2ページ


 父親に初めて連れて来てもらったのが水族館だった。いや、初めてと言うかこれが最初で最後だった。四歳になる少し前の頃、お気に入りのリュックを背負って父親の大きな手を握って、初めて訪れた水族館。今まで見たことのない景色、まるで宝石箱の中に入ったような、そんな気がした。

 水族館での父親はいつもの印象とは違っていて、良く笑っていたし、俺が『なんで?』と訊いたことには全て丁寧に教えてくれた。まだ幼くて水槽を思うように見られない時も、ひょいっと身軽に抱えては肩車をしてくれた。それが何だか嬉しくて嬉しくて、事あるごとに抱っことか、肩車をしてとねだっていた。

 俺が「マンタってまほうのジュウタンみたいだね」と言うと、父は笑いながら「素敵だね、いつか乗ってみたいね」と言っていた。

 今でもその笑った顔は忘れていない。

父親はそれから程なくしていなくなってしまった。どうしていなくなったのかは知らない。他界したのか、それとも離婚したのか。気づいた時には居なくなっていた。母親も何も言わないし、なんだか訊くに訊けなくて、こうして大人になった今でもその真相は知らない。

それまでの父親のこと、実は思い出そうとしても上手く思い出すことができない。

空気のような人だった。こちらから話し掛ける以外、父から話し掛けられることはないし、それこそ一日中口を利かない日もあったと思う。それに、家にもあまりいなかった。

 だから父親との思い出と言うのは、この水族館でのことしかない。

 大きな手、少しカールがかった髪、骨ばった肩、笑うとくしゃりとなる顔、俺を呼ぶ優しい声。

 どれも確かに父親との思い出で、水族館を歩くと少しずつ鮮明に思い出された。

小さな俺と、俺の父親。確かにそこにいたはずなのに、まるで厚いガラスに阻まれているような感覚に落ちる。手を伸ばしても絶対に触れることが出来ない、時間は戻せない。

父親にはもう会うことは出来ないのだろう。寂しいとか、悲しいとか、そんな感情ではない。ただ、海の底にたゆたう海藻のような、そんな気持ち。自分でどうにかできる問題じゃないのだから。

それでも多分、俺は父親の事が好きだったのだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る