第39話 自覚
自分が自分でなくなる。誰かになるのでもなく、価値観が大きく変わってしまうだとか、パラダイムシフトが起こるだとか、そんなポジティブなものではなく、ただただ縄神喩という人間が、人格が崩壊する。たったそれだけのこと。それだけのことでも、喩にとっては、喩だけにとっては重大なことだった。
喩は縄神喩という人間を、異能の力の絶対的な呪われた力を持ち、初めて恋した天命涙という少女に裏切られた悲劇的な人間だと、そう思っている。
縄神喩の運命には永遠に幸福なんて訪れず、世界に嫌われ続け、死ぬまでの間生きるのだろうと思っている。思い込んでいる。そして、思い込もうと努力している。
だからこそ、異能の力を言い訳に人に関わることを避け、全てを諦める理由にしていた。何せ、自分は裏切られているのだから、そして必ず裏切られるのだから、仕方がないと思い込もうとしていた。
まるで自分が悲劇の主人公であるかのように喩は生きてきた。しかし、真実は真逆だった。
異能の力に絶対的な呪いの効果はなく、天命涙は自らの破滅と引き換えに喩を救った。それを勝手に勘違いして悲劇の主人公のように振る舞い、しかしそれすらも弌と笑が笑い飛ばして否定した。
悲劇の主人公ではなかったが、喩は主人公らしく、堂々と主人公補正を受けていた。
大雑把に、平たく言えば、喩はどうしようもなく幸福だというのに、どうしようもない諦観主義の悲観者だった。
「はは……、あははは……っ、こんなことって、そんなことって、あるの……?」
脱力し、涙が溢れる。笑い泣きであり、嬉し泣きだった。自分は幸福なんだと、幸福でいいんだと生まれて初めて、心の底から思う。これまでの縄神喩が崩れ去った瞬間だった。
「た、とえ? 泣いて、いるの?」
声が聞こえる。それは紛れもなく涙の声で、意思のある声で、つまり精神崩壊から立ち直ったということを意味していた。
「……うん、泣いてる、よ」
喩は涙に目を合わせられなかった。
「どうして? ……私が、喩に酷いことをしたから?」
恐らく精神崩壊を起こしたのは、喩にサバイバルナイフを突き立てたあの日からすぐなのだろう。喩は意識が戻った時点で【転移】を駆使して逃走し、逃げ出した為、その後のことは何も知らない。
しかし、涙に恋したと自覚したその日から、涙のことを知っている。知り尽くしている。思い出したくも考えたくもなかったが、それでも一瞬たりとも忘れたことはなかった。良くも悪くも、喩の記憶力は圧倒的だった。
幼い子供のような、純粋で純朴な口調。それは昔の涙そのものであり、また涙は何も変わっていないということを示していた。
「そうだよ。……全部、全部涙のせいだ」
喩の言葉に力はなかった。自らの弱さに徹底的に打ちのめされていた。
誤解するなというのは難しい。涙がした行いは誰しもが誤解するに値する行為であり、喩の為にした行為だとは決して思えない。
しかし、それでも喩には行動する権利があった。実際に喩がしたように、涙を理由に全てを諦め悲観するのとは別に、それを踏ん張りの起因として再度挑戦するという権利が。そして、そうすれば今のように意地になって涙を許せない、情けない人間にはならなかった。情けの掛けようのない、みっともない姿にはならなかった。
この世界に悲劇の主人公はおらず、そこにいたのはただのありふれた普通の人間と、その周りにいる救いようもなく、人間のできた最高の友人ばかりだった。
決して深く関わろうとしなかった喩をあっさりと受け入れる度量を持つカップルに、自らの破滅を覚悟して喩を救った少女。
こんな人間ばかりではないことを喩は知っている。ただ異能の力を持っているからという理由だけで、最も二人が愛情を注ぐべき子を嫌悪した両親と近所の人々を喩が知っている。
だからこそ疑ってしまうくらいに、そして疑うことが恥ずかしいくらいに、喩は人間関係に恵まれていた。あまりにも恵まれていた。
「……ありがとう、涙。僕なんかの為に、あんなことをしてくれて」
喩はのそれは皮肉のつもりだった。しかし、涙にとってそれは皮肉の混じらない、ただの感謝だった。本来貰えるはずのない感謝の言葉。その言葉がどうしようもなく、涙は嬉しかった。
じわっと、滲み出すように涙は目の端から雫を零し、それが筋となり、床にポタッポタッと丸く小さな水溜りを作る。静かに涙は泣き続け、喩もまた小粒の雫を地面に落とし続けた。
喩は涙を許せないがそれ以上に自分の惨めさを痛感した。涙は喩から感謝の言葉を貰ったが許された訳ではない。
喩はただただ自己嫌悪するようになり、涙は全てが救われたという訳ではないが、少しばかりの救いはあった。喩が不幸になり、涙が幸福になった。
「喩」
しばらくの時間が経って、涙はおどおどと名を呼ぶ。相手の為とはいえ、手酷い仕打ちをした相手に一体なんと声を掛ければいいのか分からないのだ。
「……何」
むすっとした声を喩は漏らす。拗ねているのだ。拗ねて、拗らせている。明らかな人間性の格差。悲劇の主人公のように振る舞い生きてきた喩と、悲劇のヒロインとして十分に語られるべき自己犠牲を払った涙。その格差を喩は受け止められなかった。
「私は、今でも喩のことが、好きなの。好きで、大好きで、大々好きで、大々々好きで――」
「……っ、そっか」
涙の純粋で真っ直ぐな想いを、喩は真正面から受けることができなかった。少し濡れた床に目を逸らし、そして目を逸らした自分を嫌悪する。
「……ごめん。僕はもう涙を好きになれない」
涙が嫌いという訳ではない。もう恨みや憎しみはない。喩が涙を好きだったという事実は変わらないし、全てをやり直しにするという意味でも涙のことを好きになる努力はできるのだろう。喩の為に破滅した涙を、今度は喩が救う。そんな選択もあるのだろう。
しかし、それを喩はできなかった。理由は二つ。
一つは、涙と一緒にいれば自らの醜さは際立つことになる。これまでは悲劇に見舞われること以外は普通の人間だと思っていたというのに、今となっては悲劇の主人公を騙り、人間関係に恵まれた癖に人を信じようとしなかった嫌な奴となってしまった。
「……僕に涙を好きになる資格は、もうない」
そんな涙に自らは釣り合わず、自らは耐えきれないことくらいを喩は十分に理解していた。
そしてもう一つ。
「僕が好きなのは、僕が好きになれるのは、せいぜい、僕と同じ、自分を悲劇の主人公だと思い込んでいる、嫌な奴だけだ。嫌な、神様みたいな奴だけだ」
喩には今、好きな人がいる。
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