第5話 彼の勘違い

 喩にしばらく休むように告げて、汀はその部屋を出て行く。

「タイミングが悪かった、というべきなのかな」

 扉を閉めて呟く。

 【精神感応】によって繋がると、相手の思考や心だけではなく記憶もまたある程度は共有されてしまう。それによって汀は、今回の失敗の原因に気付いていた。

 一つは前回の催眠療法がつい三日前に行われたということ。つまり数日前に既に同じように過去を思い出していたということ。

 一つは少し前に喩が見た夢。過去に類似した夢であり、叶わなかった儚い夢。喩は裏切られる直前まで、天命涙に救われるというハッピーエンドを夢に見ていた。そして、それに近い夢物語を、偶然、今日、夢として喩は見た。

 一つは喩を追いかけたという謎の少女。その少女は黒髪長髪で、天命涙の外見と一部一致している。

 三つの、過去や天命涙という少女を想起し易い要因が今日に限って、偶然重なっていた。それが今回の原因だった。

 しかし、それ以前に、大きな原因が一つある。

「思い込みが強いというか、過激というか。そればっかりは私には解決しようもないのよね」

 はぁ、と汀は呟く。汀は精神科医として、【精神感応】を抜きにしても圧倒的過ぎる腕を持っている。優秀過ぎる為に訪れる患者達の症状は初診だけで改善させてしまう。通院患者がいない為に他の診療科よりも比較的暇なのだ。

そして暇だからこそ、異能の力を持つ人間が集まる『組織』からの依頼である、病んだ異能の力を持つ人間の心を治すことができる訳だが、それは別の話。

 そんな汀にも、改善できない種類の患者がいる。喩のように自らの現状と向き合うことができない、或いは向き合おうとしない人間。その状態が改善されることを望んでいない人間、或いはそれ以上改善できないと思い込んでいる人間。――要するに、自分から治ろうとしていない人間だ。

 汀はそういう患者に対して、二つの方法を試す。

 一つは単純なアプローチ。患者に治ろうとしていないことを自覚させて、治りたいのか治りたくないのかを改めて考えさせる方法。基本的にはこの方法で大抵が治そうという意識に変わる。変わらなければそれはそれで納得してしまう為、治療を施す必要もなくなる。

 もう一つはその場凌ぎの治療方法。こちらは喩のように苦痛を伴う為に自分から治ろうと思えないような人間への気休めだ。例えば喩に施したような催眠療法などがそれに分類される。

 少なくとも汀は催眠療法を真っ当な治療方法だとは思っていない。そもそも喩は催眠などには掛かっていない。故にトランス状態にも陥っていない。喩の思い込みやすさを逆手に取って、人間の生理的反応を言葉の言い回しと雰囲気で喩に催眠に掛かっていると思い込ませているだけなのだ。

 喩の場合、過去について全く考えようとしないことが、現在の人間不信の原因だ。過去について何も考えないが、とても信頼し信用していた人間に裏切られたという事実は残っている。

 故に喩は、どんな人間だって無条件で裏切る可能性がある。そして異能の力の呪いによって自分は裏切られる可能性が数百倍高くなってしまっている、と思い込んでいる。

 確かに異能の力には、異能の力を持たない人間が嫌悪感を抱くという呪いがある。汀もそれによって理不尽な目に遭い、普通の人間よりも疑い深くなってしまっているのは確かだ。しかし、汀は喩よりも多くのことを知っている。だからこそ、喩の誤解も知っている。

 喩は過去に縛られている。だから汀はトランス状態という例外的状況を作り、喩に過去のことを何度も思い出させていた。思い出し、誰かに話す。そうすることで汀は喩の抱える過去を風化させようとしていた。

 思い出すことに抵抗をなくし、頭痛をなくす。そうすれば過去について深く考えることができる。過去を考えるということは、そこから何かしらの教訓を得るということだ。

 あのときの喩の一体何がダメで、天命涙の一体何がダメで、逆に喩の何が正しくて、天命涙の何かが正しかったのかを考え、それが間違っていたとしても、とりあえず幾つかの答えを導き出すことができる。つまり、人を信じようという意思のキッカケを作り出すことができる。

「人間は失敗する。だけど学習もする。……今の喩に必要なのは、失敗しようとする意思、それによって学習しようとする意思」

 さて、と汀は考える。恐らく親戚だからというのもあるのだろう。汀は露骨に喩に対して贔屓をしていた。贔屓をして、遠慮をしていた。だからこそ、少し手こずってしまっている。

 喩は汀が抱える患者の中は非常に珍しい、長期間の通院患者だった。

「何か、いいキッカケみたいなものがあればいいんだけど」

 そんな呟きを長い思考の締めにして、喩が好きだという炭酸飲料を買って喩がいるはずの部屋に戻る。しかし、そこに喩はおらず、代わりに一枚の紙があった。

紙には一言。すみません、先に帰ります、と書いてあった。

「……やっぱりか」

 小さく溜息を吐いて、暇過ぎるが故に勝手に持ち込んだ冷蔵庫の中に入れる。冷蔵庫の中には同じようにして渡しそびれた清涼飲料水が大量に並べられていた。

 その中から一つ、汀も好んで飲む清涼飲料水を手にとって開封する。ふと、別に買いに行かなくとも、ここから取り出せばいいのではないかと、考えてみれば思いつくことを今更ながらに汀は思いつく。その上で首を振る。いやそうではなくて、と。

「あの勘違い、いつ解くべきなのかしら」

 汀は嘆くように呟く。今、言っても恐らく喩はそれを信じないだろう。

 喩は一つ、勘違いをしている。そしてそれはいつか解かなければならない。そうしないと喩は、死ぬまで今のままで生きていくことになる。人間不信のままで、生きていくことになる。

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