第9話 異世界の

「礼はいいわ。その代わり、説明して。あなたの身体には一体、何が起こっているの」

「それは――」

 正直に語ろうとしたとき、エニドゥがさりげなくキクノとの間に手を差し出した。グリオガが言う。

「玄関前で話すことではなかろう。二人とも入りたまえ」

 グリオガの細腕が重厚な扉を開く。キクノに肩を預ける格好で、ジェンドたちは館に入った。エニドゥの姿はいつの間にか消えていた。

 館の内部は、まさに別世界であった。床という床が水で覆われ、青白く輝いている。気泡が浮かんでは弾け、規則正しい音色を奏でる。室内灯はごくわずか、採光の窓もないが、床一面が光っているため、館内の様子はよく見えた。玄関広間は三階部分まで吹き抜けで、各階は左右対称に、白く流麗な柱に支えられている。水面に足場はなく、階段も見当たらない。

 この中をどう進んで行けばいいのだろうか。眉をひそめるジェンドたちを尻目に、グリオガは水面を颯爽と歩いて行った。

 二人は顔を見合わせた。「ここで立ち止まっていても埒があかないわ」と、持ち前の強気で躊躇いをもみ消したキクノが、先に一歩を踏み出す。彼女に引っ張られ、ジェンドも続いて水床を踏んだ。その途端、ふくらはぎまで水床に飲み込まれる。慌てて足を引き抜き、石造りの玄関口に戻った。

「下手に意識をするな」

 グリオガが振り返りもせずに言う。キクノは前髪を乱暴に掻いた。

「まったく。さすが、死者をも生き返すお方ってとこかしら」

「上級区にある家の内部って、皆こうなのか」

「さあ、どうかしらね。私は初耳。これほどの異世界はそう他にないと思うけれど。……ああ、もうあんな先に行かれてる」

 キクノは嘆いた。

 気泡が弾けるたび、水面に波紋が拡がる。ジェンドは初めてバンデスと話したときのことを思い出した。流動を具象化するのが紋章術、思い描けばルテルが助けてくれるとエナトスの神は言っていた。

 使い魔の少女に目を向ける。すぐに彼女はうなずいた。ルテルの小さな身体から靄が零れ、水面に溶けていく。色は薄い青。力によって靄の色が異なるのだろうかとジェンドは思った。

「キクノ。もう一度やってみよう。今度はきっと、大丈夫だ」

「あ、ちょっと」

 足を出す。綿の塊を踏むような感触がした。水の冷たさが頑丈な靴裏を透過する。しかしそれだけだった。足は、水床の上にしっかりと乗った。

「えい、女は度胸」

 キクノも腹を決め、水床を踏みつけた。今度は靴裏から波紋が拡がっただけで、足が沈み込むことはなかった。彼女は安堵の息を吐いた。

「これもあなたの紋章術かしら。ジェンド」

「ルテルの力だ。俺はただ心象を思い描いただけ。紋章術はそういった流動するものを具現化することだと聞いた。ここが床だと思えば、俺たちにとって足場になる」

「そういう考え方で紋章術を使う人、初めて見た。紋章術って、何なのかしらね」

 水の廊下を進む。しかし、いくら歩いても突き当たりの壁が見えない。建物の外観からは想像できない奥行きである。しばらくして、ようやくグリオガに追いついた。彼の前には硝子の丸机と椅子が設えられている。水面が放つ蒼光が家具の内部で屈折して、幻想的な紋様を描き出している。

「ねえちょっと。足下を見て」

 キクノが言う。床を透過して玄関広間が見えた。一階部分を真っ直ぐ歩いてきたはずなのに、いつの間にか広間を見下ろす場所に立っていたのだ。

「紋章術は水と人に通じる。流動流転し、人がこうありたいと思うものを形にする。ならば、紋章術で形作られた空間に階段など不要だと思わないかね」

「そんな理屈は初めて聞いたわ」

「まあ座りたまえ」

 硝子の椅子に腰掛けると、坑内の落滴のような低く丸みのある音が鳴った。椅子は一脚余っていた。

『どうぞ』

 横合いから茶碗が差し出され、ジェンドとキクノはその場で仰け反った。まったく気配を感じさせることなく、一人の女性が丸机のすぐ側に立っていた。袖のない漆黒の礼服に身を包み、深い黒の長髪が踝まで落ちている。前髪が顔の半分を隠しているため、どんな表情をしているのかわからなかった。背に生える羽根はエニドゥと形状がよく似ていた。

「私のもう一人の使い魔、サラスィアだ。エニドゥとは双子の精である」

 グリオガが紹介すると、サラスィアはわずかに会釈をした。衣擦れの音が妙に艶めいて聞こえた。

「サラスィア。始めてくれ」

『承知いたしました。我が主スティマスグリオガ』

 サラスィアの足下から濃い灰色の靄が湧く。靄は水床を伝い、余っていた椅子の根元にまとわりついた。夕暮れ時の山端のように、椅子が赤く染まっていく。グリオガは茶を一口すすり、言った。

「どうぞ。もお座りください」

 ジェンドは祭壇師の丁寧な口調に違和感を覚えた。キクノが裾を引き、「あなたの腕、変よ」と言った。左腕の火傷跡が発光していた。腕から零れた燐光がさらさらと流れ、集まり、赤く染まった硝子椅子の上で人の姿となった。キクノが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。

「ラヴァ!」

「……バンデス」

「バン……え? ねえ、どういうこと」

「彼はラヴァじゃない。俺の身体に宿るバンデス――神だ」

 二の句が継げないでいるキクノに、バンデスが言った。

『儂はジェンドの導き手だ。安心しろ』

「喋った……」

『あれだけの異常に遭遇したにもかかわらず、よくジェンドの側に付いてくれた。儂からも礼を言いたい』

 目鼻のない白い老人に見つめられ、キクノは視線を彷徨わせた。前髪を乱暴に掻き、椅子に腰を下ろす。茶を喉に流し込んで、「私、しばらく黙っているわ」と疲れたようにつぶやいた。

 グリオガが深く頭を下げる。

「ようこそおいでくださいました。我が使い魔の結界は御身には少々窮屈かもしれませんが、ご容赦くだされ」

『気にするな。まったく問題ない』

「あんた、バンデスのことを知っていたのか」

 目を瞠って問うと、「ジェンドの身の内に大いなる存在がいるということは」と祭壇師はうなずいた。バンデスは軽く笑った。

『お前のような男と知己になったのは幸運であるな』

「グリオガ・ディナと申します」

『儂を喚び出したということは、儂たちの目的も察しが付いているのか』

「いえ。それをお伺いしようとこの場を設けました」

『理解した。ではグリオガ。早速だが、ジェンドの敵として立ちはだかってはくれないか。玄関先でお前の使い魔が素晴らしい働きをしたように』

「敵。それはまた、穏やかならぬことですな」

『ジェンドの力を高め、儂の封印を溶かすためである』

 エナトス崩壊のこと。ジェンドの使命と身体のこと。バンデスは流暢に語った。祭壇師は顎に手を当てる。

「なるほど。それではあなた様は、エナトスの復活をジェンドに託されたわけですな。いいでしょう。同郷の者が関わっていたとなれば、協力しないわけにはいきますまい」

我が主スティマスグリオガ。本気でおっしゃっているのですか』

 サラスィアが前髪の下でグリオガを睨んだ。彼女は鈴の鳴るような声で『跡形もなくなりますよ』と続けた。グリオガは問いかけた。

「それはジェンドのことかね。お前たちのことかね。それとも、この街全てのことかね」

『全てです』

 バンデスが笑声を上げた。

『それはよい。ジェンドが目的を達成できるのであれば、儂はこの街がどうなろうと構わん。所詮、ここは儂の居場所ではない』

『そんな。あまりに無体なお言葉です、バンデス様』

 黒の使い魔の動揺を、バンデスは気に留めていないようだった。

『見守る者を一番愛しく思う。それが神というものだ』

 サラスィアが黙る。バンデスはグリオガを見た。

『さて。この通り、お前にとって儂は有害な存在と言えよう。であれば、儂ごとジェンドを葬るのがよいと思わぬか。もちろん、我々は全力で抵抗するがな』

「なるほど。そうきましたか」

 剃髪の祭壇師は――驚いたことに微笑んだ。

「ますます興味深い。あなた様は本当にジェンドと故郷を大切に思われている。しかし、お忘れですかな。私は祭壇師。マタァを生み出し、この街をネペイア・アトミスたらしめることが生涯の使命」

『ゆえに敵だろう』

「いいえ。強き者たちがぶつかり合うほど、マタァも強大になります。それはこの街をより栄えさせることでしょう。従って、あなた様は敵ではあるが、同時に無二の味方でもあるのですよ。喪うわけにはいきません」

『神の加護を受けた者の力だぞ。それもマタァに変換できると豪語するか』

「血が滾りますな」

 動じないグリオガをしばらく見つめていたエナトスの神は、やおらジェンドを振り返った。

『すまないな。お前の身体のことを考えると一刻も早くことを進めるべきなのだが、どうやらお前が動く必要があるらしい』

「勝手に話を進めるな。グリオガを挑発までして」

 ジェンドの苦言に対し、目鼻のないバンデスは笑うように肩を揺らした。

『エニドゥと戦ったときにはだいぶ『変わった』かと思ったが、控え目な根は相変わらずだな。ああ、いや。少し違うか。ルテルが表情豊かになってきたのだから』

 使い魔の少女は、丸机の上で頬を膨らませていた。

『確かにお前を無視して話を進めた。なら、お前はどうする』

 ジェンドは空咳をひとつする。

「明日の階級戦。そこで一気に力を蓄えてみせる」

『そうか。その意気だ』

「楽しみなことです」

 丸机を囲む面々の中で、神と祭壇師だけが明るかった。

『ところでグリオガよ。お前は儂の同胞と繋がりを持っているな』

「あなた様の同胞……ああ、なるほど。繋がりと言えば繋がりですな」

『もし明日、ジェンドが不満の残る戦果しか挙げられなかったときは、こやつを同胞の元まで導いて欲しい』

 グリオガが目を細める。

「導いて……何をさせるおつもりか」

『なに。『触れる』だけだ。上手くいけば一気にエナトスの復活までこぎ着けられる。駄目なら人格が崩壊するだろうがな。どちらにしろ、ネペイア・アトミスからは姿を消すことになろう』

「最後の手段というわけですか」

『明日、失敗すればジェンドは崩壊する』

 わずかの間、無言無音になった。グリオガが茶器を置く。

「先ほどの現象ですな。ジェンドは私が思っていた以上に厳しい状況の中を生きているようだ。よいでしょう。お約束します。ただし、私の力では『あの方』の元までたどり着くのは容易ではありません。あらかじめご承知置きを」

『わかった。明日、十分な力を得られるのなら、それに越したことはない。問題はそれだけの戦いができるかどうかだ』

 グリオガが何かを思いついて、手を叩く。

「スピアース復活のためのマタァを『しるし』として戦場に掲げましょう。ジェンドを打ち倒した者にはこれを与える、と。湧士たちはより激しく戦うことでしょう」

「兄を道具にするつもりですか」

 それまで黙っていたキクノだったが、堪らず噛みついた。「絶対にさせません」

 だが、グリオガは頑なだった。

「私はやるといったら、やる。何しろ神の助手となれるのだ。これほど滾ることはない。私の企みを止めたいなら力尽くで来い。我が使い魔を顎で使ったその胆力を見せてみろ」

 何のことかわからず、ジェンドは眉をひそめた。隣でサラスィアが肩をすくめる。

『キクノ嬢は、わたくしにスピアース殿の運搬を頼んだのです』

 グリオガは言った。

「もし兄を無事に復活させたいのであれば、可及的に速やかに混沌へ移行し、それを持続させよ。湧士たちがマタァを食らい尽くす前に、短時間で大量のマタァを手に入れるのだ。だが、そのためには――」

 険しい顔を崩さず、キクノは一言一言区切って答えた。

「相手を、熱狂させること、夢中にさせること。飽きてしまう戦いに、皆は本気にならない」

「そのとおり。知恵を絞りたまえ」

『期待しているぞ』

 稀代の祭壇師と山の神からの言葉かけに、ジェンドたちはうなずくことができなかった。

 ――成功させなければ希望が潰え自らも死ぬジェンド。

 ――成功させなければ兄復活の望みが絶たれるキクノ。

 バンデスの姿が消え、グリオガもサラスィアを連れ自室に戻っていった。

 ジェンドとキクノは黙っていた。水床が奏でる泡の音が低く谺する。

「キクノ」

 ジェンドの呼びかけに、恩人の妹が疲れた顔を向ける。

「ひとつ、思いついたことがあるんだ」

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