3-7 水は『奈美』って名前の女の子を溺れさせたりしない

「オサム―」

「今日は俺、サーフィン見学しないぞ」


 もうすっかり恒例となったソーニャの訪問。麦茶を用意しながら、オサムは要件を先読みして言う。


「なんで~、優里亜とデート?」


 どうしてそういう予想がついたのかスルーして、

「このあとひとりでプールに行くんだ。体力付けのために泳ぐ練習」

「ワタシも行く!」


 思考時間もなく間髪入れずにソーニャが言う。


「言うと思ったけど、ウェットスーツで泳ぐの?」

「大丈夫! 前にシズカと日本の水着買いに行った!

 デザイン性もキョヌーセイも抜群!

 海で遊んだり、プールで泳いだりもできるよ!」


 オサムはソーニャが『巨乳性』と言ったのを聞いて、思わずソーニャの胸を見る。違う、そうじゃない。


「機能性?」

「それそれ!

 それに、今日は奈美のお店休みなんだって」

「それじゃ仕方ない……じゃあなんで俺をサーフィンの見学に誘ったの?」


 聞いた後、オサムは麦茶を注いだままだったコップに口をつける。


「今日は~、オサムに水着を見せに来たの!」


 吹き出した。


「オサム大丈夫!?」

「大丈夫……」


 さらに気管に入ったようでさらにむせる。


「お茶になにか入ってた?」

「そうじゃなくて……俺になにを見せるって?」

「新しく買った水着。日本は良いデザインしてるよね~」


 もう早く着たい気持ちがソーニャの表情から溢れ出ている。よほど気に入ってるんだなと思ったが、


「海に行かないのに水着を見せに来たの?」

「うん! でもプールに行くしまさにドンピシャ!」


 もしオサムがプールに行く予定がなければ、ソーニャはここで着替えて、水着を見せるつもりだったのだろうか。

 それとも優里亜や奈美を呼んで水着ショーでもするつもりだったのか。


 いろいろ考えてみたが、良からぬ妄想になってしまう。それが顔にでる前に、

「よくそんな言葉知ってるなぁ」

 と取り留めのないことを言って誤魔化した。



 湘南の夏は観光客やサーファー、海水浴客など遠出してくるひとであふれる。対して市民プールは地元の人間であふれていた。


 オサムはそんな空気の違いを最近通い始めて気がつく。


 なのでソーニャと一緒に来てもデートではないと思っていたが、

「オサムー待った?」


 まるでデートの待ち合わせのような台詞とともにソーニャはやってくる。予告したとおりいつものウェットスーツではなく、水着で更衣室から出てきた。


「ど~お~?」


 ポーズを決めるソーニャの水着は、彼女の言うとおり泳ぎやすそうなシンプルなビキニスタイル。だが可愛らしい青や白の色使いで、個性をアピールしている。


「いいんじゃない、でしょうか?」


 オサムの想像通り、文字通り日本人離れしたスタイルのソーニャに息を呑む。ウェットスーツ越しにも分かる胸の大きさだが、今回はその形もよく分かる。スイカかビーチボールか比喩で使える名詞が多すぎて、どう表現したらいいかオサムには迷うほどだ。

 さらにバストのひとつ下もとても魅力的なラインをしている。まさに山脈の間にある渓谷だ。

 そして渓谷の先にも山脈があり、そこを文明が生まれそうなほど美しい川のような太ももが通る。


「日本人はサイズ小さいから心配だったけど、大丈夫!」

「そ、そう……」


 それより小さいサイズになると、肌の露出面が増えてプールにも海にも出られないだろなとオサムは想像してしまった。


 ソーニャの白い肌がこれ以上見られたら、でもこれ以上はまずい……。


「さすが日本のプール! しっかりしてる!」


 オサムがあれこれ考えている間に、ソーニャの視線は周囲に泳いでいた。

 オサムは思考を現実に戻し、ソーニャが一体なにに目を奪われているのだろうかと周りを見る。


「あれ、ナーミー!」


 ソーニャが手を降った方向には見慣れた褐色娘の姿があった。


「えっと、人違いでは?」


 ソーニャは女の子へ駆けていくが、黒の競泳水着の女の子はたどたどしく応える。

 確かに細い手足や、凹凸が少ないがきれいな川のようなラインの体は奈美かもしれない思える。だがつもの奈美だったらもっとハキハキした受け答えをするし、テンションも高い。

 なのでオサムもパッと見は別人に見えた。本当に別人の可能性もある。


「間違えないよ! 『エアシップ』のナミだよ。ね、オサム?」


 ソーニャは推理小説のネタバレを知ったうえで挑んでいるような、確信に満ちた表情で言う。


 もしかしたら奈美にはなにか理由があってここに来て、自分たちにはバレるとまずい。だから最初とぼけたのではないかともオサムは思って黙っていた。だが、ソーニャがこの性格なので多分ごまかせない。自分も奈美の嘘に乗っかっても突き通せないかもしれない。


「そうです……『エアシップ』の一人娘、奈美です」


 オサムがどうしようか迷っていたら、観念したようで自分の正体を明かした。だがその返事は、いつも元気な彼女とはかけ離れた暗い声だった。


「今日は泳ぎに来たの?」


 ソーニャは正体を隠していたことなどを一切スルーして、いつもとまったく変わらず、ソーラーパネルで充電したら高いエネルギーが貰えそうな笑顔で言う。


「あ~、うん、そう。ふたりも?」

「そうだよ!

 オサムがサーフボード届くまで体力つけるために泳ぐんだって!

 でもこっちのプールは浅いってオサムが言ってたんだけど、奈美はこっちじゃないの」


 ソーニャが指差したのはふたりが行こうとしていたプールで、本格的に泳ぐひとのためのコースであった。


「そっちじゃないの……実は、その奈美はね。カナヅチなの」

「カナヅチ? ナミは人間でしょ?」

「ど、道具のカナヅチじゃなくてその……」


 ソーニャの天然ボケ、というよりこれは日本人の比喩や慣用句になれてないから起こった悲劇だろう。オサムはそう思ってしぶしぶ、

「えっと、奈美としては恥ずかしいかもしれないけど、カナヅチっていうのは泳げないひとを指す言葉なんだ……」


 奈美は顔を真赤にしてうずくまる。オサムは脳内でペコペコ謝るほかない。


「なんで、恥ずかしいの?」

「え?」


 思いもよらぬ一言に奈美は顔を上げる。うるうるした眼差しの先には、ソーニャの青い海のような純粋な眼差しがある。


「泳げないひとたくさんいるよ?

 海に面してない国じゃ当たり前なこともある」


 ソーニャの言うとおり、砂漠の多い国のひとに泳げと言って海に放り込んでも泳げない可能性も考えられる。ひとそれぞれ、ソーニャはそう考えているだろう。


 だが奈美には泳げないと恥ずかしい立場があり、それを思うと目は相模湾の海の色に潤んでくる。


「だって、奈美はサーフショップの娘でしょ?

 サーフショップの娘が泳げないって恥ずかしいよ。

 しかもサーフショップの手伝いもしてて、いっぱい知識もあるのにサーフィンも出来ないんだよ?」


 オサムは奈美がサーフィンをしているのを見たことがないのに気がついた。したいんじゃなくてできない。お店の目の前が実は穴場スポットみたいな感じで、この時期はサーファーが本格的に波乗りをする時期。なのに奈美はずっと店番をしていた。


 それを考えると奈美の心境が見えてくるようで、オサムの胃も締め付けられる。


「そうかな?

 知識はあっても波乗りできないよ?

 異性にモテモテになりたくてサーフィンしたひとみんなそうなっちゃう。

 でも奈美は違うよ。サーフィン大好きで、たくさん詳しい」


「うん……でも乗れないんじゃ知識があったって――」

「ワタシにとってはナミはサーファー。

 ナミは泳げるようになりたくって、波乗りしたくって、泳ぐ練習しに来た。

 違う?」


 そうしてソーニャは奈美に手を伸ばす。


 奈美が一度は諦めたサーフィンにもう一度挑戦したいと思ったのは、新しい世界を求めて波に乗るオサムを見て、その姿を追いかけ波に乗る優里亜を見て、そしてそのふたりに新たなきっかけを与えたソーニャを見たからだ。


 泳げるようになって、自分もサーフィンがしたい。


 三人に追いつくにはとても時間がかかるかもしれない。原因不明で泳げず、サーフボードにも乗れない体だ。一生かかっても追いつけないかもしれない。だとしても、挑戦する意思が生まれたのだ。


「……違わない」


 大きな波のような強い声でソーニャの言葉に答え、手をとった。


「じゃあワタシ、今日はナミに泳ぎ教える。オサムは泳ぎに行ってていいよ」

「いや、俺も泳ぎの練習手伝うよ」

「どうして?」

「ソーニャひとりだと奈美ちゃんと置いていってしまいそうだからな」

「そんなことないよー」


 どんな状況でも変わらない会話の波乗りができるオサムとソーニャに、奈美はお腹を抱えて笑った。



「奈美は、どう泳げない? 水は顔につく? 怖いとか無い?」


 泳げない理由として、過去のトラウマなどがある場合があるとソーニャは思ったようで、まずはそこを確認した。


「それは、大丈夫。別に幼いときに溺れたから泳げなくなったわけじゃないよ?」


 そう言って奈美はプールに入っていく。続いてオサムもソーニャもプールへ。


「じゃあ端に捕まってバタ足からやってみようか」

「まず、体が水に浮かないんだけど……」


 オサムがサーフボードを選んだ日から、奈美は泳ぎの練習をしている。だが幼い頃から変わらず、体が水に浮くことはなかった。それを思い出して水面に映る自分の暗い顔を見つめる。


「奈美は体が細いから、フ~リョクが足りないのかも」

「浮力? 浮く力って書く」

「そうそれ!」


 ソーニャの間延びした勘違いに奈美が聞く。

「人間よっぽどの筋肉質じゃなければ、浮くから大丈夫。俺が浮くんだもん」


 オサムは腕を見せると、毎日鍛えているだけあって力こぶができるほどの筋肉があった。


「オサムすごいー」

「そうか? 鍛えればこれくらい誰でもできるよ」


 浮き出る力こぶ、硬そうな腕、太すぎない二の腕に奈美はコアラみたいに抱きつきたい衝動に駆られた。オサムなら両腕で自分とソーニャを持ち上げらるだろう。かと言ってその衝動のとおりに飛びつくわけにもいかず、ただただ見とれていた。


「奈美ちゃん?」

「そ、そうだね。頑張ってみるよ」


 オサムの声にハッとして意識が戻ってくる。


 見とれてる場合じゃない。水に浮かないのは体質とか体の細さとかは関係ないことをオサムが証明してくれた。なら自分もできると奈美は、水面に映る自分の顔に喝を入れる。


「頑張らなくても水に浮くよ~」


 ソーニャは気構えないように言う。続けてオサムは人差し指を上に向けて、

「コツは足をまっすぐすること。水の上に仰向けに寝るくらいの感じで」


 それを聞いて恐る恐る奈美はプール端に捕まり、足をあげようとする。奈美の足は浮力で上がっているというより、バレエのように上げているという感じだった。


「大丈夫! 水は『奈美』って名前の女の子を溺れさせたりしない」

「オサム今の言い方かっこいい」

「ちょっとクサかったかな?」


 オサムは奈美の不安の取り除くつもりで言ったのだが、無意識に小説みたいな言い回しになったのを言われて自覚した。


 だがオサムの言葉に奈美は心の底から水が湧き上がるような気持ちが生まれた。


 自分の名前は誕生日の日付、それと海の『波』からつけられた。生まれたときから海に愛されることを約束された名前。


「うん、やってみる」


 言葉を聞いた奈美は、言われたとおり『水を信じる』つもりで、体の力を抜く。


(水を信じるんだ。オサムお兄さんとソーニャちゃんの言うことを信じるんだ)


 そう言い聞かせながら息を吐きながら体の力や余分な気持ちを抜いていく。


 すると奈美は自分の力ではない力で体が浮くのを感じた。自分の体がまるでサーフボードになったような感覚だ。


 自分の体が、自分じゃなくなったようだった。


「浮いた! 浮いた……ああ」


 初めて自転車に乗れた子供のような声を上げて奈美が言うと、浮いた足は再び水へ沈んでいった。それを感じた奈美は、うつろな目で歪む自分の顔を見た。

「もっかいやってみようか」



「良かったね! 少し浮くようになったなんて、大きなシンポーだよ!」

「そこまでしかできなかったけどね……でも、うまくいってきたのを感じるよ」


 三人は練習を切り上げプールの外に出て向かいにある駐車場で海を眺めながら、体を休めていた。自販機でジュースを買って海が見える場所で飲んでいると、プールにはない匂いと潮風を感じた。普段『エアシップ』のテラスで海を眺めながらクールダウンしてるのと同じ感覚が心地よいなとオサムは思える。


 西側には相模湾が広がっていた。いつも見えている江ノ島はここからは見えない。その代わり東の方にある三浦半島やの町並みが西日に照らされているのが分かる。いつもと少し違う湘南の海の姿がここにはあった。


「ごめんね、練習付きあわせちゃって。

 オサムお兄さんの体力トレーニングだったのに」

「気にしない気にしない。奈美ちゃんにはいつもお世話になってるし」

「うんうん!

 奈美が居なかったら毎日気軽にサーフィンできなかった。

 サーフィンしたあと、一緒にお話できるひとがいて嬉しい」


「そう言われちゃうと~、奈美もサーフィンできるように頑張らないわけにいかないなぁ」


 ショップ店員の奈美としてもそう言われるのは嬉しいのか、夕日と合わせて褐色の頬を赤らめる。


「そのイッキそのイッキ」

 ジュースを持っていない手を揺らしてソーニャは、まだまだ元気が余った声で応援する。


「その意気?」

 奈美が首を傾げる。


「日本語の言い方難しい……」

 ソーニャは目を点にして指を口元に当てる。


「奈美ね、泳げないこと、サーフィンできないことに慣れちゃってたのかも。

 でもそれはそこで足を止めてただけだった。

 一歩踏み出さないと海には入れない。見たかった世界は見られないって分かった」


 奈美の目は店番をしているときとは違う色をしている。オサムには夕日に照らされて色が変わっているのではなく、違うものを見ているから色が変わっているように見えた。


「見たかった世界?」

「オサムお兄さんもそう思ったからサーフィン始めたんでしょ?」

 オサムと目を合わせた奈美の瞳には、異世界が写り込んでいた。

 サーファーだけが見える世界、サーフィンをしているときに見える世界。

 オサムもそれが見たいと思ったから、だらだらとした生活から一歩を踏み出した。

「奈美は『見えそう』?」

「『見られる』ようにがんばるよ」

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