第12話 生き返しのマタァ

 ――久しぶりに白昼夢を見た。

 一面、白の光景である。形あるものは何も見えず、自分の存在さえも白の中に消えてしまいそうな覚束なさがあった。

 そこへ、小さな朱色の点が生まれる。朱点は尾を引きながら白の世界に線を描いていく。やがて建物や人の輪郭を作った。エナトス。すべてを失ったあの日、鉱山から見下ろした故郷の姿だ。

 輪郭だけの人々はジェンドに向かって手を振り、おじぎをする。彼らがどんな表情をしているのか、わからない。切なくなった。涙腺が緩んだ。自らの前髪を掴み、瞼を強く閉じ、喉の奥から湧き上がってくる呻きを抑え込む。

 不完全な世界だ。決意して、戦って、そして得たものが、もしこのような世界であったなら、俺は狂ってしまう。

 なぜ今、このような夢を見てしまうのだろう。

 自分のしていることは無駄だということなのだろうか。

 左腕が熱を持った。慰められているようにも、叱咤されているようにも感じた。

 まだ――諦めるな。俺は為していない。

 手の甲で目元を拭う。涙の粒を弾き飛ばして目を開けると、朱色の輪郭は全て消え去った。

 白一面の世界の奥から蒼い空が――現実の世界が――近づいてきた。

『スティマス』

 ジェンドは瞬きして、白昼夢から醒めた。鼻先数センにルテルが浮遊していた。彼女は眉を下げ、瞳を潤ませ、肩を緊張させていた。ああ、こんな表情もできるようになったんだなと思いながら、ジェンドは指先で使い魔の少女の頭を撫でた。

 ジェンドは、剥き出しの岩場に胡座あぐらを組んで座っていた。腿の上ではキクノが頭を乗せ、横になっていた。長い睫を力なく閉じている。かすかに寝息が聞こえた。汗は浮いているが、血色に問題はなさそうであった。刃物が刺さったはずの脇腹には、血の痕も傷もない。

 幻影舞台は消えたのだ。

「戻ってきた……人のまま、戻ってこられた」

 吐息混じりにつぶやいた。

 単調でゆったりとした拍手が聞こえた。エニドゥ、サラスィアの両使い魔を従え、グリオガがこちらに歩いてくる。

「よいものを見せて貰った」

 グリオガはうっすらと笑みらしきものを浮かべている。この稀代の祭壇師の表情には、人に寒気や畏怖を覚えさせずにはいられない力があった。

 手が差し出される。細く硬質な指が微動もせず、ジェンドからの握手を待った。

「まずは健闘を称えよう。そなたは無事、生き残った。私としても満足のいく戦いであった」

「……どうも」

「ラヴァの召喚があれば、目的達成も目の前であるな」

「あの手しか思いつかなかった」

 口にしてしまってから、心の底では納得していない自分に気付いた。と。

 ジェンドはグリオガの手を軽く握った。そのとき、蛇のように広がっていた前腕の痣が小さくなっていることに気付いた。

「……湧士連中は。姿が見えない」

「別の場所に移動させた。しばらくは身動きできない。付け加えるなら、彼らの階級は戦闘前の状態に戻した」

「俺と戦ったせいか」

 思わず漏らした声にグリオガが反応した。

「そのような良心の呵責もどきなどすぐに忘れるべきだ。そなたは彼女から感じ取ったはずである。そなたに何が足りないか。目的を為すためにどうあるべきか」

 眠っているキクノを見る。自信に満ちた瞳で叱咤する姿が脳裏を過ぎった。

「ところで、バンデス様はどうされた」

 グリオガが尋ねると、火傷痕にバンデスの顔が浮き上がった。祭壇師は胸に手を当てて一礼した。錫杖が鳴る。主に倣い、双子の使い魔も膝を突く。

 硝子片を踏みつぶすような異音がした。顔を強ばらせたジェンドに対し、グリオガは礼を解いて悠然と言う。

「本題に移る。上を見るのだ」

 指差す先に巨大なマタァが浮かんでいた。青空を透かし見るほど鮮やかに澄む結晶に、ひび割れが刻まれていく。やがてひび割れは結晶全体に行き渡り、表面が白く変色する。すると、ぼんやりとであるが、マタァの内部に何かの陰が現れた。

 エニドゥとサラスィアが空を飛び、巨大マタァを両側から支える。グリオガが合図を送ると、使い魔たちはマタァとともにゆっくりと降りてきた。巨大マタァは断続的に異音を発し続けている。ジェンドの背丈ほどある、美しい六角柱のマタァだ。

「問おう。そなたはこのマタァを認め、受け入れるか」

 どこかで聞いたことのある文言を、グリオガは――どういうわけか自嘲を込めた口調で――言った。

「とはいえ、これはすでにそなたのものであり、そなたの希望を容れた箱である。私がこの鍵を開けよう」

 祭壇師が錫杖を掲げる。硬い岩の地表に陽炎が立ち、次いで藍鉄色の水泡がマタァの周囲に現れた。

『ジェンドよ。よく見ておけ』

 バンデスが話しかけてきた。

『我々の為すべきことの一端だ』

 ジェンドは瞠目した。沸騰する地表の上で、巨大マタァが溶け出したのだ。地面に触れている場所から形を崩し、液体となった結晶は、不思議と流れ広がらず、まるで水中に落とし込んだ油滴のように、球となって宙に浮かぶ。マタァ全てが液体に変わると、半透明の球が陽光を反射し、幻想的な光景を創り出した。

 地面の沸騰が収まると、マタァが再び変化し始めた。それはやがて、人の形を取っていく。

「あの朱色のマタァには、スピアースの肉体が閉じ込めてある」

 グリオガが背中越しに語る。

「一度死んでしまった人間は、魂が希薄になる。そこで紋章術を用いて圧をかけ、凝縮する。すると、魂はかつての純度を取り戻していく」

 錫杖をひとつ鳴らす。ジェンドは、祭壇師が何を伝えようとしているかを悟った。

「まさか。これが生き返しの――」

「さよう。人間は水から生まれ、結晶に眠る。人の手に紋章術があるのは、その根幹に人間の生死――すなわち水が宿るからである。もっとも……」

 言いかけ、グリオガはかがみ込んだ。激しく咳き込む。胃液か何かを吐き出しているのが、音でわかった。エニドゥとサラスィアが駆け寄ってきて、主を支える。

 故郷の神はグリオガの言葉を継いだ。

『もっとも、この紋章術を発動させるためには、人を超えた存在になる必要がある。神の助けもなしに無茶をする男だ。グリオガ・ディナ』

「なんの。申し上げたでしょう。血が滾ると」

『その様子。やはり、初めてではなかったか』

「ええ。久しぶりに昔を思い出しました」

 わずかに肩を落とす祭壇師。ジェンドは眉をひそめた。

 昔を思い出すとは、どういうことだ。初めてではないって――

「まさか。グリオガ……あんたも」

「もうずいぶんと時が経ったが、私が成し得るのはいまだここまでだ。そなたとは違う。この見渡す限りの荒野が証である」

 口元を拭いながら、グリオガが振り返る。

「そなたは成し遂げよ。私も力を貸そう」

 ――合点がいった。

 人を生き返すほどの強い力を持つためには、人を超えた存在と結びつく必要があるのだ。このネペイア・アトミスにも神がいるのだ。グリオガに力を貸した――かつて貸していた――神が。

 小さく声がした。膝上で眠っていたキクノが目を覚ましたのだ。しばらくぼんやりとジェンドを見つめたあと、自分の体勢に気付いて飛び起きる。直後、彼女は目眩を起こしてもたれかかった。

「無理するな。ありがとう」

「相変わらず言葉数が少ないわね……」

 キクノは口元を緩めた。肩に寄りかかったまま、「どうなったの」と尋ねてくる。ジェンドはマタァを指差した。

「スピアースが、生き返る」

「何ですって。……ああ!」

 マタァは肉の凹凸を現し始めていた。表面に血色が広がっていく。指先、足先、そして髪の先と形成されたところで、傍らのサラスィアが赤い布を巻き付けた。

 歯を食いしばってキクノが立ち上がる。ジェンドは彼女を支え、スピアースの前まで進み出た。翼もなく宙に浮いているスピアースの身体を、キクノはじっと見つめた。こみ上げる感情を堪えているようだった。彼女の瞳は喜びと戸惑いで揺れていた。ジェンドは気持ちが理解できた。実の兄が、マタァから創り上げられていく様を目の当たりにしているのだ。歓喜するには、常識から離れすぎている。

 これが、俺の為すべきことの一端……か。

 ――すべての行程が終了する。双子の使い魔が静かに傍らを離れる。宙に留め置かれていたスピアースが、前のめりに倒れてくる。ジェンドとキクノがしっかりと受け止める。人の重さを両腕に感じる。逞しく日に焼けた肌や、キクノとよく似た色の髪が目の前にある。

「……兄さん」

 壊れ物を扱うように、キクノが呼びかける。閉じた瞼は開かない。

「兄さん。兄さん」

「スピアース。大丈夫か」

 ジェンドと二人、呼びかけ続ける。やがて睫が震え、スピアースが目を覚ました。まずジェンドを、そしてキクノを見る。

「お前……たち。ここは……私は……」

「ああ、兄さん!」

 キクノが万感の思いを込めて抱きついた。ジェンドは黙って、兄妹二人分の体重を受け止め、支えた。

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