清宮様
人口僅か100人程の小さな集落。手付かずの緑が広がる山沿いの田舎、ここが私の故郷だ。電気は一応通ってはいるものの、ここにはスーパーも観光名所もない。必要なものがあれば、週一回やってくる出張販売のトラックから買うか、車で片道2時間かけて隣町に行くしかない。教育機関も隣町が最寄だったので、小中と毎日車で送り迎えをしてもらっていた。高校生になった今は、この地を離れて隣町の公立校の寮に入っている。そのため、集落に帰ってくるのは、長期休業の時だけとなっていた。
高校2年の夏休み、集落に戻ってきた私は、幼馴染の裕子と木々が続く林道を歩いていた。裕子もまた、県外の高校に進学して集落から出ていたが、お互いの連絡先は教え合っていたので、帰省の日程を合わせて毎年会っていた。この時期に集落ですることといえば、林の木陰で駄弁ったり、山の川辺で水遊びしたり、予め用意していた花火で遊んだり…娯楽がほとんど無い集落でのひと時もそれほど退屈ではなかった。今日は裕子の滞在最終日。数時間後には、裕子の両親が車を出して、県外に戻っていく。次に会えるのが冬休みなので、時間ギリギリまで一緒に過ごしていた。暑い日差しを遮る緑の傘の下を話しながら歩いていると、隣の裕子が足を止めた。
「どうしたの?」
「ねえ、あれ。」
裕子が指差した舗装されていない脇道の奥、草木の生えていない日の光が降り注ぐ異様な空間が見えた。林の中でそこだけが抜き取られたように、周囲を木々に囲まれながらも、緑の侵入を拒んでいるような場所だった。この林道には昔もよく足を運んでいたが、あの開けた空間を見るのは初めてだった。裕子もまた同じだったみたいで、興味深そうに体をそちらに向ける。
「あんなところあったんだね。」
「何かあるのかな?」
「ちょっと行ってみようよ!」
裕子に促され、先陣を切る彼女の後ろについていく。立ちはだかる膝丈ほどに伸びた草を掻き分け、光が照る前方を目指していく。近付いていくと、その空間を囲うように黄色と黒色のロープが木々に張られているのが見えた。
「明らかに立ち入り禁止じゃない、これ…?」
「だとしても、禁止されたらやりたくなるのが人の性!」
裕子は臆することなくロープを跨いで中に入る。笑顔で手招きする彼女に少しだけ安堵を覚えて、駄目だと分かりつつも境界線を越えた。林の中の大きな日向には、一本の立て札があるだけで、後は何もなかった。足元は石材で固められており、草木が生い茂らない理由がなんとなく分かった。裕子は立て札に近付き、書かれている文字を読み始める。
「清…宮…様…
掠れている文字から読み取れた言葉。ここは誰かの家の跡地だったのだろうか。それとも何かを祀っていた場所なのだろうか。
「立ち入り禁止にしていて、集落から離れた林の中にひっそりと存在する…間違いなく何かを祀っていた場所だよここは。」
「だとしたら、勝手に入った私たち、呪われたりしないかな…?」
「あはは、花子ってば、昔からその手の話に弱いよね!」
「だって…。」
今はすっかり忘れてしまったが、しつけのためだろう、昔、母や祖父母から怖い言い伝えのようなものを聞かされた覚えがある。中身は忘れたが、当時の私はその話が大嫌いで、小学生の時は一人で眠れないことが多かった。学校で怪談話をされると、一人でトイレに行けなくなるほどには免疫が無かった。
「じゃあさ、呪われないように謝っておこうよ。こういう神様みたいなのが人に害を与えるのって、怒らせちゃうからだろうし。」
裕子はズボンのポケットから飴玉を取り出し、包み紙を下に敷いて、飴玉を剥き出しの状態で立て札の下に置いた。
「飴玉一個って、さすがに不味くない…?」
私は呪われたくない一心で、敷地の外の草むらから小さな花を見つけて何本か採り、飴玉の手前に横たえて供えた。しゃがんだまま、二人で目を瞑り、手を合わせて頭を下げる。しばしの黙祷を終えて、裕子が立ち上がったので私もそれに続いた。
「さっ、時間もなくなっちゃうし、またぶらぶら散歩に戻りますか!」
「うん!」
「お前たち!!そこで何をしている!!!」
ふと、私たちがやってきた林道の方から大きな怒鳴り声が飛んでくる。猟友会の人だろうか、背中に猟銃を背負った老人が、鬼の形相で近付いてくる。
「うわ、やばっ!!花子、逃げるよ!!」
「え、あっ、待ってよぉ!!」
「待ちなさい!!!」
老人の制止を聞かずに、私と裕子は一目散に来た方とは反対側へと走って逃げた。反対側の規制ロープを超えて、出鱈目にあちこちとにかく走り続けて、息が切れる頃には見慣れた集落の道に辿り着いていた。地面に腰を落とし、激しく呼吸を繰り返しながら、私と裕子は顔を見合わせて大笑いした。二人で馬鹿をやったのは中学生以来だろうか。この懐かしさが妙に心地よかった。
「最後に良い土産話ができたかもね!」
「土産話って、しょーもなさすぎでしょ!」
「あはは、怒られて逃げてきただけだもんね!」
息を整えて立ち上がると、裕子の携帯のアラームが鳴る。どうやら帰る時間になってしまったようだ。
「あーあ、もう時間かぁ。楽しい時間って過ぎるのが早いなぁ。」
「また冬休みに会えるじゃん。あっちでの話、楽しみにしているよ。気になっているっていう山田君との進捗状況とかもね!」
「自分、頑張るであります!ってか、花子の方こそ、女子高だからって甘えてないで、男の一人や二人見つけなさいよ!なんなら同じクラスの奴紹介するよ?」
「結構です!私には裕子君がいるもの…。」
「ふっ、可愛いやつめ!俺が一生お前を守ってやっからな!うりうり~!」
「あはははは、くすぐり攻撃止めてーーーーーー!!」
それから、裕子の家まで一緒に歩いていき、車が出るのを見送ってから自分の家に帰った。
その日の夕方、やることもなく居間でぼんやりテレビを見ていると、慌しい様子で祖父がやってきた。私が振り返ると、祖父は両肩を力強く掴み、強張った表情で顔を近付けてきた。
「花子!お前、今日林の方に行ったか?」
「え?うっ、うん。裕子と一緒に散歩に行ったけど…。」
肩を握る力が一層に強くなる。祖父は暑さによるものとは違った大粒の汗を顔に滲ませていた。
「お前、まさか、
「きよ…ごっ、ごめんなさい…。ロープが張ってあったから立ち入り禁止になっているっていうのはなんとなく分かってたんだけど…。」
祖父は音を鳴らして唾を飲み込む。目を大きく見開き、緊張しているようだった。
「んじゃあ、供え物して拝んだのも…?」
「…私たちだよ。あそこ、何かが祀ってあった場所だと思って、勝手に入っちゃったのを謝ったんだけど…。」
「…これ、口に入れとけ。」
「…え?」
祖父は、ズボンのポケットから塩飴を取り出し、包みを剥いて差し出してきた。飴を手に取ったものの、意味が分からず祖父の方を見る。
「いいから口に入れろ!!」
普段は穏やかな祖父が大声で怒鳴る。今の状況は良く分からなかったが、祖父の異常な様子に、黙ってそれに従うことにした。しょっぱい塩の味が口の中に広がる。私が飴を口にしたのを確認し、祖父はお菓子のしまってある棚から、塩飴の袋を取り出し、手渡してきた。また怒鳴られては敵わないので、私は口を動かしながら黙って袋を受け取る。
「花子、自分の部屋に戻って布団でもタオルケットでもいいから、体を包んで大人しくしてろ。な?」
祖父は私の頭を撫でると、台所にいる祖母と母のもとへと向かった。祖父のただならぬ様子に恐怖心が湧き起こり、私は足早に階段を上って自分の部屋に入った。祖父に言われた通り、タオルケットで顔以外を包み込み、じっと座って静かにしていた。30分ほどして、部屋に母と祖母が入ってくる。今何が起きているのか説明を求めようとすると、母に手で口を押さえられて制止されてしまった。
「いい?これからしばらく、絶対に声を出しては駄目よ。少し息が荒くなるぐらいなら大丈夫だと思うけど、言葉を発しては駄目。これはあなたの命に関わることなの。説明は終わった後でするから…。」
「トイレにも行けなくなるから、これをしてなさい。嫌だろうけど、我慢してね。」
祖母はオムツを取り出して穿くように指示する。さすがに抵抗はあったものの、命が関わると聞かされた以上はやむを得ず、私はすぐに着替えて、再びタオルケットを纏った。
「ちょっと痛いけど、我慢してね。」
「…っ!」
母が私の右手を取って、人差し指にカッターで軽く切れ込みを入れる。血がじんわりと滲み出てきたところで、母は掌サイズの達磨を持ち、私の指から溢れる血で両目を描いた。血が滴り、赤い涙を流しているようでどこか不気味に感じられた。目を書き終えると、赤い背中に同様に、血で「参」と漢字一文字を大きく書いた。もう赤墨が必要なくなったようで、祖母が指に絆創膏を張り、件の達磨を私の背後に置いた。振り向いてみると、達磨は私に背中を向けていた。
「時々、今みたいに静かに振り返って達磨の様子を確かめてね。達磨が無くなった時点であなたの命は助かる。それまでの辛抱よ。」
「水、貰ってきたぞ!」
母と祖母が、塩飴の袋を破り、すぐに口に運べるように準備していると、父が何十本も水入りのペットボトルを持ってきた。それら全てを私の手の届く位置に蓋を開けて設置する。ついでに新しく買ってきた塩飴の袋も開けられて、並べられた。
「山の神社から分けてもらった清水だ。飴だけだと喉が渇くだろうから。どちらかを必ず口に含んでおきなさい。絶対に口の中を空にしてはだめだぞ。」
私はゆっくりと頷き、早速口の中の塩飴が終わりかけたので、急いで並べてある塩飴を一つ手に取り、口の中に入れた。
「じっとしていれば大丈夫だから。絶対に、絶対に、約束は守ってね。」
これ以上私に不安を与えないようにだろう、両親と祖母は弱々しく微笑んで静かに部屋を出ていった。入れ替わるように今度は祖父がラジオを持って入ってくる。祖父は、達磨の目の前にラジオを置き、電源を入れた。女性の声で道路交通情報が読まれていく。
「ずっとそのままだと退屈だろう。それに、音が出ていたほうが、向こうも達磨を見つけやすい。間違えてくれやすい。お前の物音を逃しやすい。頑張れな。」
祖父は私の頭を優しく撫でると、部屋のドアを静かに閉めて出ていってしまった。一人になり、不安が膨れてくる。今、何が起こっているのか。私はどうなってしまうのだろうか。先の見えない事態に、小刻みに体を震わせることしかできなかった。
祖父がラジオを持ってきてくれて本当に良かったと思う。日が落ちてすっかり夜になってしまった。飴と水で空腹感はなかったが、電気は消したまま、暗闇の中、沈黙を続けていたら、不安に押し潰されて狂っていたかもしれない。集中できる何かがあることで、胸に湧き起こる暗い感情を抑えることができた。それだけではない。達磨が消えるまで現状を維持し続けるということは即ち、眠ってもいけないということだ。うっかり飴玉を落としてしまったり、口の中を空にしてしまうリスクがある。そうならないように、色々な話を聞いていられるラジオは良い眠気覚ましになってくれる。ラジオのニュース番組を聴きながら、意識を集中して平常心を保つ。
『日付が変わって、時刻は午前0時です。ニュースを続けます。』
翌日になっていたのか。時計は後方上部の壁に取り付けられているため、そっと振り向いた程度では良く見えない。達磨の背中は憎らしいほどに見えるというのに。本当にこの達磨は無くなるのだろうか。夕方から今までじっと言いつけを守って来たが、この間何も不思議な現象が起こることなく、ラジオが部屋で絶え間なく喋り続けていただけだった。
『昨日午後9時頃、○○町の高速道で、親子3人の乗った車が道路下に落下する事故が発生しました。これにより、運転をしていた父親と助手席の母親が死亡。娘は意識不明の重体ですぐに病院に搬送されましたが、病院から行方を眩ませたそうです。警察は、病院関係者から話を聞きながら、消えた娘の行方を追っています。』
隣町の向こうで死亡事故…私を狙っているであろう何かはこの集落を通り過ぎて○○町まで行ってしまったのではないだろうか。私の代わりにこの親子が犠牲に…。だとしたら、もう達磨を気にしなくても…。県内近くでの訃報を聞き、不謹慎ではあるが心にゆとりが出てきた。口の中の飴が終わりかけて、水を口に含もうと手前のペットボトルに手を伸ばした時、抜けたはずの緊張感が帰ってきた。ズシン、ズシンと、何か巨大な生き物が地を踏みしめる音が聞こえてきた。振動は一切無く、家が揺れることはない。なのに、怪獣映画の巨大怪獣の足踏みのように、一定のリズムで地を踏みしめるような音が聞こえてくる。音は段々大きさを増す。ズン…ズン…ズシン…ズドン…。私は素早くペットボトルの水を口に含むと、震える体を押さえながら、タオルケットに包まって縮こまった。耳元まで来ているように感じるほど音が大きくなったところで、パッと足踏みが止まる。振り返って達磨を確認したいが、それはできない。私を探しに来た何かがこの家の前で立ち止まっているのは確実だ。でなければ音の途切れ方が不自然すぎる。涙を必死に堪えて、相手が過ぎ去るのを必死に待つ。
『次はおtんkの…』
掛けっぱなしのラジオにノイズが混じる。ザザザという音の合間に息遣いのような声が聞こえてきた。やがてラジオはノイズだけになり、部屋の空気が重くなった。居る。間違いなくこの部屋に…。並べてあったペットボトルが一つ、また一つ…不規則に倒されていく。目の前に置いてある塩飴も気付けば半分以上が割れていた。思わず目を強く瞑り、下を向いて必死に堪える。早く!早く居なくなって!もう許して!!
「花子。」
聞き覚えのある声。両肩を掴まれて体が跳ねる。恐る恐る目を開けてゆっくりと顔を上げる。歪んだ視界には、母の優しい笑顔がぼんやり映っていた。いつの間に朝を迎えたのだろう。部屋には日の光が差し込み、眩しくもどこか心地よかった。背後を確認すると、共に恐怖の一夜を過ごしたはずの達磨は、影も形も無くなっていた。母の方に向き直り、堪えていた感情が一気に押し寄せてきて、母の胸に飛び込んだ。母は温かい手で私の頭を撫でて、全てを受け止めてくれた。
「よく頑張った。怖かったよね…。本当によく頑張った。」
ずっと溜め込んでいたものを全て吐き出すように、私は母の胸をびしょびしょに濡らした。
気持ちが落ち着いてから、居間で家族が集まり、「清宮様」について話してくれた。清宮様は、かつて「鬼呼み屋」や「来黄泉野」などと呼ばれていた呪術を商売としていた一族のことらしい。「清宮」となったのは、鬼の名を残すことで災いが起きるのを恐れて変えられた、という一説があるらしい。その名の通り、黄泉の野から鬼を呼び出し、依頼された人物を攫わせていたという。依頼者は邪魔者を消せるし、鬼呼み屋には金が入る、鬼は攫った人間を食えると三者三利の関係が成り立っていたそうだ。鬼呼み屋が鬼を呼ぶ際、彼岸花を献花し二拝していたとされているそうだが、その安易な召喚方法が問題になってしまったようだ。時代の変化と共に鬼呼み屋を利用するものがいなくなり、跡取りも居なくなった鬼呼み屋の家系は途絶えてしまったそうだ。あの林の一角は、鬼を呼ぶための場所だったらしく、長いこと呼び出しをしなかった弊害か、黄泉の鬼たちは、あの場所で拝んだり献花されたりしただけで、現世に現れ、拝んだ人間、献花した人間を攫っていくようになったそうだ。そこで、山の神社の神主が、今もなお黄泉との繋がりを断つために祈祷をしているらしい。長年親交があったこともあり、黄泉の遮断は時間が掛かるそうだ。そのため、万が一献花したり拝んだりしてしまった人間が出てきてしまった時のために、身代わりでやり過ごす方法を思いついたという。達磨を身代わりとして連れて行かせることで、狙われた人間は災いを逃れられるのだ。実際に私の命も助かった。あの達磨には感謝しても仕切れないほどだ。この集落では、子供が生まれると一人一個は必ず達磨を用意することになっているらしいが、それは我が子を守るためのものだった。
「一応、お前の分の新しい達磨は買っておいたが…もう、二度と清宮様に近付いてはいかんぞ?」
「はい…。絶対にもう二度と、あそこには近付きません…。」
命の危険がある上にあんな怖い思いをしなければならないのだ。仮に私が天邪鬼の捻くれ者だったとしても、さすがに二度目は御免だ。
「分かればよし!そいじゃ、花子。これから長野さん…昨日、お前が怒鳴られたっていうおじちゃんの所にお礼と謝りに行くぞ。あの人も随分心配してくれていたからな。じいちゃんが一緒なら大丈夫だろ?」
「うん。ありがとう、おじいちゃん!」
あれから何年も経ち、成人になった頃、里帰りして家族みんなでお酒を飲んでいる時に、裕子の死を明かされた。私が責任を感じないようにという家族の配慮もあり、当時は裕子も私のように助かったと聞かされていた。正確に言えば、裕子は行方不明で、死んだのは裕子の両親だそうだ。忘れかけていたニュースキャスターの言葉が頭を過ぎる。私は大きく息を吐き、コップに注いだビールを一気に飲み干した。
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