第3話 もっと、怒って良い、はずだ

 数日後――

 ジェンドは翼竜の背に乗り、ロフォス・エザフォスの騎士たちとともに大空を飛んでいた。騎士には一人一人に翼竜がつけられており、任務のときは常に行動を共にするという。ジェンドはスピアースが駆る翼竜ピオテースに同乗していた。

「どうだジェンド。竜で空を駆ける感想は」

「初めてだから……戸惑ってる。けど、すごいと思う」

「そうか。前に一緒に飛んだときは、君は眠っていたからな。空を飛ぶのは良いものだろう」

 スピアースが言う。彼とジェンドの周囲には薄く靄がかかっていた。高速飛行時に押し寄せる風圧を緩和し、同乗者との会話をし易くする紋章術なのだそうだ。ルテルが術の靄を興味深そうに見つめている。

 眼下には樹海が広がっていた。ジェンドは後ろを振り返った。エナトスはすでに地平の先だった。

 ピオテースがか細い声で鳴いた。長い首をしならせてジェンドの顔を伺う。

「こいつ、君のことを心配している。人見知りする奴なのだが。よほど君のことが気に入ったのだろう」

 スピアースが笑う。ジェンドは翼竜の身体を軽く叩いて「ありがとう」と言った。

 仲間の翼竜が高く咆号ほうごうを上げた。ピオテースの前方を飛んでいた騎士が怒鳴る。

「避けろ、スピアース!」

 直後、衝撃が走る。スピアースの背に隠れ、ジェンドには何が起こったのかわからない。熱を持った灰色の靄が視界を覆う。ゆっくりと前傾していくスピアースの背中。力を失った騎士は、翼竜からずり落ちる。

 高度百メトル以上。下は樹海である。

 状況の把握と同時にジェンドの身体は動いていた。ピオテースの背を蹴り、落下する騎士目がけて空中に身体を踊らせる。彼の傍らにはルテルがぴたりと付く。

 スピアースの鎧の胸部が大きく破損していた。大声で名を叫んでも反応しない。薄目を開け虚空を見つめたまま彼は意識を失っている。

 必ず助ける。

 ジェンドの意志に呼応して、ルテルの身体が薄赤い靄に包まれる。

 落下地点に光の糸が走る。無数の光糸は絡み合い、巨大な網籠の形になる。ジェンドたちを受け止めた光の網籠は一本一本の光糸が衝撃を吸収しながら切れていき、落下の勢いを殺す。そして地面からわずか一メトルの位置でジェンドとスピアースの身体は止まった。

 スピアースはやや離れたところでうつぶせになっていた。彼の背中は呼吸で微かに上下している。ジェンドは溜まった息を吐いた。

「よかった……今度は守れた」

 ピオテースを先頭に、上空から仲間たちが急降下してくる。ジェンドは手を振った。

「みんな。スピアースを――」

「今すぐそこから離れろ、ジェンド! 『ラヴァ』だ!」

 身体が強ばった。仲間の切迫した声がアーダを――救えなかった故郷の人を思い出させた。

 騎士が指差す先を振り返る。『それ』はもう間近まで迫っていた。溶けた鉄のように赤黒く流動し、鉱泉のように沸き立つモノ。

 触れれば、どうなる。飲み込まれたら、また、エナトスの皆のように――

「やめろ。やめてくれ」

 スピアースを守ろうとして、もがく。自らが生み出した光の網籠が手足に絡まって動けない。

「やめろ。もう二度と、あんな思いは」

 数メトルの距離が遠い。

「目を覚ませスピアース。頼む、逃げてくれ!」

 ジェンドの叫びは樹海を走った。

 スピアースは覚醒することなく、ラヴァの体内に飲まれた。ラヴァから突き出た右腕がゆらゆらと揺れていたが、やがて胴体から切り離され、腐った果実のように地面に落下する。萎れて曲がり、枯れる寸前の花弁の形になった彼の五指をジェンドは見た。

 ピオテースが鋭く鳴く。呆然としたままのジェンドをすくい上げ、そのまま一気に上昇する。入れ違いにロフォス・エザフォスの騎士たちがラヴァに向かう。彼らは翼竜に据え付けた容器を一斉に開封すると、蓄えられた水を媒介にして紋章術を発動させる。無数に現れた青いやじりがラヴァに降り注ぐ。紋章術を受けるたびラヴァの身体は膨張していく。数分の猛攻でラヴァは形を維持できなくなり、弾けて消滅した。

 スピアースの身体もまた、溶け残った右腕を残し、消えていた。

 ジェンドはその現実から目が離せなかった。主の様子を使い魔の少女は無表情のままじっと見つめ、翼竜は心配そうに何度も振り返った。

 騎士たちはスピアースの腕を回収すると隊列を整えた。

 風の唸りがごうごうと耳に響いていた。スピアースを喪ったことにより、翼竜を覆っていた風除けの紋章術が消えてしまったのだ。息苦しそうに顔をしかめる主を見上げたルテルは、おもむろに手を掲げた。半透明の靄が翼竜を包み、風圧が和らぐ。

 ジェンドの隣を飛ぶ騎士が声をかけてきた。

「大丈夫か」

「……」

「お前は悪くない。むしろ、よくぞ守ろうとしてくれた」

 ジェンドは首を横に振るのが精一杯だった。

 沈鬱な空気を背負って飛行するロフォス・エザフォスの騎士たちに、再び緊張が走った。

 前方から別の翼竜が五騎、激しく動き回りながら近づいてきたのだ。

 ロフォス・エザフォスの前衛騎士が発煙筒を焚き、近づいてくる翼竜に合図を送った。だが、止まる気配がない。

「畜生、無視かよ。そんなに階級戦が大事か。こっちは仲間が一人死んだんだぞ。お前らのせいで!」

 隣を飛ぶ騎士が憎々しげに叫ぶ。

 五騎の翼竜とその騎乗者たちは、各々が無秩序に飛び回りながら紋章術を撃ち合っていた。光の線が交差し、ぶつかり、霧散する。

 彼らのせいで――スピアースは死んだ?

『なぜ、彼らは戦っているのですか』

 鈴を鳴らすような、空中を吹き抜けるような声の主は、ルテルだった。彼女は円らな瞳をひたと五騎の翼竜に向けていた。

「階級戦という名の遊戯をしているのさ」

 ジェンドの頭上で別の騎士が言う。

「ああやって紋章術ラヴァンをぶつけ合って、相手を倒して、マタァを独り占めする。そんな遊びだよ。スピアースは奴らが放った流れ弾に当たってしまったんだ」

「あそ、び……?」

「ネペイア・アトミスに着いたら嫌でもわかる。俺の口からそれ以上話したくない」

 騎士は階級戦を戦う翼竜たちに向かって飛んでいった。他の騎士たちも動く。

「ジェンド。お前はここにいろ。下手に動くとまた巻き込まれる。奴ら、あんな無茶な戦いをするなんてまともじゃない。得手じゃないが、俺たちは奴らを制止してくる。ピオテース、ジェンドを頼むぞ」

 隣にいた騎士が飛び去り、ジェンドの周りから仲間がいなくなった。

 ジェンドは俯いた。肩が震え、拳に力が入った。手の疼痛も気にならないほど次々と激情が湧いてきた。ジェンド自身、戸惑いを覚えるほどの怒りに囚われた。

 この数日、スピアースは本当に良くしてくれた。本当に気の良い、優しい、出来た男だった。新しい世界への旅立ちも、彼がいればとても心強いと思っていた。

 それを――

「遊び、だと」

 唇を噛んだ。鉄錆の味が口内に広がった。

 だがジェンドは怒りを抑え込もうとした。精神的な忍耐強さは、エナトスにいた頃からのジェンドの美徳であり悪癖だった。そのとき、心の中でもう一人の自分が囁いた。自分を表すことが必要だとバンデスが言っていただろう、と。スピアースの命を奪うきっかけは彼らが作ったのだから、と。何も考えず、ただ立ち尽くすだけだったエナトスでの過ちを繰り返すのか、と。

 ルテルの身体から橙色の靄が溢れる。

「俺は、もっと、怒っていい、はずだ」

 顔を上げる。

「俺は、お前たちに対して、怒っていい、はずだ!」

 叫んだ。靄が爆発的に膨れ上がる。異変に気付いた五騎の騎乗者たちが紋章術を放つ手を止め、ジェンドを指差す。「新しい獲物が現れた」――と彼らが不敵に笑ったようにジェンドには見えた。そして、それは正しかった。

 騎乗者たちは再び紋章術を発動させ、五騎全員がジェンド一人に向けて光の球体を放つ。ピオテースが鋭く鳴声なきごえを上げ、飛来する紋章術を急上昇してかわす。

 ジェンドは抑えつけていた怒りの蓋を外した。

 叫ぶ。声は空を駆け、樹海に降る。

 樹海の一画が半径数百メトルに渡って橙に染まる。そこだけ暴風が吹き荒れているかのように、枝葉が激しく揺れる。樹海のうねりは轟音となって下から突き上げてくる。橙色が一際濃くなった次の直後、光を纏った無数の葉が、五つの巨大な竜の顎となって五騎の翼竜を食らった。

 葉竜からこぼれ落ちた葉っぱがロフォス・エザフォスたちの頬を打ち、我に返らせる。全員が慌ててその場を離れるまで、五体の葉竜はじっとしていた。そして、彼らが安全な距離まで逃れたことを見届けると、一転、葉竜たちは頭部を振って暴れ始めた。騎士を口内に閉じ込め、咀嚼し、撹拌し、最後に大地が揺れるほど衝撃波を放って互いに激突し、霧散した。

 風に巻かれて舞う葉に混ざり、意識を失った騎士たちが落下していった。樹海に沈む直前、光の網が彼らを墜落死から救う。ジェンドは荒い息をつきながらその様子を見届けた。喉が渇き、頭が激しく痛んだ。全身に汗をかいているのに、手足は氷のように冷たくなっていた。耳鳴りの中、ジェンドはルテルの澄んだ声を聞いた。

『ラヴァの反応なし。全ての騎士の生存が確認されました。お疲れ様でした。我が主スティマス

 顔を向ける。半透明の羽を揺らし、ルテルは少しだけ眉を下げていた。ジェンドのことを不憫に想っているように見えた。初めての表情らしい表情であった。

 ジェンドは俯きがちに、首を横に振って応えた。痛む頭蓋の中で墜落する騎士たちの姿が蘇り、暗澹とした気分になった。

 しばらくして、ロフォス・エザフォスの騎士たちが戻ってきた。

「ジェンド」

 騎士が隣に並ぶ。彼は微笑んでいたが、視線を合わせてはくれなかった。他の仲間たちも一様に同じ表情を浮かべていた。控え目な称賛と、困惑である。

「さあ。早くここを離れよう。祭壇師ヴォースが現れれば厄介だ。あれだけ暴れ回っていたから、追いつくまでにはまだかかるはずだ。当事者がいなければ裁断もできないからな」

「……?」

「気にするな。俺たちが遊びに付き合う必要はないということさ」

「遊びとは失礼だぞ、ロフォス・エザフォスの諸君」

 どこからか聞こえた声に騎士たちが身を強ばらせる。

 ジェンドから十メトルほど離れた空間が揺らいだ。ピオテースより一回りは大きい体躯の翼竜と、剃髪で細目の鋭い男が現れる。男は左手に小振りの錫杖を持っていた。先端に付けられた輪は、全て漆黒の金属でできていた。

 騎士の一人が小さく舌打ちした。

「祭壇師グリオガ・ディナ……よりによってあんたが裁断してたのか」

「いかにも。階級戦中は姿を消しておくのが私のやり方。今回の一部始終は見せてもらった。見事である。下の彼らの傷は、私が癒しておこう」

 グリオガが錫杖を鳴らすと、翼竜に取り付けられた容器から一斉に水が噴き出す。にわかに薄い朱色の霧が辺りを覆う。再び錫杖を鳴らすと霧は凝縮して、人の胴体ほどの大きさの直方体になった。塊は陽光を受けて朱色に静かに輝いている。「これは大きい」と誰かがつぶやいた。

 グリオガの細い目がジェンドに向く。

「そなた。名は何という」

「……ジェンド」

「了解した。祭壇師グリオガ・ディナはジェンドを勝者と認め、南西第四空域での階級戦終了を宣言する。マタァは創られた。異存は一度のみ認められる。勝者の意思を問う。いかに」

 話の内容がつかめず、ジェンドは大いに戸惑った。騎士が割って入る。

「待ってくれ。彼は保護された地上の民で、階級とは無縁だ。意思を問うなんておかしい。そもそもあんな乱闘紛いの階級戦を、稀代の祭壇師と称されるグリオガ・ディナが認めるのか。なぜ最初から止めなかったんだ。あんたならその権限があったはずだろう」

「階級戦は正しい手順でなされた。推移とともに戦場が移動するのはさして珍しいことではない」

 騎士は顔色を変えた。

「なら、あんたの名声は単なる張りぼてだったということか。ふざけるなよ、あんたも。こっちは大事な仲間が一人死んでるんだ。そんな説明で納得できるわけないだろうが」

「階級戦が有効かどうか。勝者は誰か。マタァはどの程度か。すべて祭壇師が決める。これ以上、どのような説明が必要か。私には諸君らが動揺した精神を静めるために私の言葉を求めているようにしか思えない」

 騎士は唇を噛み、「だから階級戦も祭壇師も嫌いなんだ」と吐き捨てた。

 グリオガが再びジェンドを向き、朱色の結晶を差し出した。

「問おう。そなたはこのマタァを認め、受け入れるか」

「受け取るなジェンド。受け取れば奴らと一緒だ。お前には階級戦に狂うような奴になって欲しくない。スピアースもそう願うはずだ」

 仲間の視線がジェンドに集中する。現実と、それに翻弄された己自身に対する憤り、不甲斐なさが彼らから感じられた。ジェンドも同じ気持ちだった。だが言葉には出せなかった。巨大葉竜を喚び出した反動が身体を蝕み、喉が、痛いほど干上がっていたのだ。

 スピアース。彼は何も悪くない。マタァなどいらないから、代わりに彼を――

 ルテルがジェンドの頬に寄り添う。しばらく目をつむっていた少女は、ゆっくりとグリオガの元に飛んで行った。祭壇師の目がほんの少しだけ開かれる。ルテルは静かに告げる。

我が主スティマスは認めません。マタァを受け取りません。代わりにスピアースを元に戻して下さい』

「ほう。ラヴァに呑まれた者を生き返せと」

『はい』と、無表情のままうなずくルテル。

「それが可能だと思うのか」

 ルテルとグリオガの視線が交差する。十数秒間、無言が続いた。

「もういいだろう」とひとりが進み出る。隊の筆頭騎士エザフォスだった。

「祭壇師グリオガ。我々は先を急ぐのだ。仲間の弔いをしなければならない。我々の不満を汲み取ってくれたのなら、後はそちらの段取りで勝手にやってくれ。行くぞ、皆」

「待て」

 グリオガの翼竜が大きな翼で進路を塞ぐ。祭壇師はマタァの塊を翼竜の背に収めると、エザフォスに向かって手を差し出した。

「スピアース・マラクの遺体を預かろう。使い魔の希望通り、彼を生き返らせる」

 その場に居た全員が驚愕の目でグリオガを見た。

 エザフォスが怒りも露わに詰め寄る。

「我々を――いや、俺たちを愚弄するのも大概にしろ。生き返すだって? できもしないことを口にするな。こっちは理不尽な扱いに腹の底が煮えくりかえっている。今にも爆発しそうなんだ。これ以上俺たちを怒らせるようなら――」

「マタァがあれば、できる。皆が知らないだけだ」

 祭壇師は、絶句する騎士たちに問いかける。

「どうする。お前たちが自らの手で弔いたいと言うのなら強制しない。お互いに本来の使命を果たすとしよう」

 堂々とした態度だった。冗談や嘘を言っているようには見えない。少なくともジェンドはそう思った。

「できるのなら」

 ジェンドはしわがれた声を絞り出した。干上がった喉はまだ痛んだ。

「元に戻せることを見せてくれ」

「わかった。では遺体を」

 まったく声音を変えないグリオガ。エザフォスは「待ってくれ」と応えた。

「いきなりそう言われて、はいそうですかと渡せない」

「それではしかるべき相談を済ませ、生き返す結論が出たのなら私の所へ持ってくるのだ。それまでスピアースの遺体はお前たちが保管しておくとよいだろう」

 グリオガは言った。

 エザフォスは周囲の仲間と顔を見合わせ、不承不承、うなずいた。

 巨大翼竜が翼を一振りする。去り際、祭壇師はジェンドを振り返った。

「ただ――そなたの信用に応え、このマタァに相応しい成果を出すことは、今この場で約束しよう。そなたが『求めているもの』についても非常に興味がある。ネペイア・アトミスに到着したならば私のもとを訪ねるとよい」

 グリオガは飛び去った。

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