ラヴァ・ラ

和成ソウイチ@書籍発売中

第1話 黒い太陽

 ジェンドは時折、白昼夢を見る。

 それは、溶けた石が大地の重みで固まっていく様という、毒にも薬にもならない奇妙な夢である。

 もし人の魂が、このような超絶的な力によって圧し固められたとしたら、それは美しい鉱石へと生まれ変わるのかもしれない。



「ジェンド! このしかめ面野郎め」

 すぐ後ろにいた筋骨たくましい鉱夫が、楽しそうに青年ジェンドの肩を抱いた。

「お前が仕事中によそ見するなんて、ご機嫌じゃないか。お、さては女絡みか。身持ちが固ぇお前にもついに浮いた話が来たか。なあ後で教えてくれよ」

 坑道内の薄暗さの中で、汗と埃に汚れた仲間の顔を認識した瞬間、ジェンドは先ほどまで見ていたはずの夢の内容を忘れてしまった。だがそれはいつものことで、特に気にせず普段通りに振る舞う。

「これ運ばないと」

 仲間の軽口に短く答え、再び黙々と歩き出す。「精錬された鉄みたいなクソ真面目さに乾杯させてくれ」と、同僚は上機嫌に笑った。別の同僚が「外の空気を吸って、さっさと正気に戻れ」と小突く。

 肌に触れる空気の熱が変わる。坑道の出口が見えてきた。

「さあ、あと少しだ。晴れた空と美味い麦酒が待ってるぜ。バンデスに感謝を!」

 班長のアーダが神の名を叫ぶと、鉱夫たちが手を挙げて応えた。ジェンドも皆に合わせる。

 坑道の外に出ると、太陽の眩しい光に迎えられた。青空から降りてくる爽やかな風が、身体の砂埃をわずかに払う。

 眼下にはエナトスの町がある。鉱山と川に囲まれた、ジェンドの知る世界の全て。

 ジェンドはこの光景が好きだ。

 地面の感触も、陽光の心地よさも、風も、水も、行き交う男も女も、子どもも老人も、皆好きだ。

 生まれてから二十年間。親代わりに自分を育ててくれたこの町がジェンドは好きだ。

 坑道出入り口から右手に曲がった先に待機小屋がある。笑い声が外まで響いていた。仲間たちとともに中に入ると、交代の鉱夫たちが片手を挙げて挨拶してきた。これから仕事に向かう男たちは、いつも陽気だ。

 年季の入った、むやみに大きな食台には、これから休む者たちのための空間が用意されていた。すぐに食事と濡れた手拭いが配られる。大げさな歓声とおどけた愚痴。「おい。俺の酒、いつもより少ないじゃないか。この倍はあるはずだぜ」「いつもと同じさ。酸欠で目が悪くなったんだろ」「ちくしょう、もっと飲みてえ飲みてえ」――愚痴を言う方も、それをあしらう方も、口元には笑みがある。

 ジェンドが黙って給仕を手伝おうとすると、世話係の年配女性に呼び止められた。

「いいよ。あんたも働いた後なんだから。ゆっくりしな」

「だけど、いつもやってることだし」

「確かに手伝えと言ったこともあるけど、そりゃあんたがまだ山に入る前の子どもだったからサ。もう立派な大人だ。でんと座ってな」

 ジェンドの戸惑った顔を見て、彼女は苦笑いした。

「ま、あんたはそういう子だったね。悪かったよ余計なこと言って。気の済むようにしな。その代わり、身体はしっかり労ること。いいね」

「わかった。後でしっかり休むことにする」

 仲間たちへの給仕に戻るジェンドを、世話係の女性は腰に手を当て見守った。

 一仕事終えて、大皿から麺麭をひとつ頬張ると、ジェンドは出かける準備を始めた。仲間の一人が声をかけた。

「おい、ろくに食いもしないでどこに行く」

「墓地。今日は命日なんだ」

「ああ……そういえばそうだな。おし、ここは俺に任せてお前はあの娘に会いに行ってこい。アーダには言っておくから。山に還った人間を大事にしなきゃ、バンデスに引き込まれちまうからな」

 ジェンドはうなずく。ちょうど側を通りかかった世話係の女性がため息をつく。

「偉そうなことを言ってないで、少しはジェンドの殊勝さを見習ったらどうだい」

「あいつが俺たちの分まで墓の世話してくれるさ。その方が墓下の奴らも喜ぶってもんだ。なあジェンド」

「わかった。皆の分も世話しておく」

「お馬鹿。冗談を真に受けるんじゃないよ。さあ、行ってらっしゃい。帰ってきたらまかないを出すからね」

 年配女性がそう言って送り出す。ジェンドは微笑み、待機小屋を出た。

 しばらく歩くと川がある。角の取れた石の間で、流水がとろとろとせせらぎを奏でている。ジェンドは川の水で喉を潤した。それから水辺に咲いた野花を数輪摘んで、ささやかな花束を作った。

 川原近くの長い坂を上る。坂の上には大きな樹があり、そのかたわらに共同墓地がある。鉱山事故で命を失い、遺体が回収されなかった同胞たちがここで眠っている。

 墓石のひとつに花束を供えた。ジェンドの幼馴染みだった少女の墓だ。

 四年前の今日、彼女は鉱夫仲間に差し入れを持って行く最中に、落盤事故に巻き込まれた。今も彼女の身体は見つかっていない。

 自分をさらけ出すことが苦手なジェンドにとって、彼女は唯一軽口を言い合える仲で、一番の心の支えだった。

 胸元から御守り袋を取り出す。袋口を開け逆さにすると、美しい漆黒の柱石が掌に転がり落ちる。幼馴染みがくれたものだった。

 黒柱石をそっと両手で包む。「来たよ」と目を細めて語りかける。

 今日あった出来事、町の様子、皆の様子。上手く言葉にできない分、心の中で話す。ジェンドの脳裏で彼女は、時に驚き、時に叱り、時に微笑んでいた。

 四年――ようやく心穏やかに記憶の彼女に語りかけることができるようになっていた。

 いつか彼女の元に行くまで、この静かな日々が続けば良いと思った。

 黒柱石を御守り袋に収めようとしたとき、ジェンドは掌の異変に気付いた。

「少し赤くなってる。火傷? いつの間に」

 思い当たる節がない。だが鉱山で働いていれば、この程度の怪我は日常茶飯事だ。痛みも痒みもないし、問題ないだろうと思った。

 墓参りを済ませ、ジェンドは墓地を出た。川辺をゆっくりと歩きながら「よくここを散歩していたな」と、幼馴染みとの思い出を懐かしんだ。

 ふと、足を止めた。水面を見つめ眉をひそめる。

 水の流れが、さっきまでと逆であった。水位まで下がっている。

 水音がしたので振り向くと、十メトルほど上流の川中に見知らぬ男が立っていた。膝まで浸かったまま、肩を震わせて笑っている。男の背中には金属光沢の塊があった。表面が滑らかに研磨され、四隅が丸く加工されている。エナトスにはない技術だった。

 男はひどい怪我をしていた。脇腹を中心に着衣は真っ赤に染まり、額からも血が滴っていた。半壊した鎧が肩に引っかかっている。

「おい、あんた。大丈夫か」

 ジェンドは反射的に声をかけていた。だが返事がない。怪訝に思ったが無視はできず、男の近くまで行く。

「……紋章水……俺は全て……べきだ……間違っているのだ……破壊……」

 男は水面に向かって何事かつぶやいていた。内容はほとんど聞き取れなかったが、呪詛のように強く昏い感情が言葉の端々から滲み出ていた。

 そのとき、辺りが突然暗くなった。巨大な黒い球体が空に現れ、太陽を覆い隠してしまったのだ。幻かと目をこすっても景色は変わらない。陽光を遮られた空は未踏の洞窟のようだった。地平や鉱山の稜線に、薄い光の筋が一続きに現れる。周囲の様子はかろうじて判別できた。まるで不可視の何かと隣り合ったかのような圧迫感。神の御業のように思えて、ジェンドは立ちすくんだ。

 視界の端が光る。地面で小さな光点が瞬く。気がつけば、ジェンドは数十の白い光に囲まれていた。それらは次第に大きくなり、人の形を取る。外套頭巾を被った、目鼻のない、身体全てが白く光る老人だった。

 目がない彼らに見つめられる。動揺した。恐怖を感じた。何が起こっているのか理解できず、混乱した。だが怪我をした男の存在を思い出して、ジェンドは我に返った。

「走れるか。逃げるぞ」

 男に向けて叫ぶ。だが反応がない。白い老人たちはゆっくりと近づいてくる。

「ジェンド!」

 呼びかけられて振り返る。班長のアーダだ。老人たちの白い光に照らされた彼の姿を見て、ジェンドは瞠目した。

「アーダ、その怪我」

 鍛え抜かれていたアーダの左腕が、肘から消えていた。腕にきつく巻かれた布は端の部分が薄暗闇と同化してしまっていた。かなり出血している。彼は切羽詰まった口調でまくし立てた。

「こいつらには触れるな。囲いを抜け出せ。お前の俊敏さならできるはずだ。こっちへ来い、ジェンド。急げ!」

 アーダはふらついていた。失血で限界が近づいているのだ。

 地面から新たに生えてきた白い老人が、背後から近づく。

「アーダ、後ろ」

 ジェンドが指差すとほぼ同時に、白い老人がアーダに抱きつく。彼はとっさに右腕で振り払うが、白い老人に触れた瞬間、まるで灼熱する石に氷を押し当てたときのように、腕は溶けて形を崩した。痛みと怒りと恐怖の混ざった野太い声が迸る。ジェンドは堪らず、「今助ける」と叫ぶ。

「来んな。お前はこのまま逃」

 アーダの叫びが不意に途切れる。白い老人がアーダの首に手を回し、喉と命を溶かしたのだ。事切れた身体が草地に沈む。白い老人はなおも近づく。ジェンドの頭に血が上る。俊足を飛ばし、白い老人の間をかいくぐり、アーダの元に滑り込む。唾を飛ばして、怒鳴る。

「俺の仲間に、近づくな!」

 しかし、白い老人には届かない。包囲する動きは止まらず、やがて逃げ道もなくなった。ジェンドはアーダを抱きしめた。たとえここで殺されるとしても、故郷と仲間は見捨てない。その一心だった。

 沸騰する頭を冷ますように、冷涼な風が上空の黒い球体に向かって吹いた。直後、凄まじい暴風へと変貌する。ジェンドは反射的に伏せた。風鳴りで耳が痛む。まともに息ができない。

 薄目を開けると、白い老人が空へと吸い上げられていく様が見えた。

 ジェンドを囲んでいた数十の光が、球体のはらわたに消えていく。その白い軌跡は黒紅色の空にあって、生きて動く星のように感じた。

 暴風はエナトス中を吸い上げていた。あらゆるものに対して等しく暴力的であった。崩れた建物の残骸や、動きを止めた人の身体や、大地から引き抜かれた墓石が宙を飛び、黒い球体に飲み込まれていく様が、白い老人の輝きに照らされて、ありありと見えた。

 エナトスだったあらゆるモノが空に昇る中を、ほんの小さな点ほどの大きさに過ぎない花束が、ばらばらに解けて散る無残な姿を――ジェンドは目の当たりにした。

 あまりに圧倒的な暴力と理解不能な光景を前に、ジェンドは何もできなかった。怯み、恐れ、打ちのめされた。

 荒れ狂っていた風が、不意に弱まった。

 黒い球体の表面に細かなヒビが入る。

 限界まで膨らませた水風船に針を突いたときのように球体が弾け、中から白い光の奔流がジェンド目がけて押し寄せる。直撃を受け、息が止まるほどの衝撃を感じる。触覚と視覚が麻痺する。自分の心臓が動いているのかすらわからなくなる。

 残った聴覚が、無数の残骸が大地を叩き揺るがす音を苦痛とともに受け止める。鉱山の崩落事故を彷彿とさせる轟音だった。

 黒い球体は消滅した。太陽が再びエナトスを照らし、暗闇の空は払われた。

 ジェンドは目を開けた。手足を動かし、生きていることを確認する。五感も戻っていた。衝撃で吹き飛ばされたのか、墓地へ続く坂道の途上に仰向けになっていた。

 起き上がり、坂の上からエナトスを見る。町は、粉砕した鉱石をばらまいたような瓦礫の山と化していた。人も、建物も、ジェンドが好きだった故郷の何もかもが姿を消していた。

 全身から力が抜け、膝を突いた。言葉にできない感情が熱と思考力を奪う。不意に苦しくなって、何度かえずく。胸を押さえてうずくまったとき、御守りの存在に気付いた。

「……皆を探さないと」

 突き動かされるように、ジェンドは坂道を降りる。

 建物の残骸は川にも積もっていた。水は完全に干上がり、かつての面影はもうない。必死に守ったアーダの遺体も、どこかに消えていた。

 川跡に積み上がった瓦礫の中に人の手を見つけた。駆け寄ったジェンドは息を呑み、唇を震わせ、そして瞑目した。不気味な笑いを繰り返していたあの男が、瓦礫の下敷きになって絶命していた。彼も救えなかった――ジェンドは目の前が暗くなるのを感じた。

 ジェンドは覚束ない足取りで瓦礫の町を歩いた。動くものは見当たらなかった。もしかしたら坑道の中で難を逃れた者がいるかもしれない、と思った。自分が生き残ったのだから、自分より逞しく、自分より賢い人たちはきっと大丈夫なはずだ。

 だが――坑道入口は、残骸によって完全に塞がれていた。ジェンドは再び膝を突いた。

 陽が傾き始めた。嗅ぎ慣れない異臭を乗せた風が吹いていた。

 ――いっそ五感が狂ったままだったならば、白昼夢と思えたかもしれない。

 思考がまとまらないまま、ジェンドはひとり、瓦礫を取り除く作業を始めた。虚ろな目に明確な意志はない。木片がある。退かそう。割れた煉瓦がある。退かそう。――その繰り返しであった。

 どのくらいそうしていたか。

 瓦礫の上を行き来する複数の影に気付き、鈍い動きでジェンドは空を見上げた。

 暮れかけの赤空を、大きな翼を持った竜が飛んでいた。

「生きてるぞ。生存者発見」

 翼竜に乗った男が大声で叫ぶ。滑らかな動きで翼竜はジェンドの側に降りた。

「君、大丈夫か。怪我はないか」

 ジェンドは虚ろな目で男を見返した。「ああ、人だ」「ああ、竜と鎧だ」――単語が頭に浮かぶ。それ以上を考えられない。微睡みながら絵を見ているような非現実感だった。

 もう一匹、翼竜が降りてくる。

「スピアース。奴を発見した。竜もいたが、すでにどちらも死んでいたよ。この惨状、まず間違いなく奴の紋章術だろう。どうやら失敗したようだが」

「くそ。遅かったか。騎士の風上にも置けない奴め。何ということを」

「やはりあのとき止めを刺すべきだったな……今更悔やんでも詮無いが。それより、彼が生き残りか。無理もないが、こんな状態で事情が聞けるのか」

「彼は被害者だ。私たちが保護する責任がある。聴取は後だ」

 男たちの会話がジェンドの耳を素通りしていく。ああ、邪魔をしないでくれ。まだ瓦礫がこんなに残っているんだ。

 鎧の男が手を差し伸べる。

「もう大丈夫だ。私たちは君を助けに来た。味方だ」

 彼の指先を、ジェンドは焦点の合わない目で見る。

「さあ、一緒に安全な場所へ行こう」

「……竜を、どけてくれ。足許にたくさん瓦礫が残っているから」

 ジェンドが言うと、鎧の男は痛ましそうに目を閉じる。竜はか細く鳴く。

 男は、竜の背に取り付けられた金属の塊を手に取った。金属塊の上端には細い管が取り付けられていた。男が何か操作をすると管の先端から水が滴り出た。水はひとりでに宙を舞い、螺旋を描いた。

 不可解な水の動きを、ジェンドは無感動に見つめる。次第に身体が重くなってきた。

「すまなかった」

 ――どういう意味だろう。謝るのは俺の方なのに。皆を救えなかった、俺の方なのに。

 そのまま、ジェンドは意識を失った。

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