第10話 幻影舞台

 リリエグ区の東隣に広がるエスミア区。ネペイア・アトミスの外縁にある区のひとつで、他の区域と比べて民家の数が極端に少ない。土地の起伏が激しく、岩石ばかりが目立つ荒野だ。

 時刻は上二つ時を回った。朝の空気が抜け、太陽が空高く街を照らし出す時分である。

 ノイロス・リービは、石を直角に削っただけの無骨な観客席に腰掛けていた。膝に頬杖を突いて見下ろしているのは円形の舞台である。頬に当てた指先を、彼は落ち着きなく動かしていた。

 半径およそ五十メトル、屋根はなく、すり鉢状の段差の底に石の舞台がある。重厚感がある立派な建造物だが、。以前から、ノイロスと彼の仲間たちが紋章術を駆使して造り上げてきた『幻影舞台』だ。

 すでに三十人を超える人間が集まっている。一見、観客席で寛いでいるようだが、持参した水容器を片時も手放さない。臨戦態勢だ。

 準備が整ったことを仲間が報せてきた。ノイロスは鷹揚にうなずいた。その顔は不満気である。

「気に入らないな」

 事情を知る仲間は肩をすくめた。

「仕方ないだろう。こうして俺たちが主催者になれただけでも、有り難いと思わないと」

「奴に階級戦を申し込んだのは俺なんだぞ。この舞台を造ることを思いついたのも俺だし、苦労して仲間を集めたのも俺だ」

 恨み言が漏れる。

「なのに、何だこの有様。水瓶ボウカリ級上位に大樽ヴァレイ級まで……なぜ階級上位の奴らが当然のように参加してる」

「ジェンドからは『来る』と連絡があったんだろう。良かったなあノイロス。これで奴が来なかったら、お前、いい笑いものだったぞ」

 仲間が揶揄する。ノイロスは苛立ちも露わに足で地面を叩く。

 観客席には細工が施してあった。ノイロスの合言葉に反応して、舞台の底に向かって毒水が流れるようになっているのだ。毒水は触れた者の精神を侵し、行動を妨げる。そしてノイロスを含む、舞台建造に携わった人間にはあらかじめ毒を相殺する術を施してあった。

 これで少人数であってもあの男を一方的に叩くことができる。第四空域で無残に打ち破られた憂さを晴らせるだろう。

 そんな目論見は、いざ舞台が完成するときになって暗礁に乗り上げた。どこからか見知らぬ湧士たちが集まってきて「自分たちも参加させろ」と宣ったのだ。

 ノイロスは苛立ちを仲間に向けた。

「何で奴らをあっさり受け入れたんだ。マタァの取り分がなくなるかもしれないだろ」

「相手はでかい紋章術を苦もなく使う男だ。戦える人間はひとりでも多い方がいいさ」

 澄ました顔で仲間は答える。

 強い者が戦えば、純度の高いマタァが生成できる。しかし、それを手に入れられるのは祭壇師によって認められた人間だけだ。強者になびくのは奴らの専売特許だとノイロスは確信している。

「これでは楽しみが半減、いやそれ以下だ。まったく気に入らない」

「まあ、いいじゃねえか。俺は楽しみだぜ。どんな戦いになるのか、とな」

 仲間はへらへらと笑っている。ノイロスが顔に泥を塗られて憤っていることを、内心愉快に思っているのだ。逆の立場なら、きっとノイロスも同じ態度を取るだろう。それがわかっているから、ノイロスは渋面を作るだけで我慢した。

 仕方ない。今回は奴が無様に膝を突く様を見るだけで満足としよう。そう考えれば、上級の人間が集まったのはむしろ幸運と言える。

 ――そして、約束の時刻がやってきた。

 突然、頭上で不快な金属音がした。錆びた鉄の棒を何本もよじり、束ねるような音だ。

 幻影舞台の上空に穴が開く。地上の者たちを睥睨しながら、巨大な翼竜がゆっくりと姿を現わす。観客席がざわめいた。ノイロスは驚きの表情で固まった。巨大な翼竜の姿に見覚えがあったのだ。

「グリオガ・ディナ。どうして奴がここに」

 悠然と翼竜を駆る剃髪の祭壇師が腕を振ると、背後から二人の男女が飛び立った。半透明の羽根を広げ、優雅に空を舞う。グリオガの使い魔だ。

 幻影舞台の上空で双子精が向かい合い、手を差し伸べる。鮮やかな朱色の靄が溢れ、二人の間で凝縮する。たちまち朱色の結晶が生成された。――大きい。人の胴体ほどはある。朱色は、高純度のマタァである証拠だ。ノイロスも、側に立つ仲間も声がない。おそらくここに集まった上級湧士でも、あれほどのマタァを目の当たりにした機会はごく少ないだろう。

 ただ、疑問も抱いた。戦いの成果物がマタァである。祭壇師がマタァを生み出すのは『階級戦の後』だ。

 ならば、あの巨大な結晶は何のために。

 マタァが発光する。その圧は強く、午前の蒼空がひととき、黄昏色に染まった。

 直後、地響き。鳴動する大地を突き破り、幻影舞台周辺に巨大な石塔が八本、屹立する。石塔は生きているように身震いし、塔身のあちこちから細い『道』を生やす。道は石塔同士を結び、壮大で複雑な立体構造を創り出す。誰もが息を呑んだ。

 ふと、ノイロスは胸元に痺れを感じた。大事にしまっている階級章が熱を放っている。章を取り出し、浮かび上がる文字を確認すると、そこに記されていたのは、ふたつほど上位に書き換えられた自らの階級であった。

 マタァからの発光が柔らかくなった頃には、その場にいた湧士全員が自らに起こった変化に気付いて、どよめいていた。

「この空間はたった今、強化された」

 グリオガが口を開く。

「この幻影舞台に立つ限り、君たちはこれまで使えなかった術を容易に行使できるようになるだろう。より激しく戦うことができるだろう。――有限ではあるが、な」

 祭壇師は表情を変えない。

「もしも最後まで健在だった者がいたならば、その栄誉を称え、このマタァの残された力をすべて授けようぞ」

「お――」

 次の瞬間、地鳴りような歓声が響き渡った。戸惑い、喜び、興奮。それらがない交ぜになった危険な熱狂。ノイロスもその熱に当てられたが、この階級戦を企画したという自負と、その自負が闖入者によって傷つけられた屈辱で、他の連中よりかは冷めていた。

 地べたで雁首揃える者たちに手を振って応えていたグリオガが、ふと、何事かつぶやいた。それに気付いたノイロスは、なぜか、背中を掻きむしりたいほどの苛立ちに襲われた。

 ジェンドはまだ現れないのか――眉間に眉を寄せたそのとき、舞台の端――現実と虚構の境からジェンドが姿を現した。隣には見慣れない女の姿もある。

「そして、諸君。たった今現れた彼らが、諸君らの相手となる者たちだ」

 グリオガの声に呼応して、湧士たちが騒ぐ。ジェンドたちを指差して囃し立てる。

「さあ、始めたまえ。命を懸けて」

 開始の言葉は、歓声にかき消された。



 キクノの指先は震えている。

「まったく。どうしようもないわね。これ」

 ひとりつぶやく。彼女は恐怖ではなく、興奮によって震えていたのだ。

 この幻影舞台(結界)に入る前、キクノは口角を上げて言っていた。「実は私、何十人も一度に相手をするのは初めてなのよね」と。

 キクノの自信が羨ましい。

 全方位から降ってくる声と視線。ざっと三十はある。舞台の底でジェンドとキクノは互いに目配せした。

「手はず通りに」

「ええ」

 キクノは両手を前に出して構えた。紋章術を使うためには媒介の水が必要だ。しかし彼女は水容器をひとつも携帯していない状態で、術を発動させた。

 キクノの足許が青く光り出す。半径三メトルの結界。そこから水流が螺旋を描いて巻き上がった。湧士たちはその水量の多さに驚愕した。

 もし、あれがすべて紋章術に使われたのなら。

 自分たちは、舞台ごと吹き飛ばされてしまうかもしれない。

 朱色のマタァで強化されたのは自分たちだけではなかった――熱狂していた湧士の心に冷たい露が落ちる。

 奴に紋章術を撃たせるな――湧士の誰かが叫ぶのを聞き、キクノは額に汗を浮かべた。

「度胸なら任せなさい。あなたもしっかりやって。ジェンド」

「ああ。守る」

 力強く言い切ったジェンドに、キクノは笑みを返した。

 ジェンドは服の下の御守りを握った。ルテルは能力を最大限発揮するために黒柱石の中に戻っている。だから今は、ジェンドの内心を代弁する者がいない。

 ――恐怖があった。

 これだけの『敵』を相手にすること。一時的とはいえ、彼らの能力が大きく引き上げられていること。この戦いで成果を挙げられなければ、自分は生きて帰れない――しかも、人の形すら保つことができずに――ということ。突きつけられた現実は、ジェンドの心を揺さぶるには十分であった。

 だが、恐怖を表に出すわけにはいかなかった。たとえ心胆が震えていたとしても、自分は彼らにとって倒すべき強大な『敵』で居続けなければならない。彼らを幻滅させてはいけない。

 湧士たちが望む仮初めの姿――

 戦いを楽しませる張りぼての強者――

 ジェンドは思い描いた。黒柱石を介し、練り上げた力を解放する。

 足許が隆起する。舞台が割れ、浮遊した石礫がジェンドに集まる。彼の体躯は二倍、三倍と大きくなり、やがて棍棒のような両腕を吊り下げた石の怪物と化す。ジェンドの生身は、石巨人のちょうど胸の位置にある。まるで「ここが心臓部だ」と周囲に喧伝するように。

 前衛には怪物化したジェンド。後衛には強力な術を練るキクノ。二つの存在に、湧士たちの目の色がさらに変わった。

「行くぞ!」

 突撃の発声の主は、ノイロスであった。瞬く間に鬨の声が広がり、湧士たちが襲いかかってくる。ある者は接近戦を、ある者は遠間から紋章術を仕掛ける。

 ジェンドは石の両腕を交差して掲げ、彼らの攻撃をすべて受けた。視界を覆う石腕越しに衝撃を感じる。攻撃によって刮げられた粉塵が顔に降る。塞がれた視界の向こうからは、いくつもの怒声が飛んでくる。

 巨体がよろけた。湧士の一人が、巨大な鎚で石脚を打ち据えたのだ。ジェンドは防御姿勢を解き、左石手を湧士に伸ばす。狙われた湧士は武器を手放し飛び退く。ジェンドは鎚を握る。指の一本一本に力を込める心象を描くと、鎚は真っ二つに折れた後で形を崩し、灰色の水となって石腕に染みを作った。石の身体を通して、紋章術の力が吸収される。

「気をつけろ。奴は術を砕く」

 新たな鎚を紋章術で作り、湧士が叫ぶ。他の者たちは警戒を強め、距離を取る。

 睨み合いは、ジェンドにとって歓迎できる状況ではない。

 十分に警戒し体勢を整えていた湧士がひとり、その場で突然転んだかと思うと、見えない手に引きずられるように石舞台を滑り始める。その先には水流を身に纏うキクノがいる。湧士の間にどよめきが起きる。

 巻き上げられた木の葉のように空中に投げ出された湧士は、そのまま水流に巻き込まれた。水の青い流れの中に、鮮やかな緑色が混ざる。湧士の階級証から滲み出ているものだった。螺旋回転しながら上へ上へと巻き上げられた湧士は、水流の頂点ではじき出され、観客席の中ほどに激突する。直後、彼の姿はぼやけて『観客席の向こう側』に消えた。

 幻影舞台から強制的に退場させられたのだ。

「あの水自体が、紋章術なのか」

 ざわめきが一度大きくなり、それから驚くほど静かになる。

 湧士たちは同じ獲物を狩る同志ではあるが、同時に競争相手でもある。より強大なマタァを手に入れるためには、何としても舞台に居続けなければならない。

 場の緊張感がさらに増した。

 ジェンドは息を細めて吐く。さして動いていないのに鼓動が速くなっていることを自覚する。ジェンドは表情を引き締めた。

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