査を進めることになったようだ。一応、起こったことをありのままに説明したが、当然信じてはもらえなかった。それからしばらくは大学を休んだ。ゼミの教授が勧めてくれた精神科に一応通ってはいるが、あの出来事を忘れることはできそうにもない。かといって、どうしてああなってしまったのかを考えることもしたくない。今はただ、太郎の死を受け入れて、日常に戻れるように養生するだけ…。

 次郎に付き添われ、待合室で順番を待つ。情けないが、一人になるのが怖くて、友達に交代で側にいてもらっているのが現状だ。彼らの自由を奪っているようで申し訳なく思っているが、彼らは快く手助けを引き受けてくれた。やはり持つべきものは友達だ。

「おっ、雨降ってきたな。梅雨明けはまだまだ先だろうか。」

次郎の言葉を受けて、つられて窓の外を見る。パラパラと小雨の露が下に流れていく。愚図ついた天気だったし、傘を持ってきて正解だった。水滴が窓に模様を描いているのを眺めていると、ガラスに張り付く小さなカタツムリを見つけた。よじよじとゆっくり上を目指して進んでいる。そういえば、太郎が持ち帰ったカタツムリは今どうしているのだろう。警察に逃がしてもらったのだろうか。それとも太郎が飽きて既に自由な世界に帰って行ったのか。ふとしたことで太郎のことを思い出し、涙が滲む。それに気付いた次郎は、黙ってハンカチを渡してくれた。


 一体どうしたというのだろうか。数日前から一郎と連絡が取れない。他の連中もメールが返ってこないと話していたし、何かあったのだろうか。思えば、一週間前から様子がおかしかった。朝起きてあいつがいなくなってて、探しに行こうとしたら、外で雨の中傘も差さずに空を見上げていたし、目が異様に渇くからって眼科に通っていたと思ったら、もう大丈夫みたいと途中で行くのをやめたこともあったな。4日前にはもう付き添いは大丈夫だからと、部屋を閉め出されてしまったし。やっぱり、太郎の件で苦しんでいるのだろうか。精神科の先生には随時異変について報告はしているが、このまま放って置くのはまずいだろう。財布をポケットにしまい、一郎のアパートに向かおうとしていると、着信音が鳴った。向こうから掛けて来てくれるとは好都合。

「もしもし、一郎。これからお前の家に行こうと思ってたんだが…」

「次郎…。次郎…だよね…?」

「おう、次郎さんだぜ。お前が次郎さんに掛けたのなら、間違いなく俺は次郎だ。」

「次郎…うん…次郎だ。次郎…今からうち…来て。」

太郎の事件以降、声に覇気はなくなっていたが、今までで一番ナヨナヨした声だ。大分疲弊しているな。

「おう、最初にも言ったがそのつもりだ。買い物してからすぐに行くから、鍵ちゃんと開けとけよ!…あれ?」

返事もなく電話を切られてしまった。大丈夫か、あいつ…。とりあえず、コンビニであいつの好きなアイスとゼリーでも買って持っていってやるか。

 免許証やら入ったウエストポーチを肩に掛け、ヘルメットを被って、俺は部屋を出ていった。


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