第7話 甲冑人と高揚
二人はしばらく無言のまま、
よろめいたジェンドを支えたとき、エザフォスが眉をしかめる。
「その腕の痣はどうした」
ジェンドの前腕には、複数の蛇が我先に獲物へと群がっているような、赤黒い紋様が刻まれていた。掌の火傷痕が拡がったものであった。紋様が何を表しているものか、ジェンドは理解していたが、それをどう言葉にすべきか悩んだ。
「これは……
「……すまん。お前が何を言っているのかよくわからない。本当に大丈夫なんだろうな」
「俺次第だと思う」
エザフォスは頭を掻いた。会話のきっかけを逃すまいと、ジェンドは思い切って尋ねた。
「ネペイア・アトミスにラヴァはいないのか」
「いたら大騒ぎだ。もともと、ネペイア・アトミスはラヴァから逃れるために空中にできたと言われているんだ。ラヴァは地上の生き物だからな。ただ、ネペイア・アトミスの大地は一本の柱で地上と繋がっているから、そこを登ってくる可能性はゼロじゃない。だから俺たち騎士が下街にいて、いざというときに備えるんだ。ま、今はもっぱら周辺地域の探索が主だけどな」
「街中にラヴァがいれば、それは討伐対象になる?」
「当たり前だ。そのときは俺たち騎士が総力を挙げて退ける」
「湧士たちは?」
「さあ。彼らにラヴァから街を守るという意識があるかのかはわからんね。ラヴァの恐ろしさは、幼少期から教義を通じて嫌というほど教え込まれている。たが湧士連中の中に本物のラヴァと遭遇した奴など一体何人いるか。恐怖にかられて、考えなしに暴走することはあるかも知れんが」
そう、とジェンドはつぶやいた。
――つまり俺がラヴァ化してしまえば、一気にこの街の『敵』となるわけだ。さぞかし凄まじい戦いになるだろう。
微かに口元が緩む。肩に止まっていたルテルに横髪を引かれて、ジェンドは我に返った。俺は、心の底では戦いを待ち望んでいるのかもしれないと思った。自分の中に別の顔があるなんて、これまで考えたこともなかった。奇妙で、恐ろしいと感じた。
だが、受け入れなければならない。故郷を、平穏を取り戻すために。
「平穏……か」
我知らず口にした言葉をエザフォスは勘違いをしたようだ。彼は嘆息した。
「残念ながら、俺やジェンドが思い描く平穏と、ここの連中が『平穏』と見なす状態の間には、ネペイア・アトミスと地上世界ほどの差があるだろうな。仮にラヴァを退けたとしても、待っているのは『誰の功績になるか』の争いだ。戦わない平穏なんて、お偉い湧士様方の頭には欠片もないんだろうさ」
「遠いところに来てしまったんだな。本当に」
ジェンドは応えた。
空気を変えようと、エザフォスは水脈門について語り始めた。
水脈門とは、広大なネペイア・アトミスを翼竜を使わずに移動するためのものである。各区に最低ひとつ設置されており、誰でも利用できる。ただしマタァが要求されるため、水脈門を通るのは翼竜を持たない下級の湧士か、各区に物品を運ぶ民が多い。
路地を進んでいくと、直径三十メトルほどの空間に行き当たった。中央に長方形の巨大な『鏡』が鎮座している。民家一軒分の高さはあるだろう。水脈門である。
門の傍らではキクノがこちらに背を向けて立っていた。彼女の他に人の姿はない。
キクノは何やら思い悩んでいる様子だった。
「どうした。準備は済んだのか」
「それが、筆頭。誰かが門の行き先を固定してしまったみたいで」
キクノが手をかざすと、鏡面の一部が波打ち、ネペイア・アトミスの全景を映しだした。リリエグ区と隣接した区域が存在を誇示して薄く明滅している。
「行き先の変更は湧士ならできるだろう」
「できます。ただ通常より多くのマタァが必要なんです。今の手持ちでは足りない。この時間帯の水脈門は安価で解放されているはずなのですが」
そうでなかったらグリオガの元へスピアースの身体は届けられなかった、とキクノは言う。エザフォスは渋い顔をした。
「ノイロスたちの嫌がらせか」
「どういうことです。なぜあの乱暴者の名が」
「帰還途中に、ちょっとな。ジェンドが目を付けられてしまったんだ。明日、階級戦に付き合えと言われてる。時間も場所も、ご丁寧にあちらさんがご指定だ」
キクノはそれだけで得心したようだ。
「『逃げるな』『助けを呼ぶな』。そんなところですか。いかにも彼らの考えそうなことですね。まったく、ここは公共の施設なのに、傍迷惑なことだわ」
「リリエグの首領気取りの男だ。それがあっけなく撃墜されたから、矜持が許さないのだろう」
深いため息をつく二人。
ルテルがジェンドの髪を引き、御守りを示した。主に向かってうなずきかける。
ジェンドは水脈門の前に立った。ネペイア・アトミスの街並が映っている箇所に触れる。ルテルはジェンドの手の甲に立ち、鏡面上の地図を撫でた。小さな手の動きに合わせ、明滅する光の場所が移動する。次いで水晶を打つ音がして、水脈門全体を大量の水が覆った。キクノが目を丸くした。
「驚いた。あなたの使い魔、こんなことができるの」
「ルテルだけの力じゃない」
ジェンドは胸元から御守りを取り出し、中から黒柱石を出して見せた。力を使った余韻か、石はほんのりと温かい。
「故郷で採れたものだ。使い方はルテルが知っていた」
エザフォスが眉根を寄せ、石を観察する。
「黒いマタァか。初めて見る。まさか自然鉱石として存在するとは……しかし、蓄えられた力は確かなようだ。もしかしたら、この石の存在にグリオガは気付いていたのかもしれないな。だからジェンドに興味を持った」
「狡いじゃない。最初から色々持ってるなんて。使い魔も、マタァも」
「キクノ。止めておけ。望んで得たものじゃないんだ」
口を尖らせたキクノをエザフォスがたしなめる。ジェンドは御守りをしまった。キクノは、
「ところでジェンド、あなたその手、どうしたのよ。ひどい傷よ」
「楔なんだと」
エザフォスが肩をすくめる。「ちょっと見せてみなさい」とキクノはジェンドの腕を触り、傷の程度を確かめる。ジェンドはやんわりと彼女の手を解(ほど)いた。
「キクノ。ここからどうすればいい」
「あとは簡単。この鏡を潜って先に進むだけ。そうすればラプティス区――グリオガ様の居所がある地域よ。座標も正確だし、問題はないわ。ただ、警戒はして」
「なぜ?」
「上級区ほど、水脈門を通ってくる人間に対する目が厳しいの。運び屋でもない限り、基本的に門を利用して上級区に入るのは下級区の人間だから」
「いきなり襲われる可能性があるのか」
「そんなことしても向こうに利はないけれど……下手な人間に見つかれば追い返されるかもしれないわね」
「そうか」
エザフォスが怪訝そうな顔をする。
「どうしたジェンド」
「なにが」
「頬が緩んでいる」
ジェンドは自分の頬を触った。確かに口端が吊り上がっていた。自分の中のもう一人の自分が、少しずつ大きく、強くなっていると感じた。
仲間たちの視線が集まっている。ジェンドは顔を振り、何でもない、と応えた。
「ま、ここで立ち止まっていても仕方ないわ。さっさと行きましょう」
キクノが先んじて水脈門に触れる。水を湛え美しく反射する鏡面は、わずかな波紋を立ててキクノを受け入れる。ジェンドも続いた。水はほどよく冷たく、鏡の感触は皆無で、まるで濃い朝霧の中を進むようだった。
真っ白な視界の中を三歩進むと、すぐに水脈門を抜けた。霧が一気に晴れる。リリエグ区より一回り広い敷地の建物がゆったりとした間隔で並んでいた。大きな水脈門が家々に溶けこんでいた。
大きさを揃えた石畳の上に立つ。すると、前方から二騎の翼竜が高速で迫ってきた。彼らは風切り音を残し、後方へと飛び去っていく。巻き上げられた風が目を打った。
キクノは真新しい地図――グリオガと話をしたときに貰ったものらしい――を取り出し、少し緊張した声で言った。
「ラプティス区の中央部、小高い丘の上にグリオガ様の館があるそうよ」
「もしかしてお前、彼の館に行くのは初めてなのか」
エザフォスが尋ねる。キクノはばつが悪そうにうなずいた。
幅広の石畳から細い路地へと折れ曲がる。「あれ……」と、キクノがらしくない呆けた声を出した。
辺りの景色が一変していた。民家が消失し、代わりにすり鉢状の舞台になっていた。ジェンドたちはいつの間にか、すり鉢の底――舞台の中央に立っていた。
「これは、誰の紋章術だ」
エザフォスがつぶやく。その声に反応して、観客席から甲冑に身を包んだ人々が立ち上がった。その数、およそ三十人。舞台の全方位を囲んでいる。
正面に立つ甲冑人がおもむろに掲げた赤い石を見て、キクノは慌てた。
「マタァ……ということは、階級戦!? 待って。違うわ。私たちはただ人に会いに来ただけ。階級戦をするつもりはないの」
「この娘の言うとおりだ。祭壇師と話をさせてくれ。俺たちを戦いに巻き込んでも、何も得られないんだぞ」
エザフォスも加勢するが、甲冑人は誰一人答えず、小揺るぎもしなかった。十倍の人数が本気で戦いを仕掛けようとしていると悟り、キクノとエザフォスは顔色を失う。
ジェンドは辺りを見回した。相手は全員面当てを下ろしており、顔形はおろか性別すら判別できない。無骨な甲冑以外は武装しておらず、地形的に有利な位置から紋章術で一方的に蹂躙する腹づもりなのだと思われた。
不意に――とてもよい、とジェンドは思った。何が、どう、『よい』のかはわからなかった。ただ、とても気分が高揚した。
「俺はジェンド。あんたたちは俺の『敵』か」
突然、ジェンドが挑発を始めたのでキクノたちは目を剥いた。
「『敵』ならば、戦おう。あんたたちを『敵』と定めよう」
宣言する。ルテルの身体から橙色の靄が溢れ、ジェンドの右手に集束する。液体化した火薬のように花弁の光を散らす。激しく瞬く拳を甲冑人に突きつけた。
「俺はここだ。あんたたちは俺の敵、あんたたちは俺を敵としろ。来い」
「待ちなさい、ジェンド」
キクノの制止と同時に、正面の甲冑人が観客席から飛び降りた。ジェンドに向かって突進してくる。鉄靴が石の舞台を
――奴らに、拳に宿した術を叩き付ける。ぶつけ合う。力を蓄えるとは、そういうことだろう。なあ。そうだろう。
心の中でバンデスに対して問いかける。応えを待たず、迫り来る甲冑人に向かって右拳を振り上げる。腕っ節が強い鉱山男に混ざって働く中で、殴り合いの喧嘩は幾度も見てきた。故郷と同じ、自分にもできる。ならば何を恐れることがあるだろう。
あと五歩。その距離で、甲冑人の胴体が変形した。鉄の板が軋みを上げ、赤々とした蛇の口蓋となる。それを目の当たりにしても恐怖は感じない。自分が化け物となり、失意のまま誓いを反故にすることと比べれば、何ほどでもない――ジェンドは心からそう確信した。
鉄蛇の牙とジェンドの拳が交錯する。
手応えはなかった。
予想とは反対の感触――人の身体の柔らかさを額に感じる。山鳩色の外套を着た男に、ジェンドはいつの間にか身を預けていた。瞬きをする。すり鉢状の舞台も、甲冑人たちも、鉄蛇も、跡形もなく消え去っていた。広い敷地の家々が立ち並ぶ路地の一画に立っていた。
「ずいぶんと好戦的になった」
外套の男が言った。くたびれた布地からはカーポの匂いがした。男の顔を見上げ、驚く。
「あんた。グリオガ・ディナ」
「ようこそ諸君。我が居住区へ」
表情をほとんど変えず、剃髪の祭壇師は歓迎の言葉を口にした。
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