第11話 白き光の紋章術
このまま睨み合いをさせるわけにはいかない。自分は彼らと『戦う』のだ。
石の左腕を見る。表面は亀裂や窪みが目立つ。ずいぶんと痛めつけられていた。もう長くは保たないだろう。今にも崩れてしまいそうなその腕を、ジェンドは大きく振り上げた。反射的に湧士たちが一歩下がったのを確認して、渾身から声を張り上げる。意志を乗せて、舞台を打ち据える。
石舞台は、溶けかけの硝子のように滑らかに歪み、波紋となる。湧士たちはうねる石舞台に次々と体勢を崩す。短い悲鳴が、一陣の風に煽られた草原のように連鎖する。
ジェンドの石拳が真っ二つに割れた。衝撃が、指の付け根から肩にかけて軽やかな砕音とともに伝わる。塵になった石腕は赤い光の粒子となってジェンドに吸収された。
「腕が砕けた。生身が見えたぞ。皆、狙え」
湧士が発破をかける。ジェンドは口元を引き結ぶ。
そうだ。もっと煽れ。
牽制など必要ない。駆け引きなど小狡い真似をしてくれるな。まとめて来い。相手になる。
言葉にしなくても、ジェンドの挑発は湧士に伝わった。無様に転がされた屈辱を怒りに変えて、武器を握る湧士たちが突っ込んでくる。観客席から遠距離攻撃を仕掛けていた連中も、より確実に打撃を与えようと、より近い位置まで降りてくる。
ふと、世界の動きが緩慢になった。湧士たちの一歩、一歩がはっきりとわかる。爪先が蹴り上げた小さな石礫すら目で追えるようだ。だがそれは、思考が高速で回転しているための幻覚だった。ジェンドはかつてのバンデスの言葉を噛みしめていた。
この空間が紋章術で構成されているのなら、より強い意志で干渉できる。
水だ。この
舞台よ。お前は今の姿を忘れろ。俺の意志に従え。
石舞台が不気味に動きだす。沸騰し、うねる地面が舞台上の者たちを突き上げる。湧士たちは次々と空中へ打ち出された。
跳べ――ジェンドは強く念じ、石舞台を蹴った。身体は羽根のように軽くなっていた。頭上高く張り巡らされた道が、すぐに、目の前まで来た。
ジェンドは右の石腕一本で道を掴み、器用に方向を転換する。湧士たちはそれぞれ紋章術で綱や槍を生み出し、何とか手近な道に降り立っていた。彼らは傷の具合を確かめたり、周囲の様子をうかがっていた。皆、動揺が顔に表れていた。
道のひとつに着地したジェンドの靴に、飛沫がかかる。道の表面には細かな溝が刻まれ、そこに透明な水がわずかだが流れていた。水があれば、湧士たちは紋章術を使い続けることができる。果たして、せせらぎに気付いた多くの湧士が態勢を立て直していた。
ジェンドは道から道へ跳躍を続けた。そこを狙い、湧士たちの術の矢が飛んでくる。二十人から狙撃され、あるいは待ち伏せされ、たちまち石の皮膚も生身も傷だらけになった。引き替えに、胸元に忍ばせた黒柱石が熱を持つ。『封印』を溶かすための力が溜まっているのだ。
高揚感と焦燥感が隣り合う。いつ自分が溶けるだろうと思い、喉がひどく渇いた。頭痛もした。心臓が早鐘を打つ。勝手に顎が震えるので、左手で口元を覆った。
だが。もしかしたら。このまま上手く――
上下左右を立体交差する道々に湧士たちが立っている。視界の端にキクノの姿が映った。彼女のもとに、地上に残った数人が群がっている。しまったと思った。
「間に合え」
空の敵を無理矢理意識から引き剥がし、高速で心象を編む。濁った光の網が現れ、地上の湧士たちに絡みついた。だが、雑な術では期待通りの成果は出せない。二人、拘束を免れる。
「さあ、来るなら来なさい」
上空のジェンドにも聞こえるほどの声量で、キクノが叫ぶ。だが、彼女に大した抵抗手段がないことをジェンドは知っていた。あの水流はキクノ自身が操っているものではない。彼女はただ術の中心に立っているだけなのだ。
やおら数歩下がったキクノの細い指が水流の内側をなぞる。途端、彼女は顔をしかめる。指先から力が吸い出されていく。
拘束を逃れた湧士たちが、水流の隙間を狙って投擲刃を放った。鏃の形をした刃が水流の内側に侵入し、キクノの顔面へ走る。残り一メトルほどに迫ったとき、水流から生み出された『石』が投擲刃を撃ち落とす。たじろぐ湧士たちに、キクノは余裕の笑みを浮かべた。形の良い彼女の唇が何事かをつぶやく。こんな小さな獲物を使うなんて狭量だ、せっかくの強化世界、堂々と紋章術で勝負しなさい――と、自信に満ちた口調で宣っているのだろうと思った。
ジェンドは上空から見ていた。後ろに隠した彼女の手が激しく震えている。あれは虚勢なのだ。
螺旋水流がある限り、生中な紋章術ではキクノに届かない。そこをいかに誘導し、『無駄弾』を撃たせるか。それがキクノの請け負った役割だった。
「諸君」
ジェンドはぎくりと身を震わせた。それまで戦況を見守るだけだったグリオガが、突然声を張り上げた。
「この強化された幻影舞台は、諸君らが思う以上に諸君らを高めている。術の力も、生命力もだ。命を懸けて戦え。死を無視するのだ。それくらいの気概がなくば、この世界の本当の力は実感できぬぞ」
多くの湧士が攻撃の手を止め、汗の浮いた顔を上げる。グリオガは笑った。
「死の先を見る好機ぞ」
稀代の祭壇師の言葉をどう解釈したか――ノイロスが叫ぶ。
「俺たちは死なない!」
死なない――その言葉は近くに立つ湧士に伝染し、さらに向かいの道からも同じ言葉を吐く者が出た――死なない。
決して統率が取れているとは言いがたい湧士たちが、一斉に雄叫びを上げた。ジェンドは無人の道の上で、その異様な盛り上がりを感じて唾を飲み込む。顔を上げると、翼竜の背に乗るグリオガと目が合った。
ちょっとした手助けだ。人の狂気を存分に味わうとよい。
――そう言われたような気がした。ざわり、とうなじが粟立つ。触れるのも恐ろしい水銀のような感情が腹の奥から湧く。それは水位を上げていく。『もう一人の自分』が目を覚まそうとしていた。
そのとき、ノイロスが「弾き
身体の芯が一瞬で凍り付いたような錯覚を抱く。
狂気。好都合だ。そのまま身を任せろ。
「ジェンド!」
キクノの声で我に返る。
「さっさと決めなさい!」
相棒をしっかりと見据えて叫ぶ彼女の周囲には、石礫を受けた湧士が昏倒していた。
ふいにキクノは唇を噛んだ。その場にうずくまり、脇腹を押さえる。紋章術のわずかな隙間を突き、湧士の短剣が彼女の身体を貫いていたのだ。震える手で柔肌から鋼を抜き取る動きが、言葉にできないほど痛々しい。
ジェンドは息を止めた。呼び覚まされる記憶。眼前で身体を
止めていた息を、咆哮とともに吐き出した。
溜め込まれた力の一部が赤い雷光となって迸る。
キクノを囲む水流が勢いを倍加させる。螺旋を描いていた流れは
ジェンドは水流の
急げ。急げ。急げ――壊せ、壊せ、壊せ。
意識が、別の自分に乗っ取られていくのがわかる。ジェンドは左前腕を思い切り噛んだ。指先まで走った鋭い痛みで、暴走する感情を抑えつける。血が腕の側面を伝い、水流に溶け込んだ。
水流蛇の猛攻を受けた石塔は新芽のように脆かった。瓦礫を四方にまき散らしつつ、傾ぐ。ところが、いつまで経っても残骸は地面に落下しない。それは塔を結んでいた道も同様であった。
ジェンドは己の理性が残っているうちに、最後の仕掛けを放った。
水流蛇と、それに吸収させた力全て。一方的に攻撃を受けて蓄えた黒柱石の力。そして今なお頭上で輝き続ける朱色のマタァの力をも使って、ジェンドは全方位に術を放つ。まるで彼自身が白光背負う太陽になったように、幻影舞台を白く染め上げる。
その光は、見る者の精神を強く揺さぶった。萎縮した湧士たちに気力と戦意を蘇らせ、肉体に力を湧かせた。彼らの意思とは関係なく、心と身体が強制的に戦闘態勢に移行する。
目を血走らせた彼らの前に、小さな人影が立ち塞がった。大人の腰ほどの背丈の、青白い外套を来た、顔のない老人が、何もない空中から、何人も、何人も現れ、立ち上がる。
ラヴァの召喚――
言葉にならない悲鳴が充満した。ジェンドの光によって興奮状態になっていた湧士たちは、その瞬間、冷静な判断能力が焼き切れた。本能からの恐怖によって限界が引き上げられる。
湧士は――暴れた。
支えるものが何もない空中で、手当たり次第に武器を振るい、術を放つ。炎弾と氷片が炸裂音を上げて衝突し、鋭利な刃となった暴風が迷走する。周辺に浮遊する瓦礫が引き寄せられ、加速し、進路上のモノを打つ。いつどこからやってくるかわからない暴力に、湧士の悲鳴は留まるところを知らなかった。
風の塊がジェンドを直撃する。術の残滓が黄緑色の尾を引く。ジェンドは背中から観客席に墜落する。肺から息が吐き出されると同時に、身体を包んでいた光が散り零れる。
湧士たちの暴走は止まらない。空中を飛び交う術の、青や緑や黄色の光尾を見上げていると、再び血が騒いできた。身体が、震えた。何かを破壊したくて堪らなくなった。
拳で自分の額を殴りつける。
ジェンドは観客席から身体を引き剥がすと、よろめきながら舞台上に降りた。相棒の娘が倒れている場所まで足を引きずって歩く。半ば意識を失いかけているキクノの傍らに跪き、庇うように彼女の頭を胸に抱く。両手の震えがまだ止められなかった。今、自分は人を射殺すような凄まじい目つきになっているだろうと思った。
もういい。抑えろ。静まれ。
――何を言う。まだ奴らは生きがいいではないか。もっと暴れさせろ。濁流で飲み込んでやる。
腹の底から別の声が湧いてくる。
「やめ、ろ……」
血が滴るほど唇を噛む。自分の中のもうひとりの自分は、哄笑を上げながらジェンドの心を締め付けてきた。息苦しさに耐えるため、強く目をつむった。
そのとき、頬に軽い衝撃を感じた。
胸元のキクノが、力ない手でジェンドをはたいたのだ。
「さっさと、決めなさい」
彼女は繰り返した。ジェンドは瞠目し、瞬き、そして唇の血を拭った。
左手を眼前に掲げる。深呼吸をひとつ。そして、何もない空間を一度だけ、さらりと撫でた。
わずかの後――霧が晴れるように、悲鳴が消えていった。
ジェンドは汗だくの顔で空を見上げる。そこには、左手を差し出したままの姿で硬直する三十体ほどのラヴァがいた。湧士たちは全員、溺者のように四肢を垂れ下げて浮かんでいた。
ラヴァがひとり、またひとりとジェンドの元へ寄ってきた。強烈な倦怠感で動けないでいるジェンドの視界は、やがてラヴァの輝きに覆い尽くされた。
流れ込んでくる力。朦朧とした意識は、それを、どこか遠くの出来事に感じた。
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