第4話 トラウマ(下)

「……信じ、られない……?」

 本題に入る。

問。――どうして縄神喩は人間を信じられないのか。

「そう、信じられない理由よ。どうして、喩は人を信じられないの?」

「……それ、は。……昔、友達に、親友に、裏切られたことがあるからです」

「裏切り、ね。具体的に、それはいつのこと?」

「……三年前です」

「どういう裏切られ方をしたの?」

「……ッ」

 汀の声に従って思い出そうとすると、同時に喩の頭にずきんと痛みが走った。喩は顔を歪めて、びくっと体を跳ねさせる。

「大丈夫。ここは安全な場所、喩がいていい場所、喩だけの場所。危険なものも危険な人も何もない。さぁ、もう一度深呼吸をして、ゆっくりと思い出して行こう」

 汀に言われ、喩は深呼吸し、ゆっくりと思い出していく。

「……僕は、狭い部屋に閉じ込められていました。僕はそこで何年も過ごしていて、暴力や酷い言葉を沢山言われていました」

 物置のような狭い部屋。冬は凍ってしまいそうなくらいに寒く、夏は溶けてなくなってしまいそうなくらいに暑い。そんな部屋で老若男女問わずから暴力を振るわれ、暴言を吐かれた。

「……でも、ご飯を運んでくれる幼馴染の女の子がいて、その子だけは、暴力も振るわず、暴言も吐きませんでした」

 一日に一回、酷いときには二日に一回あるかないかの冷たい食事を、一人の少女が運び、食べ終えたそれを少女が回収する。

 その少女から一言告げられ、喩がそれに一言答える。一言のコールアンドレスポンスが二言、三言になり、会話になり、雑談になった。

「その女の子の名前は?」

「……天命、涙」

 黒髪長髪の少女。常にどこか申し訳なさそうに、何かを言いたげにしているがそれを言わない、そんな少女だった。その遠慮が、気遣いが、喩を対等に見ているという証拠だった。

「そう。喩は、涙のことをどう思ったの?」

「……唯一の味方だと思いました。いつか、僕を救ってくれると信じていました」

 喩は涙になら何でも話せた。涙を全面的に信用し、信頼していた。涙と協力すれば今の状態を解決できるだろうと思っていた。涙ならば今の自分を救ってくれるだろうと、喩は本気で思っていた。信じていた。

「それだけ?」

「……好きになりました。大好きになりました」

 涙が笑うと嬉しく、涙が悲しむと辛かった。涙の表情の変化に一喜一憂した。涙との会話が唯一の楽しみだった。涙の顔を見れば、どんな暴力の痛みだって消えてなくなった。涙がいればどんなことでもできるような気がした。

 涙との共通点は多く、特に比べてみても全く違いが分からなかった黒髪は、割れた鏡越しで見る度に、涙のことを思い出し無意味に微笑んでしまうくらいだった。

 考えてみれば少し気持ち悪いくらいだったがそれでも喩にとってはとても大切な感情だった。生きる希望だった。

「……でも」

 ――しかし。

 記憶の表面をなぞるようにその続きを思い出すと、喩の心拍数が跳ね上がった。どくどくどく、と鼓膜を破らんとする勢いの強い心音が脳内に響き、喩の体が震え始める。

「でも? それから、どうなったの?」

「……ある時、僕の、胸に、心臓に、ナイフを突き刺し、ました」

 震える声で思い出したそれを、悪夢を答える。

刃渡り二十センチ程の、シンプルな形のサバイバルナイフ。人を殺すことなんて簡単にできる、そんなサバイバルナイフで汀は喩の心臓を突き刺した。

 泣きながら、怒りながら。震える両手でサバイバルナイフの握り手を掴んで、涙はサバイバルナイフを振り下ろした。『化け物はこの世界にいらない』と、叫びながら。

「……ち、血が、白い服に、滲んで、痛みが遅れてやって来て、口から血が出て……うっ、あ、っ、痛い、痛い、痛い痛いッ!」

 裏切らないと思っていた天命涙からの罵倒と危害を加えるという、言い逃れのできない裏切り。そのショックはあまりにも強く、その瞬間に喩の髪は一部、白化してしまった。血の気が引くように、髪の一部が白く染まった。

 話し終えるよりも前に激しい頭痛が喩を襲った。それまで動かなかった体が動き、胎児のような体勢になって頭を両手で強く抑える。大粒の涙を零しながら、喩は言葉にならない悲鳴をあげた。あげ続けた。

「っ……、なんで……ッ!」

 汀は焦りの声を漏らし、喩の側に駆け寄る。珍しく、汀から笑みが消えた。

 喩を襲っている頭痛は全て幻だ。喩が痛いと思い込んでいるだけで、症状としては何も起こっていない。それでも喩にとっては本物の頭痛であり、本物以上の苦しみだった。

 この頭痛は喩が過去を思い出そうとしたときに決まって起こる。脳が過去を思い出すことを強烈な頭痛によって遮断しているのだ。

 喩にとって過去は触れたくも触れてほしくもない禁忌の箱、根深いトラウマだ。思い出せば自らの精神に大きな負荷をかけてしまう。無意識にその負担を避けようとする為に、喩は過去を思い出すことができない。喩は自分の過去に全く向き合えない。向き合うことを脳が、体が、拒絶してしまっている。

 この頭痛が収まる条件はたった一つ、喩が自らの頭痛が幻であると気付くことだ。しかし、喩の頭痛は度を越すと意識を失うまで延々と痛みが発生し続ける。痛みによって過去を意識し、それを遮断する為に更なる痛みが生まれ、が続く。負のスパイラルを繰り返してしまう。そうなれば痛みが幻であると気付く余裕はなくなってしまう。

 今回はその度を超した頭痛に当たるものだった。普段ならば過去を思い出しかける直前の頭痛によって思考がキャンセルされるが、今回はトランス状態からの誘導によって全て具体的に思い出してしまった。明確に思い出してしまったという記憶そのものを消し去る為に、喩の脳は自らの意識を刈り取るような頭痛を起こしていた。

「大丈夫、大丈夫。大丈夫だから。ここに喩を傷付ける人間はいない。ここにいるのは私と喩だけ。私は喩に治療と世間話以上のことをしない。私は喩と深く関わらない。何も恐れることはない、私は喩に何もしない。だから喩は私に何も思わなくていい、私のことを何も知らなくていい。私を信頼も信用もしなくていい」

 痛みから逃れるように暴れ回り、ベッドから落ちてしまった喩を強く抱き締めて、汀はそう囁く。強く、強く、抱き締めて、囁く。信頼も信用もしなくていい、という喩の望む言葉を囁き続ける。

 同時に汀は自らが持つ異能の力、【精神感応】を用いる。

 俗にいうテレパシー。相手の体に触れることで一時的に自分と相手の間に精神的な繋がりを作り、自分の思考や心と相手の思考や心を共有させるという力だ。異能の力の性質に倣って、精神的な繋がりを作る理屈は説明できない。

 【精神感応】によって喩と汀の思考と心が繋がる。同時に汀には喩と同じだけの頭痛が襲うが、汀がそれに苦しむことはない。その頭痛は喩が過去を思い出すことを止める為に喩が生み出している痛みであり、そこに他者は関係ない。叔母と甥の関係であっても、同じ異能の力を持つ者であっても、それでも汀は汀であり喩は喩で、究極的には他人同士だ。

 【精神感応】によって繋がっていても、どれだけ喩が苦しんでいても、汀はその苦しみを理解できない。個人の苦しみは異能の力を使ったとしても他者には理解できない。

 喩がどれだけ頭痛に苦しみ精神的余裕を失っていても、汀にはその痛みは分からず故に精神的余裕を持つことができる。

 そして汀の精神的余裕は【精神感応】によって繋がっている喩にも共有される。つまり自らの体感している激痛が幻であるということに気付くことができる余裕が生まれる。

「汀さん、もう、大丈夫、です」

 二人共どれだけ時間が経過したのか分からなかった。それくらいに長い時間、汀は喩を抱きしめていたし、喩は汀に抱きしめられていた。

「……大丈夫?」

 心配そうに尋ねながら汀は喩から離れる。喩は無理に立ち上がろうとしてバランスを崩し、ベッドの側面に背中を預けて座り込んでしまう。

「大丈夫です。……すみません、取り乱しました」

 喩は嘘を吐いている。そんなことは【精神感応】を使わずとも、汀には分かった。喩は気付いていないらしいが、未だに喩の目からは涙が流れ続けている。

 しかし、それを指摘することは汀にはできなかった。

「ううん、違う。今回のことは私が悪かった。やっぱり、ちゃんと期間を空けておくべきだった。……これは私のミスよ」

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