短編集:でんでん虫

夕涼みに麦茶

殺し屋

 日が落ちて辺りを闇が闊歩する時分、遅くまで営業している行きつけの定食屋に足を運ぶ。ドアを開けて中に入ると、深夜にも関わらず店内には腰を据える客の姿がちらほら目に入った。寝付けずにやってくるのか、俺のように仕事帰りに立ち寄ったのか。恐らくは後者がほとんどだろうが、連中の事情などどうでもいい。俺は疲れを癒し、空腹を満たすためにここに来たのだ。カウンター席に4つ並んだ椅子の一番左に座る。根城に戻ってきた野生獣のように、この定位置に着くと安心からか体中の筋肉が緩む。従業員の男がお絞りと水入りのコップを持ってくる。その際に決まり文句のように「いつもの」と注文すると、男は頭を下げて厨房に戻っていった。遅い晩飯と仕事終わりの一杯が来るのを待ちながら、お絞りで顔を拭い、水を場つなぎにチビチビと飲む。そうやっているうちに体中の疲れが口元に集まってきて、堪えきれずに、はぁっ、と大きく息を吐いた。

「お疲れのようですね。」

ふと穏やかで低い声が耳を通り抜ける。隣にはいつ来たのだろうか、黒いコートに身を包んだ厳つい男が座っていた。オールバックの髪にサングラスで目元を隠し、男はこちらを向かずに真っ直ぐ前を見ながら話しかけてきた。平穏なひと時に現れた怪しい人物に警戒するなというのが無理な話だ。このまま返答せずにやり過ごすのがいいのだろうか。それとも、無視してかえって逆上させないように、ここは受け答えをすべきなのだろうか。

「私は、こういうものです。」

不審な男に対しての対応法を考えていると、男は正面を向いたまま名刺をこちらに差し出してきた。仕事柄、名刺を差し出されて受け取らないのは憚られ、俺は観念して名刺を手に取った。手に取って後悔した。

「殺し屋…?」

白い名刺には、連絡先と職業、そして彼の名前…コードネームの類だろうか、それらが書かれていた。はっきりと「殺し屋」という文字が目に留まる。一度店内を見回す。この手のドッキリ番組を見たことがあるが、被験者として応募した覚えはない。無差別に仕掛けている可能性もあるが、規制の多い現代のテレビ事情で果たしてそれが可能なのだろうか。もう一度天井から壁の隅々まで注意深く観察するが、素人目にはカメラの類を見つけることができなかった。

「本物…なのか?」

男に倣って顔を合わせないように前を見ながら小声で問いかける。警戒心はいつの間にか好奇心へと変わっていた。

「本物です…と言っても、声をかけた方は皆、疑いの眼差しを向けます。」

「…そりゃそうだろ。殺し屋なんて、庶民の中では作り話の世界の物だし。」

「そこで、信じてもらうために、初回のみ、無料で人殺しを引き受けています。」

殺し屋の証明方法としては分かりやすいが…証明の道具として赤の他人の命を奪うというこの男の言動、本当に殺し屋だったとしても狂人にも程がある。もし警察に通報でもしたら、口封じに俺も殺されるのだろうか。

「…もし俺が依頼をしないと決めたら、あんたは俺を殺すのか?」

「いいえ、何もしませんよ。そんな理由で人をいちいち殺していたら、すぐに人間がいなくなってビジネスが成り立たなくなってしまうでしょう?」

男の言葉が本当ならば、拒否権はあるらしい。しかし、怪しい風貌に殺し屋という恐ろしい職業…男を完全に信頼するには不十分すぎる。ここはやはり、業を一つでも背負っておいたほうが身の安全を守るには得策か。

「会社に一人、嫌な上司が居て…。」

「はい。」

「別に仕事をミスしたわけでもないのに揚げ足ばかりとって、その癖、自分のミスは全て気に入らない部下に擦り付けて…。」

「その人の名は?」

「XX XX。死んでも会社の人間は誰も悲しまない屑だよ、あいつは。」

「では、初回お試しということで、宜しいですね?」

「…ああ。」

「了解しました。では、また明日のこの時間に…。」

男は音を立てずに席を立つと、黒いコートを揺らしながら、静かに店を出ていった。我が身可愛さに軽い気持ちで依頼をしてしまったが、これで良かったのだろうか。もし男が本物の殺し屋なら、XXが死ぬ。気に入らない上司ではあるが、それでも悲しむ人間はいるはずだ。取り返しのつかないことをしてしまったように思えて、動悸が激しくなる。残っていた水を一気に飲み干し、一度大きく深呼吸をする。大丈夫だ。あの男が殺し屋なものか。ドラマや漫画の世界じゃあるまいし、こんな平凡な定食屋にあんな物騒な人間が普通に出入りしているはずが無い。これはやはりドッキリか何かだ。真面目に考えるのも馬鹿らしい。いつもより時間がかかって、ようやく遅い晩飯がやってきた。

「いただきます。」

サクサクの衣に包まれた豚肉にソースをたっぷりかけ、艶のある白いご飯と共に口いっぱいに頬張る。とんかつとご飯の掛け合わせによって奏でられる旨味に安堵感を覚えながら、良く冷えたビールで喉を潤した。


 今日ほど気持ちの悪い日はこれまでの人生でなかった。会社に着いてから10回はもどした。昼食も喉を通らずに、今もなお空腹感以上に嫌悪感が内臓を抉る。席に着いたはいいものの、食事をする気力がなく、とりあえずウーロン茶を一杯頼んだ。胃の辺りを擦りながら噴き出す汗をお絞りで拭っていると、会いたくなかった人物が昨日のように腰を下ろしてきた。男は前を向いたまま低い声を漏らす。

「信じていただけたでしょうか?」

「…あんなにズタズタに切り刻む必要はなかったんじゃないか?」

「病死を装うやり方や軽傷で済ませる方法では、事故死や自然死を疑われて、それこそ信じてもらえないでしょう?」

「だからって…。」

XXが死んだ。殺されたのだ、この男に。俺の軽はずみな発言のせいで。自己保身のせいで。第一発見者は俺自身だった。会社に着いた時には、他の先輩や同僚が何人か既に来ていて始業の準備をしていた。俺も自分の机に荷物を置いて、持ち帰って作成した書類をいつものようにXXの机に持っていった。書類を置こうとして、思わず固まる。何故か椅子が退けられた机の下。赤い色を纏った太い手がチラッと目に入る。恐る恐るそこを覗き込むと、恐怖のあまり大声を発して尻餅をついてしまった。バラバラに切断された人体の各パーツ。それを更に鋭利な刃物で何度も何度も刺した形跡があった。特に頭部の損傷が激しく、脳をグチャグチャに潰され、両目を抉り取られ、目も当てられない状態だった。俺の反応に気付いた他の社員も駆けつけ、すぐに警察に通報。第一発見者ということもあり、色々話を聞かれたが、自分への疑いは晴れたようですぐに解放された。だが良心の呵責は対照的に俺を縛り付ける。直接手を下したわけではないが、俺の一言がXXを殺したのは事実だ。殺し屋の存在証明をするためだけに。いや、心のどこかでXXに死んで欲しいと思っていたのは確かだ。だからこそ殺し屋という胡散臭いものに軽はずみで依頼などを…。

「初めて依頼をされた方は皆、あなたのような反応を示しますが、それが普通です。正常な人間に罪悪感は付き物ですから。もっとも、殺し屋を利用するにあたり、その罪悪感は慣れで薄れていきますけどね。」

さも自分が既に「正常な人間」でないと言いたそうな口ぶりだ。まぁ殺し屋をやっている時点で「正常」とは言えないか。

「どうしますか?また、誰かを殺しましょうか?」

「…いや、いい。とてもじゃないが、この苦しみに慣れそうにない。」

「そうですか。では…」

男は懐から一枚の紙を取り出し、こちらに寄越すと、席を立って店の出口に向かった。

「気が変わったら連絡を下さい。いつでも依頼をお待ちしています。」

男が残した黒い紙を手に取る。そこには白い文字で所謂料金表が書かれていた。

「要人や有名人は高額、一般人はこんなに安く…。殺し方も指定できてそれによって金額も変わるのか。」

思っていた以上にこの業界の人の命の価値というものは低いのか。テレビのニュースで流れている死亡事件や事故、著名人の訃報の中にも彼らの仕事によるものが紛れているのかもしれない。とにかく、こんな料金表をもらったところでもう二度と依頼などするものか。どんなに嫌な人間でも、どれほど憎い相手でも、奪っていい命など無い。悪人であれば法の下に裁かれ、そうでなければ付き合い方を変えるなり自分で適応していけばいいだけの話だ。もう二度と絶対に。絶対に…。


 井の中の蛙、大海に出てみれば、慣れ親しんだ庶民の味などすぐに忘れてしまう。事実、この店に足を運ぶのも特別な用でもない限り一切無くなった。カウンター席で腕を組んで人を待つ。数分遅れて、目当ての人物が隣の席に座った。パンパンに膨れた封筒を取り出し、男の前方テーブルに置く。男はいつものように機械的な動作で封筒の中身を確認し、小さく頷いて了解を示した。それを見て写真を一枚取り出し、男に続けて渡すと、男は黙ってそれを受け取り、席を立って店を出ていった。

 人間とはとかく欲望に忠実な生き物だ。やってはいけないと自制心を働かせても、ほんの一瞬の隙を突いて甘い露に流されてしまう。ダイエットがいい例だろう。間食をしないと決めていても、ふとしたきっかけで我慢の堰が決壊し、気付けばリバウンドしている。毎日少しずつ歩こうと思っていても、天気が愚図ついているとそれだけで気力が削がれ、三日坊主で終わってしまう。甘美な悪魔の囁きに屈してしまうのは愚かな人間の性なのだ。例えそれが人の道に反した所業だったとしても。あれからざっと50人は消しただろうか。良心の呵責というものは、5人目を過ぎた頃から大人しくなってしまった。命を弄ぶことへの罪悪感に、邪魔な人間を消したことによってもたらされた利益の美味さが勝ったのだった。出世の障害となる同僚や上司を消し、社長の地位に上り詰めた今でも、ライバル企業の敏腕社員を始末している。それだけじゃない。いちいち癇に障る人間も悉く消してやった。さながら独裁者気分だ。俺に逆らう者は容赦しない。殺し屋がいる限り、誰も俺には逆らえないのだ。

「御注文はお決まりですか?」

店員が注文を取りに来る。残念ながら、肥えたこの舌を満足させてくれるメニューはこの店にはもうない。かといって何も注文しないのも上流人の品格として許せないので、ビールを一杯頼んで飲んで帰る、というのがいつもの流れだった。注文してすぐに中ジョッキが運ばれてくる。程よい泡立ちでよく冷えたビール…今ではその美味さも忘れた。ジョッキを片手で持ち、液体を胃に注ぎ、帰るための儀式を早々に済ませた。


 微かな物音で目を覚ます。時刻は深夜2時、傍らで眠る妻や息子は勿論、使用人たちも寝静まっているはずだ。ホームセキュリティーは万全なので、泥棒の類ではないと思うが…。二人を起こさないようにベッドから降りて、僅かに開いた寝室のドアをゆっくりと開き、廊下を覗く。と、ドアの前には見覚えのある黒い人影が立っていた。

「なんだ、お前か殺し屋。脅かすな。こんな時間に何の用…だ…?」

ふと違和感に気付く。この館に男を招待したことは一度も無い。といっても、殺し屋なんてやっている以上、情報収集の伝ぐらいはいくらでもあるか。問題はそこではない。こんな時間に奴の方からやってきたこと…そう、来客通知や警報装置を一切作動させること無く。面会の連絡も無かったはずだ。

「お前…」

月明かりに照らされながら不気味に微笑む男の瞳は、深く濁った真紅を灯していた。



 深夜の定食屋のカウンター席、左端に男が座っている。両腕を組んで貧乏揺すりをしながら、何かを待っているようだった。男の隣に腰を下ろすと、こちらに気付いたのか、男は何かを差し出すようにテーブルの上を滑らせて手を動かした。そのまま黙って前を向いていると、男は不満そうに舌打ちをして、また懐に手を入れる素振りをする。

『料金表に則った金額だが、不服か?ならいくら足せばいい?10万か?100万か?』

「…あなた、今、幸せですか?」

『は?』

男は質問の意図を測りかねた様子で、しかしながら顎に手を置いて真剣に考え始めた。程なくして結論が出たのか、男はコップを持つように手を動かして、水を飲む素振りを見せた。

『幸せ、なんじゃねえの?邪魔者は皆あんたが消してくれる。おかげで一企業の社長にまでなれたんだ。美人な妻と可愛い息子もいるし、幸せそのものだな、うん。』

「それはなにより…。」

『あれ?そういえば、今日はいつもみたいにサングラスを…』

男の言葉が終わる前に、私はサングラスを取り出して掛けた。それまで白と黒のモノクロだった世界は一変、鮮やかな色合いを取り戻した。左端の空席に笑みを送り、私は店を出ていった。

 自分もまた誰かにとって消えて欲しい人間だった。愚かな男はその事実にすら気付かず、これからも幸福な日常を過ごしていくのだろう。偽りの日常に囚われた、転生のない幸福の檻の中で、永久に。


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