第8話 敵はどこだ

 物問いたげなジェンドたちをよそに、「館まで案内しよう」と近くに置いてあった幌付きの荷台まで歩く。車輪はなく、分厚い板の側面には精緻な彫り物が施されている。荷台には座席の他に、大の大人ほどもある水容器が積まれていた。

「それは」

「ジェンドは目にするのが初めてか。浮遊荷台である。専用の紋章術を使って移動する乗り物だ」

 グリオガが手をかざすと、荷台は音もなく浮き上がった。「位階上位の限られた人しか持ってない代物よ」とキクノが耳打ちする。大人が数人乗り込んでも、浮遊荷台はびくともしなかった。

 グリオガの操作で、浮遊荷台は滑るように走り出す。地面から数十センの高さに浮かんでいるため、まったく揺れない。

「わざわざこのような手の込んだ乗物を造る理由がわかるかね。ネペイア・アトミスに住む人間は『空を飛ぶこと』に対して特別な想いを持っているからだ。この地が大地から独立した空飛ぶ世界であり、自分たちがその中心にいるという矜持が、これを造らせるのだ」

 グリオガは語る。口調だけみれば機嫌がよさそうだが、表情は一切変わっていない。

「その点、騎士は空が仕事場だ。私は君たちのことを尊敬しているのだよ。エザフォス君」

「それよりもグリオガ様。なぜ、あのようなことをされたのです」

 落ち着きなく尻を動かしながら、キクノがグリオガを睨んだ。

「リリエグ区で私たちにカーポを売ったのも、あなたですよね。私たちの監視ですか。稀代の祭壇師と言われたあなたが、なぜこそこそと」

「カーポを売ったのはついでだ。そなたらを見ていると、昔が懐かしくなったのだ」

 らしくない言葉にジェンドとキクノは顔を見合わせる。「本当のところは」とグリオガは続ける。

「我が使い魔がエスミア区で大掛かりな紋章術を感知したのだ。もしやそなたの術ではないかと、直接様子を見に行った。結果、術を施しているのは下級の者たちであったが、その完成度はなかなかであった。しかも手がけていたのはジェンドが墜とした者たちだ」

 ひたとジェンドを見据える。

「おそらく、そなたを迎え入れるために創られたのではないか」

「グリオガ。あんた、階級戦のことを知って……」

「知らない。だが私の推測と行動は正しかった。そなたらに見せたのは舞台の再現だ。時間がなかったのでごく簡単なものにしかならなかったのは謝ろう」

「あれで、ごく簡単なもの」呻くようにキクノが言う。

「そなたはあのような環境で戦うことになるだろう。どうであったね。あそこで戦ってみての感想は」

『良かったです』

 主に代わってルテルが言う。そうか、と祭壇師はうなずいた。

「そなたの姿勢を見せてもらった。当日は大量のマタァが生まれそうであるな。よいことだ。より純度の高いマタァを多く生み出すことは、ネペイア・アトミスの喜びに繋がる」

「この街の……喜び? グリオガ様、それはどういうことでしょう」

「ネペイア・アトミスがこの地に在り続けるために必要なのだ」

 釈然としないキクノ。グリオガは再びジェンドを見る。

「結果次第ではもう一人二人、復活できるほどのマタァができるかもしれない。どうだ。誰か、生き返したい者はいるか」

「……一人二人では足りない」

 正直に答えた。ジェンドの左腕を見て、グリオガはうなずいた。

「なるほど。やはり大きな事情があるようだ。私もかつて超常の存在と接したことがある。同じ経験を経た人間同士、話を聞きたいと思っていたのだよ」

「じゃあ、あんたも神と……」

「我が館でゆっくり話そうではないか」

 そして、もはや何に驚くべきかわからなくなった様子のキクノたちに視線を向ける。

「もちろん、約束は果たす。かの男の復活は必ず成し遂げよう」

「ま、待ってくれ。グリオガ・ディナ」

 エザフォスが身を乗り出す。

「我らはスピアースの処遇について協議するためにここまで来たんだ。一方的に結論を出してもらっては困る」

「何を言う。そなたが直接私に会いに来たということは、遺体を引き取りたいという意思表示であろう。私はやると決めたら、やる。それを曲げたいと言うのなら力尽くできたまえ」

 背筋を伸ばした美しい姿勢のまま、冷たくあしらう祭壇師。「あんたという人間に対する認識が、まだまだ甘かったよ」と恨めしげにつぶやくエザフォスと、呆れ果てて目元を覆うキクノの間で、ジェンドは申し訳なさを感じていた。グリオガの興味はどうやら自分にだけ向けられているとわかったからだ。

 ジェンドは視線を外に向けた。浮遊荷台は、軽く息が上がる程度の駆け足の速度で進んでいる。景色の流れは緩やかだ。数台の浮遊荷台とすれ違う。道行く人々はジェンドたちを避けて歩いている。彼らの服装は、これまで見てきた人々のものと大きな違いはない。

 エザフォスとキクノは黙り込んでしまった。

 大通りから路地を幾度か曲がり、人の姿も建物の姿も見当たらなくなった後、浮遊荷台は小高い丘を登り始めた。行く手に一際大きな館が見えてくる。

「我が館に入る前に忠告しておこう」と、不意にグリオガが言った。

「親愛なる使い魔殿には十分に気をつけるように。彼らは有能で、私にとってかけがえのない存在だが、少々、余所者に厳しい。特にそこの二人」

 キクノとエザフォスを指差す。

「下手に彼らの機嫌を損ねれば、ジェンドが新たなマタァを手に入れるまで肉塊として休んでもらわなければならない。心しておくことだ」

「では、この無駄に広い敷地は、不届きな余所者を処断するための刑場ということか」

 平淡な声音の下に不信感を敷くエザフォス。館へは一本道である。ジェンドは周囲を見た。ほぼ等間隔に三人掛けの木製長椅子が設置され、その後ろには草花で装飾された迫持せりもちが点々とあった。エナトスにも、皆が集まる憩いの広場には同じような構造物が置かれていた。故郷と違うのは、それらが例外なくということである。

 遠目ではわからなかった小さな穴――争いの跡もあちこちに見た。穴には水が湛えられ、いつでも紋章術を使って戦えるようになっている。

「刑場ではない。階級戦に適した土地として提供しているのだ。もっとも、使い魔と戦えば相応の損害は避けられないので、このような有様になっているが。なかなか情緒的であろう」

「あんたから情緒なんて言葉を聞いたら恐ろしくて仕方ない」

「心外だな。私にも感情はある」

 館の前には黒服の男がひとり、待機していた。髪も瞳も漆黒。彼が人間でないことは、背中から生えた半透明の羽根を見ればわかった。いずれルテルも人と同じ大きさに成長するのだろうかとジェンドは思った。

 浮遊荷台は黒服の男使い魔の前で静かに停まった。

『ここに招く……相当なマタァの持ち主……か?』

 たどたどしい口調で男は尋ねた。館主への労いも来客への挨拶もない。ジェンドたちは顔を見合わせた。

 使い魔の態度に頓着せず、手ずから浮遊荷台を降りたグリオガはジェンドに言った。

「彼が我が屋敷で回収を担当しているエニドゥだ」

我が主スティマスグリオガ。質問答えるべき……』

「気になるなら自分で確かめるといい。サラスィアはどこだ」

『奥で……茶を……』

「よし。いつもながら時宜に適っている」

 満足そうにうなずき、館の中に入る。取り残されたジェンドたちは、恐る恐るエニドゥを見た。黒の使い魔から藍色の靄が溢れ、右手に枝分かれした鞭が出現する。エザフォスが慌てた。

「待て待て。俺たちは戦いに来たわけじゃない」

 エニドゥの漆黒の瞳が動く。鞭の先端がひとりでに疾駆する。エザフォスは反応できずに右のこめかみに直撃を受ける。瞬く間に血が滲み、充血した目から涙が飛ぶ。騎士の血と涙を鞭の先で掬い取ったエニドゥは、細い眉をわずかに傾けた。

『この程度が、なぜ居る……』

 失望している。

 エザフォスの痛々しい傷を見たジェンドの脳裏に、スピアースの姿が蘇る。ルテルの身体から橙色の靄が溢れ出す。

「あんたは俺の――」

 敵だ、と叫ぼうとした瞬間、束になった鞭がジェンドの胸の中心を強かに打ち据えた。吐き出された唾液が鞭に降りかかる。

 足先まで痺れる痛みに耐えながら、エニドゥを見た。黒の使い魔は失望から一転、喜色の笑みを浮かべていた。

『凝縮された力……! 回収……我が主グリオガの道のために……』

 無数の鞭がジェンドをあらゆる方向から打つ。身体の動きだけでなく紋章術も織り交ぜ、鞭に獰猛な獣の命を吹き込んでいるのだ。傷つけられる度にジェンドを覆っていた靄が薄くなる。ジェンドは荷台から転げ落ち、動けなくなった。キクノも、視界を半分奪われたエザフォスもその場に凍り付いていた。

 足先から感覚がなくなっていく。まずいと思った時には崩壊が始まっていた。ジェンドは立ち上がろうとしてよろめき、倒れた。まったく痛みはなかったが、足首から上の骨があり得ない方向に折れていた。キクノが高く短い悲鳴を上げた。

 喪われていく身体の感覚とともに、理性も剥がれ落ちていくようだった。腹の底から熱く渦巻く暴力的な感情が湧き上がってくる。自分の意識が、自分から離れていく。キクノたちに見捨てられても構うものか、それよりマタァだ、力がる――そう叫ぶ『もう一人の自分』を遠くから見る。

「奪ったな。貴様」

 自分でも驚くほどの怨嗟の声が聞こえた。

それマタァは俺が蓄えたものだ。返せ」

『理解不能……敗者、潔く勝者に捧げる……』

「返せ!」

 ジェンドは飛びかかった。半分溶けかけた腕でエニドゥの喉を掴む。使い魔の皮膚が音を立てて溶け始めた。

 人外の死闘を演じるジェンドとエニドゥの後ろから、グリオガが傍観者として現れる。その手には人数分の茶を淹れた盆があった。

「参加するなら今だぞ」

 祭壇師は固まったままのキクノたちに語りかけた。

「今、この戦いに加わるならお前たちもジェンドと同類と見なして、この茶を振る舞おう。そうしないのなら回れ右して帰りたまえ。この先は『彼らのような者たち』の世界である」

 半溶のジェンドと、人外の配下を指差す。

「己が目指すもののためならば人の姿を棄てることも厭わぬ勇気はあるか。その者に付いていく勇気はあるか」

「なぜ、こんなことになるんだ。わからない」

 痛みをこらえるようにエザフォスは弱々しくつぶやく。悲痛な仲間の声さえ、今のジェンドには癪に障った。

「うるさい。黙れ」

 邪魔者たちに叫んだ。瞳が白濁している。ルテルの目もまた同じように変化している。

「俺は取り戻すんだ。全てを! そのための力を得る。敵はどこだ。敵は!」

「いい加減にしなさい!」

 怒声とともに後頭部を殴打される。キクノだった。衝撃とともに、ジェンドを支配していた暴力的な感情が薄らいだ。

 気がついたときには抜けるような空を見上げていた。しばらく意識を手放していたらしい。視界に大きくルテルの顔が映る。心配そうな使い魔の目は、元の色に戻っていた。

 ゆっくりと上体を起こす。ジェンドの身体は元に戻っていた。「治してくれたのか」と尋ねると、使い魔はうなずいた。

『我を忘れてしまい、申し訳ありません』

 意気消沈するルテル。俺もそうだ、とジェンドは内心でつぶやいた。

 眼前に湯飲み茶碗が差し出される。香ばしい芳香に驚き、茶碗の持ち主を見て二度驚いた。

「キクノ……」

「飲むと落ち着くわよ。私も初めて飲んで驚いたぐらい」

 戸惑いながらも茶碗を受け取る。取っ手に指をかけ、茶碗の重みを感じる。きちんと人の手として機能していることが新鮮だった。香りを感じる鼻も、茶の熱と旨みを感じる舌も、喉も、茶を受け止める腹も、以前と変わらない。改めて『人の姿でいること』の有り難みを噛みしめる。

「私は謝らないわよ」

 不意にキクノが言った。

「あなたの後頭部を思いっきり殴ったこと。ああでもしないとあなた、完全に人外になっていた。まるで――」

 そこで口をつぐむ。何を言おうとしていたかジェンドにはよくわかった。辺りを見回す。近くにはグリオガと、無表情のエニドゥが立っている。

 一人足りない。

「筆頭なら、去ったわ」とキクノが平坦な声で教えてくれた。

「グリオガ様の言葉に従ってね」

 それはジェンドに付いていけないという意思表示。

 ジェンドは隣に寄り添うキクノを見た。

「キクノはどうして帰らなかったんだ」

「あなたみたいなのを放っておいたら、この街がどうかなってしまうわ。私は騎士であることはやめたけれど、だからと言ってこの街の危機まで見過ごすつもりはないの」

 そこで、ほんの少しだけ表情を緩める。

「それに、兄さんと最後に一緒だったあなたを見捨てたら、兄さんに怒られてしまうような気がした」

『ありが――』

 主の心を代弁しようとしたルテルをやんわりと遮り、ジェンドは頭を下げた。

「ありがとう、キクノ。あんたのおかげで俺は人に戻れた」

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