第2話 神の示す道
目を覚ますと、天幕の中にいた。
ジェンドは固い寝台の上に寝かされていた。使い込まれた天幕の天井越しに、陽の光が透けて見えた。
すぐには身動きができなかった。吐き気とめまいがひどく、頭痛もした。
辛い記憶がこみ上げてくる。片手で目元を押さえ、歯を食いしばり、熱のこもった息を吐いた。
ひとしきり涙を流すと、今度は倦怠感と喉の渇きを覚えた。横になったまま辺りを見回す。寝台の傍らに丸い天板の側机があり、その上に御守りが置いてあった。
御守りの側に、何かがいる。
太股までかかる長い黒髪、細く滑らかな手足。卵形の輪郭にあどけない寝顔が収まっている。それだけ見れば十六、七の少女のようだが、身体は御守りよりも一回り大きい程度しかない。
微かに聞こえる寝息に合わせ、背中が上下している。生きているのだ。
ジェンドは神の遣いだと思った。少女の顔が、四年前に死んだはずの幼馴染みと瓜二つだったからだ。
吸い込まれるように手を伸ばす。
そのとき天幕の入口がめくられ、軽装の男がひとり入ってきた。
「目が覚めたか。どうだ、具合は」
人好きのする笑顔でジェンドを気遣う。鉱山の男たちと比べて身体の線は細かったが、逞しく日焼けしているのが印象的だった。
エナトス以外の住人と話をする機会が滅多になく緊張したままのジェンドを見て、男は頭を掻いた。
「覚えているかな。私が君を眠らせて、ここまで連れてきた。私はスピアース・マラク。第一二隊ロフォス・エザフォスの前衛騎士だ。君の名は?」
「ジェンド……」
「そうか。ジェンドか。良い名だ」
「ここは?」
「隊の野営地だ。君の集落からは竜で半日といったところだ。ああ、そのまま横になっていていい。喉が渇いていないか。『ミツ』を持ってこよう」
そう言ってスピアースは一度天幕を出た。寝台の傍らでは小さな少女が相変わらず寝息を立てている。
数分もしないうちにスピアースは戻ってきた。手に瓶を持っている。中には琥珀色の液体と白銀色の葉っぱが詰められていた。
「金ミツは私のとっておきでね。遠慮せずに食べるといい」
スピアースが白銀の葉を一枚取り出し、差し出してくる。金の液体が葉の表面に付着し、宝石のような輝きを放った。ジェンドは言われるまま、葉の端をかじった。数回噛むとあっという間に葉は液状になり、喉をするりと通っていく。まるで水を飲んだような爽やかさだった。
「その驚いた顔からして、ミツは初めてか。『外』の人間は皆ミツを珍しがる。まあ文化の違いだと思ってくれ。水分補給にはまったく問題ないから。どうだ。少しは落ち着いたか?」
「……ありがとう」
「礼はいい。むしろ、私たちの方が君に詫びなければならない」
そう言うと、スピアースはおもむろに姿勢を正し、深く頭を下げた。
「この事態を引き起こした者は、我々の同胞だった。私たちはそれを把握しながら、凶行を止めきれなかった。君と、君の仲間には本当に申し訳ないことをした」
「……」
「私たちを憎んでもらっても構わない。それだけのことをしたと思う。せめてもの償いに、君にはできる限りのことをする。これはロフォス(第十二隊)全員の想いだ。どうか受け入れて欲しい」
ジェンドはスピアースを見つめた。
「憎めば、いいのか?」
騎士の男は怪訝な顔をした。ジェンドはすがった。
「俺は……何をしたらいいのか、わからない。だからあんたが憎めと言うなら、憎む。それで、いいか?」
「ジェンド、君は――いや、わかった。言い直そう。君に今一番に為すべきは休息だ。ここでゆっくり休んでくれ。我々のこと、これからのこと、すべて君が元気を取り戻してからにしよう」
スピアースは微笑んだ。
「幸い、君には使い魔がいる。起き上がるのが難しいなら、この子を伝言に遣わしてくれてもいい。折りを見てまた様子を見に来る。とにかく横になって、身体と心の傷を癒すことだ。では、また」
誰もいなくなり、静かになった天幕の中で、ジェンドは両手を見た。掌に薄らと火傷の痕がある。手を握り締めると、微かに痺れる痛みが走った。
側机の小さな少女は目を覚ます気配がない。彼女のように深く――もう二度と目を覚ますことがないほど深く眠ることができたらどんなにいいだろうと思った。
『だが暢気に眠っている暇はないぞ。ジェンドよ』
ジェンドは辺りを見回した。天幕の中にいるのは眠る少女と自分だけだ。幻聴かと思った。
『違う。こちらだ。お前の左手よ』
しわがれた老人の声がはっきりと聞こえた。恐る恐る左手を開く。
火傷の跡が、いつの間にか人の顔の形になっていた。目鼻がなく、髭が豊かで、外套頭巾を深く被っている――エナトスに現れた白い老人そのものの顔つきに、息を呑む。
『落ち着け。儂はお前に危害を加える存在ではない」
老人はジェンドの内心を見透かし、たしなめる。老人の声が聞こえるたびに皮膚の内側で細長い虫が動いているような怖気を覚えたが、ジェンドは悲鳴を堪えた。
『お前は本当に従順な男だ。手の感触にはいずれ慣れる』
「あんたは、誰だ」
『儂はエナトス
憮然として言葉を失うジェンドを見ても、バンデスはたたみかけることはしなかった。ジェンドが落ち着きを取り戻し、問いかけの視線を向けてくるまでじっと待っていた。寡黙で不器用なジェンドの性格を老人は熟知していた。
「今……何て」
『もう一度言おう。エナトスは元に戻せる』
「……元に……?」
『エナトスは、元に戻せる。復活する。建物も、鉱山も、川も、お前が好きだった人々も、すべてだ。だが、そのためにはお前が立ち上がらなければならないのだ。ジェンドよ』
「……」
『突然に失われた日常を、お前は取り戻したいか。ならば口にしろ。意志を吐け。儂にはお前の心の内がわかる。だが大切なのはお前がお前らしく勇気を奮い、決意することだ』
「……」
『儂はお前たちの隣人であった。無口なお前が身の内に忠義と勇気の熱を持っていることを儂は知っている。殻を破れ。そうすればお前に、道を示そう』
「……たい」
『もう一度だ』
「取り戻したい。俺の故郷を、愛している人たちを、平穏な日々を、取り戻したい」
そう口にした瞬間、背中が軽くなった。身体の中で新しい血が巡り始めたようだった。
『よく言った』
目鼻のない顔が笑ったように見えた。
『お前に欠けている重要な要素のひとつが『己を表すこと』だ。さあ、完全に目が覚めたな。道を示そう』
左手の火傷痕が変化し、エナトスの町を描く。
『儂の中にはエナトスのあらゆる記憶が封印されている。この封印を『溶く』ことで、故郷は再び元の姿を取り戻すだろう。だが、封印はとても硬い。鎚でも砕けぬ石のように。無理矢理封印を溶かせば、山は吹き飛び、地は抉れ、周囲は灼熱の蒸気に覆われる。エナトスの民は復活した瞬間に消滅するだろう』
火傷痕が、今度は円形に変わる。
『それでもエナトスの民を守るためには硬い封印が必要であった。覚えているか。お前が見た黒い太陽。あれは儂の力を吸い取るための大掛かりな『
ジェンドは口を引き結んだままでいた。わずかな間があった。バンデスの口調がやや沈む。
『思考に疑問が乱舞しているな。なぜあの男を野放しにしておいたのか。封印以外の方法はなかったのか。ジェンドよ。お前は決して愚鈍ではないが、納得できないことを言葉にしなければいずれ身を滅ぼすぞ』
「……」
『……そうか。お前がそれで良いと思うのなら、今は道のみを示そう』
ジェンドの心を読み、バンデスは語る。
『黒い太陽が砕けた直後、お前は大きな光の奔流に飲まれた。あの光は本来、術師が我が身に取り込むはずの力の輝きであった。だが彼は力を吸収する前に死亡し、残された力はお前と黒柱石に注がれた。皮肉なことだが、この力があったからこそ儂は黒柱石を介し、お前と同化することができ、こうしてエナトスを復活させる道を示すことができる』
火傷痕が再びバンデスの顔になる。
『よいかジェンド。封印を緩やかに溶き、かつての穏やかな町を取り戻すため、これよりお前は
「紋章術師……戦う……」
『相手を討ち滅ぼす意志を持って放たれた紋章術でなければならぬ。それは畢竟、敵を定め、戦うことである。お前は熱源だ。意志を込めて紋章術を使えば使うほど、熱源としての力は強まる。その熱が儂の封印を溶かすのだ。わかるか。これは儂と繋がったお前にしかできないことだ』
バンデスが側机で眠る少女を示す。
『紋章術がどのようなものか――それはお前自身が肌で感じると良いだろう。さあ、起きるのだ』
バンデスが呼びかけると、少女がぴくりと動いた。まるで蕾が花開くように、彼女の背中から半透明の翼が二対、生まれる。少女はゆっくりと身体を起こした。漆黒の瞳がジェンドを見る。
『彼女の名はルテル。紋章術を使う鍵となる。お前の記憶を元に創り出した』
ルテルが羽を震わせ、ふわりと浮き上がる。ジェンドのところまで来ると、膝上に大人しく座った。姿形は幼馴染みとそっくりだが、まるで人形のように生気がない。
『彼女は生まれたばかり。ルテルの情動は、これからのお前の振る舞いによって徐々に形成され、染まっていく。さあ。彼女に命じ、紋章術を行使するのだ』
「命じるって、何を」
『紋章術とは『流動の具象化』である。流動とは深層に蓄えられた力の奔流である。心に潜れ。浮かんだ心象を強く意志しろ。そうすればルテルが応えるだろう』
ジェンドは戸惑いながら、両手を前に掲げた。主に倣ってルテルも小さな手を突き出す。
流動。流れ、移りゆくもの。そこから像を結ぶ心象――神(バンデス)からの指示を守るため、ジェンドは必死に考えた。そして浮かんだのは、故郷の川の静かなせせらぎだった。
不意に手足の感覚が薄れる。同時にルテルの身体から赤みを帯びた薄い靄が立ち上る。
周囲に異変が起こった。
水気のない狭い天幕に突如として細い水流が生まれ、空中をらせん状に巡る。その揺れ動く表面に、ジェンドはエナトスの遠景を見た。
ルテルと目が合った。彼女の小さく円らな瞳を見た瞬間、ジェンドは彼女と『繋がっている』という確信を抱いた。
「これが、
つぶやいた直後、漂う水が力を失って落下してきた。寝台周りが濡れ雑巾のようになる。本物の水の質感と冷感だった。
ジェンドの膝の上ではルテルが目を瞬かせていた。靄は消え、漆黒の髪と衣服がずぶ濡れになっている。ジェンドは寝具の端を絞って彼女の顔を拭いてやった。その様子を見たバンデスが言う。
『大人しいお前がすぐに戦いに染まるとは思わん。だが、人は変わるものだ。儂に示した決意を努々忘れるでないぞ。お前の熱が儂に届く日を待っておる』
「……わかった」
『うむ。最後にもうひとつ道を示そう。お前を保護したロフォス・エザフォスに付いていけ。彼らの街は紋章術を使うのに適した環境だ。儂の同胞が見守る土地だからな。そこで腕を磨き、熱を蓄えるのだ』
「バンデスの同胞?」
『存在は繋がっているということだ。さて。儂はしばし眠りにつく。頑張るのだジェンドよ。全てを取り戻すために』
バンデスの顔が元の火傷痕に戻る。ジェンドは握り拳を作り、微かに感じる疼痛を胸に刻んだ。それを見たルテルが同じ仕草をした。ジェンドは苦笑し、ルテルは小首を傾げた。
天幕の入口が開き、スピアースが入ってくる。彼は天幕の中を見るなり驚きの声を上げた。
「水浸しじゃないか。どうしたんだ」
「紋章術を使ったんだ」
ジェンドは答えた。ルテルを促し、自分の肩に止まらせる。側机の御守りを手に取り、立ち上がる。
「スピアース。俺をあんたたちの街に連れて行ってくれ」
「……この短時間に、何が起こったんだ。さっきとはまるで別人だぞ」
ジェンドは困惑した。ここで起こったことを、どう説明すればいいのか。上手く言葉にできない。しばらく考え、唯一、自信を持って言える言葉を見つける。
「全てを取り戻すと決意したんだ」
スピアースは肩をすくめ、人好きのする笑みを浮かべる。
「睡眠を取って、考えを整理したということかな。何にせよ、良かった」
「心配かけて、ごめん」
「はは。まったく君は驚くほど純粋だ。無事、使い魔殿も目を覚ましたみたいだし。おいで。皆を紹介しよう」
スピアースに促され、ジェンドは天幕を出た。差し込む陽光に目を細める。
ようやく出発点に立った――そんな気分だった。髪を引かれて横を見ると、ルテルが両拳を胸の前で握りしめていた。顔は無表情だったが、頑張ろう、と励ましてくれているとわかった。ジェンドは指先でルテルの頭を撫でた。
「行こう」
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