第6話 崩壊を経て

 ネペイア・アトミスは、中心部に神殿を置き、そこから同心円状に四つの特別区、二十四の区に分けられている。中央に行くほど位階と敷居が上がり、特に神殿には限られた人間しか出入りできない。

 ジェンドが降り立ったのは、ネペイア・アトミスの外縁にあるリリエグ区南東部であった。ここに暮らす湧士の位階は低く――ほぼ最底辺と言って良かった――彼らの暮らしぶりは『運び屋』と揶揄される『民』とそう変わらない。大量のマタァを得る手段がなく、区を出るだけの資力も能力もない彼らは、『民』でもない、『騎士』でもない中途半端な存在として鬱積した感情を抱えていた。一方で、その中途半端さをむしろ誇りとし、階級に縛られない自由な考え方を持つ連中も数多くいた。

 ジェンドを見る住人の目には、『余所者』という刺激をもたらしてくれたことへの気怠い感謝の色があった。威圧はないが、居心地はよくない。

 グリオガの館は、ここから北西方向に四つの区を越えた先にある。翼竜でも三時間はかかる距離だ。ネペイア・アトミスの大地は巨大であった。

 だが、ここまでの飛行で疲労が溜まっていたピオテースは、騎士たちに連れられて拠点へと帰ってしまった。エザフォスの乗騎も一緒に飛び去ってしまったので、今、ジェンドたちの元に翼竜はいない。

「徒歩で向かう」

 エザフォスが渋面で言う。

「翼竜で街の中心部を飛ぶと目立つんだ。言いがかりで争いに巻き込まれては堪らない」

「竜に乗っている者は平均以上のマタァ持ちと見られるのよ」

 キクノが言い添える。ジェンドは首を傾げた。

「けれど、騎士は皆竜に乗っている。民も」

「騎士は竜を育てることも仕事。湧士たちはそれをマタァで買う。そうして得られたマタァは騎士全体の運営維持に当てられているわ。民は塔の生産物を運搬することと引き替えに、竜を得ているの」

「ジェンドは知らないだろうが、キクノは昔、かなり筋のよい『竜使い』だったんだ。それが今じゃ騎士を辞めて、湧士の真似事なんぞをやっている。まったく勿体ない」

「勿体ない? 私に言わせれば今の身分に甘んじている方が勿体ないです。筆頭」

 エザフォスは嘆息しつつ頭を掻く。

「まだ騎士の境遇に納得がいかないか」

「ええ。私はそのために隊を出たのですから」

 唇に力が入る。

「いつか騎士に光を。その思いは小揺るぎもしません」

「……やはりお前も騎士向きの性格をしているよ」

 渋い顔付きから破顔するエザフォス。

「お前とジェンドが組めば、案外よい取り合わせになるかもなあ」

 二人は互いに顔を見合わせた。ジェンドは意味がわからず控え目に肩をすくめ、キクノは「また冗談を」と言いつつも表情を緩めた。

 ルテルが尋ねる。

『徒歩では丸一日以上かかってしまうのでは』

「さすがにずっと歩きっぱなしではないわ。『水脈門アゲリア』を使うから」

『水門脈、ですか』

「知らないの? ジェンドはともかく、使い魔であるあなたは知識として知っているかと思ったけれど」

『私はスティマスと一体です』

「ジェンドが知らないことはあなたも知らない、か」

 ルテルの愛らしい顔をじっと見つめる。「まあ私も、使い魔について知っていることは少ないわね」とつぶやき、ジェンドに向き直る。

「水脈門について言葉で説明してもいいけれど、実際に体験した方が早いわ。ついでにここの案内をしてあげる」

 キクノがジェンドの手を引く。『親切な方です。兄妹は似るものですね』とルテルは言った。

 リリエグ区は人口密集地らしい。二階や三階の窓から迫り出す洗濯物の下、行き交う人々の間を縫って進む。人の息づかいと覆い被さるような圧迫感は、どこか坑道の雰囲気と似ていて、ジェンドは懐かしい気持ちになる。

 エナトスでは、坑道は鉱石生きる糧へと繋がっていた。ネペイア・アトミスではどうなのだろう。

 やがて、両側に三階建ての家々が一直線に並ぶ狭い路地に出た。一階部分には壁がなく、代わりに並べられた品物の数々がなかば路地に溢れている。ジェンドは目を瞬かせた。食材らしきものは匂いと陳列のされ方で見分けがついた。だがそれ以外の、四角いものとか、丸くて細長いものとか、軒下からたくさん垂れ下がっている紐などは、何に使うのか、何のためにそこに置いてあるのか理解ができなかった。

 ジェンドは物を売り買いする店を知らなかった。物々交換と互いの厚意で成り立っていたエナトスでは、商品を陳列して商売をする必要がなかったのである。

 キクノに袖を引かれて振り返ると、掌を出すように促された。言われたとおりにすると、掌の上に小指ほどの小さな灰結晶マタァが転がり落ちた。

「いい機会だから、買い物してきなさい」

 二軒先の店を指差す。

 鉄網の上で二十センほどの『枝』が熱せられていた。わずかな焦げ色の上に薄赤い水分が浮かび、香ばしい匂いが立ち上っている。

 ジェンドは鉄網の下で燃えるものを見て、「熱石だ」と声を上げた。キクノが「知ってるのね」と言った。

「確かあなたは鉱山出身だったわね。それは外の世界から騎士が持ち帰ったものよ。もしかしたら、あなたの町のものかもね」

 ジェンドは橙色の輝きを見つめた。

「ちょうどいいわ。カーポならこの辺りでも普通に食べられてるものだし」

「あの枝は食べ物……?」

「ほら、自分で買ってごらんなさい。何事も経験よ」

 言われて店先に立つ。鉄網の傍らに座っている店主を前にして、ジェンドはルテルと顔を見合わせた。それから至極真面目な表情で、鉄網を指差した。店主が無反応だったので、今度は両手を勢いよく広げ、それから焼かれているモノを示し、自分の口を触り、それでも店主が動かないので、今度はどんな身振りをすれば良いのだろうと使い魔ともども腕組みをして――恩人の妹の笑声を聞いた。

「……笑うことないだろ」

「ごめんなさい。でもおかしくって。ジェンドは本当に買い物をしたことがないんだね。これも文化の違いかな」

「スピアースにも言われた」

「そっか。買い物はね、こうするの」

 キクノは水色の札――階級証を取り出し、店主と一言、二言やり取りを交わした。それから階級証をくいとねじる。厚紙にしか見えなかった階級証からマタァの欠片が落ちてきて、キクノの掌に収まった。全身を山鳩色の外套で包んだ店主は、慣れた手つきでカーポ焼いた枝を串に刺し、マタァと引き替えにキクノに手渡した。

『階級証はマタァの容れ物も兼ねているのですね』

 ルテルが言う。ジェンドはキクノに倣い――不慣れと口下手が災いしてひどく聞き取りづらい声になってしまったが――注文をした。店主はずっと俯きがちで返事もろくにしてくれなかったが、そういうものなのだろうとジェンドは気にせず、カーポを受け取った。

「愛想のない店だったわね」

 キクノが不満気に言ったので、ジェンドは使い魔と顔を見合わせた。

 並んでカーポを食べる。非常に美味かった。植物なのだろうが、獣肉のように弾力があり、十分な水分があって、甘い。スピアースからもらったミツを思い出した。

 ルテルがじっとこちらを見つめてくるので、切れ端を冷まして渡してやる。小さな手を汚しながら、使い魔は一心不乱に食べた。ここのところ、ずいぶんと表情や仕草が豊かになった気がする。

「改めて見ても、珍しい使い魔殿だな」

 エザフォスが言うと、キクノも目を輝かせてルテルを覗き込む。

「翼以外は人間そっくりね。本当に綺麗な娘。黒髪がさらさら。どこで見つけたの? 儀式は? 私の周りには使い魔持ちはいなかったから、興味があるの」

「ルテルは、ある人に創ってもらったんだ」

 へえ、と二人は声を揃えた。

「そんなことができる人間が外界にもいるのね」

「俺も初耳だ。てっきり土着の精霊が君に力を貸しているのだと思っていたよ。なるほど、いきなり高等な紋章術を行使できたのも、そこに理由があるのだろうな」

 創ったのは故郷の『神』だけどな――ジェンドは思ったが口には出さず、左手の火傷痕を見た。ルテルはカーポを食べ終えて満足そうに息を吐いていた。

「ジェンドの故郷には、他に精霊はいなかったの? 鉱山の精霊って、みんなこんなにちっちゃくて可愛いのかしら」

「山の神はいたけど、精霊とかはいなかった。そう言うキクノたちの故郷はどうだったんだ」

「私も筆頭も下街――ここからだと地下にある騎士の街の出身。精霊を見るのは本当に稀ね。こう、ふわふわと浮かぶ小さな球の姿なの。けど人間と同じ姿形の精霊となると、上街でも教会とか、特別区とか、そういうところにしかいないんじゃないかな。その中から使い魔になってくれるのはさらに限られる。だから使い魔持ちは選ばれた者か、とんでもないマタァを積んだ人ってことになってる。ジェンドは前者なのかしらね」

「……困った。あまり注目されたくない」

「つまんないこと考えるのね。いいじゃない。堂々としてれば。それにルテルはちっちゃい子なんだから、いざとなればいくらでも隠せるでしょ。正直、羨ましいわね。ちっちゃいだけでなくて力も強いんだから」

『先ほどからちっちゃいちっちゃいと連呼されているのですが、私は喜んだ方がよいのですか』

「あはは。私はルテルみたいな子がいたら楽しいけどね。今は生活が苦しいから、使い魔を持つなんて夢のまた夢だけど」

「そういえば、キクノは普段どうやって暮らしてるんだ。住まいは。仕事は」

『スティマスの今後のため、ぜひご教授ください』

「主従揃って真面目ね。いいわよ、教えてあげる。今の私はリリエグ区に住んでるわ。私は湧士として下位の下位だから、部屋を確保するのも一苦労だった。きっとあなたも最初はそうだと思う。普段は上階級者の雑務を請け負って日々のマタァを稼ぎながら、週に一、二度大きめの階級戦に出て腕を磨いてる。近いうちに階級を上げて、もっとまっとうな戦をしている地区に移るつもりよ。今はそのための下準備を――」

 そこでキクノは眉をひそめた。

「なんですか筆頭。にやにやして」

「いや。お前もジェンドも、よく喋るなと思って」

 エザフォスはジェンドの肩に腕を回した。

「キクノはああ見えて口数が少ない奴なんだ。これほどぺらぺらと世間話をする姿は貴重だぞ。俺はいいものを見た」

「何を言ってるのですか。何を」

 キクノは筆頭騎士を睨む。それから少しだけジェンドと距離を取った。

「私、先に行って門の調整をしています。くれぐれもジェンドに変なことを話さないように」

「ああ、行ってこい行ってこい」

 訝しげな一瞥を残し、キクノは路地の奥に駆けて行った。ルテルが小首を傾げる。

『良いのですか。彼女をひとりで行かせて。ここでは階級戦があるのでは』

「照れ隠しさせてやれ。それにキクノであれば、万一襲われても切り抜けられるさ」

 エザフォスは余裕だった。

「落ち着きを取り戻せたのは、お前と出会ったからだな。感謝するぜジェンド。キクノは下街を飛び出したが、俺たちの仲間なのは変わりない」

「俺は何もしていない」

「そうか。まあ、そういう実直さがあいつの緊張を解したんだろうな。上街じゃあ、きっと殺伐とした暮らしを送っているはずだから。心配してるんだよ。これでも」

 ジェンドとエザフォスはしばらくその場で待機した。

 五分ほど経ったとき、ジェンドは身体の違和感に気付いた。『スティマス』とルテルが耳打ちする。エザフォスは民家の壁に寄りかかって、キクノが走って行った路地の方を向いている。彼に悟られないよう、ジェンドはそっと穿衣はくいの裾をめくった。

 くるぶしの内側の肉が半ば溶けて、衣服の裏に張り付いていた。爪先の感覚はすでにない。

 服で隠すと同時にエザフォスが振り返った。

「どうした」

「……悪い。先に行っててくれ」

「何を言ってる。俺たちが先に行ったら、どうやってお前はグリオガのところまで行くんだ」

「すぐ戻るから」

 そう言って別の路地に飛び込む。慌てたエザフォスを背に、身を隠せる場所を探して駆けた。右足首からは湿った音が聞こえてきた。

 見つかれば騒ぎになる。仲間に迷惑をかけるわけにはいかない。誰にも見つからないよう、身体を元に戻さなければ。

 路地奥は濃い陰に覆われていた。わずかな差し込み光の下に塵溜めの空間を見つけ、ジェンドは身を隠した。強い臭気が鼻を突く。

「ルテル」

 忠実な使い魔は主の願いに素直に従う。しかし、事態は沈静化できなかった。

『スティマス、駄目です。抑え込むだけでは間に合いません。外から力を得なければ』

「だが、紋章術を使う相手なんてここに――は――」

 声が突然出せなくなり、喉を押さえる。嫌悪感を催す湿った音が耳のすぐ近くから聞こえる。左手で顔を触ると頬の肉が崩れた。

 崩壊が全身で進んでいるのだ。

 腕が文字通り泡立ち、血管が色を失い、恐ろしいほど白くなっていく。自分が人でなくなっていく。これはまるで――

 悲鳴が聞こえた。まだ動かせる目で声のした方を見ると、武装した男女が驚愕の表情でジェンドを指差していた。

「ラヴァだ。ラヴァがいるぞ」

「嘘。どうしてこんなところに」

 ラヴァ――半固形の生命体の恐ろしさは、この目で二度見ている。今の自分はもう人として認識されていないのだと打ちのめされ、ジェンドは言葉を失った。冷たい空虚が心を侵食する。笑えてきた。バンデスからあれほど警告されていたのに、暢気に連れ合いと食事して時間を無為にした挙げ句、塵溜めの中で化け物と言われ、故郷を取り戻す誓いまで無駄にしようとしている。

 塵の陰にいたルテルは、主の絶望に引きずられるように、膝を抱えてうずくまる。

 一方、武装した男女は、一向に動かない相手に顔を見合わせた。

「……襲ってこない? 弱っているのかしら」

 女が一歩近づいた。

「見て。服があるわ。もしかしたら騎士のものかも。討伐し損ねたヤツがここまで逃げ込んだのかしら」

「そうだとしたら、これは好機だぜ。俺たちでこいつを倒そう」

 男が緊張と喜色を浮かべて言った。

「そして衣服とこいつの肉の一部を下街へ持って行く。ラヴァを狩るべき奴らがラヴァを持ち込んだとなれば大事件だ。このことを騎士たちに伝えれば」

「なるほど。教会に持って行くより高く付きそうね」

「マタァは期待できないだろうが、上手くすれば翼竜の一匹でも手に入るかもしれない。そうすれば俺たちは一気に上級区だ」

 二人がこちらを向く。彼らの目には恐怖の代わりに高揚感が強く表れ揺れていた。

 ――顔の筋肉が生きていたならば、ジェンドは口元を引き上げていただろう。

 ルテルが塵溜めから立ち上がる。氷室の扉を開けたときのように、白群びゃくぐん色の靄が静かに滲み出る。男と女はまだ気付かない。

「ラヴァは紋章術に弱い。この様子なら一方的に叩き込んで終わるはずだ」

「水、補充しておいて大正解だったわね」

 腰袋から小型の容器を取り出し、勢いよく蓋を外す。

「本当、今日の私たちは運がいい」

 水が紋章術を発現させる。

 ルテルの瞳が強い光を放った。


「おお、居た! ジェンド」

 エザフォスに声をかけられ、ジェンドは服の裾を整える手を止めた。肩にはルテルが収まっている。

 エザフォスは「何でこんなところに」と言いかけ、壁を背に座り込んだまま気を失っている二人の男女に眉をひそめた。

「彼らは?」

「俺にとっての恩人」

「……お前でも冗談を言うのか? とてもそうは見えないぞ」

「彼らのおかげで助かったのは本当だ。紋章術で人を癒せることも、『敵意』がどういうものかもわかった。戦うことで得るものも、理解した」

 爪先で地面を叩く。

「ここは……欲深いところだな」

「突然いなくなったと思えば、まさかお前、ひとりで階級戦を」

「階級戦じゃない。けど、必要なことだった」

 エザフォスはジェンドの顔をじっと見据えた。それから口元に拳を当て、何かを思案していた。頭を掻き、深く息を吐いた。

「……とにかく、何かあったら都度相談しろ。いいな」

「すまない。大丈夫。もう間違わないから。大丈夫だ」

 そう言って歩き出す。

『戦いましょう。スティマス』

 ルテル自分の内心の声にジェンドはうなずいた。

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