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父親に初めて連れて来てもらったのが水族館だった。いや、初めてと言うかこれが最初で最後だった。四歳になる少し前の頃、お気に入りのリュックを背負って父親の大きな手を握って、初めて訪れた水族館。今まで見たことのない景色、まるで宝石箱の中に入ったような、そんな気がした。
水族館での父親はいつもの印象とは違っていて、良く笑っていたし、俺が『なんで?』と訊いたことには全て丁寧に教えてくれた。まだ幼くて水槽を思うように見られない時も、ひょいっと身軽に抱えては肩車をしてくれた。それが何だか嬉しくて嬉しくて、事あるごとに抱っことか、肩車をしてとねだっていた。
俺が「マンタってまほうのジュウタンみたいだね」と言うと、父は笑いながら「素敵だね、いつか乗ってみたいね」と言っていた。
今でもその笑った顔は忘れていない。
父親はそれから程なくしていなくなってしまった。どうしていなくなったのかは知らない。他界したのか、それとも離婚したのか。気づいた時には居なくなっていた。母親も何も言わないし、なんだか訊くに訊けなくて、こうして大人になった今でもその真相は知らない。
それまでの父親のこと、実は思い出そうとしても上手く思い出すことができない。
空気のような人だった。こちらから話し掛ける以外、父から話し掛けられることはないし、それこそ一日中口を利かない日もあったと思う。それに、家にもあまりいなかった。
だから父親との思い出と言うのは、この水族館でのことしかない。
大きな手、少しカールがかった髪、骨ばった肩、笑うとくしゃりとなる顔、俺を呼ぶ優しい声。
どれも確かに父親との思い出で、水族館を歩くと少しずつ鮮明に思い出された。
小さな俺と、俺の父親。確かにそこにいたはずなのに、まるで厚いガラスに阻まれているような感覚に落ちる。手を伸ばしても絶対に触れることが出来ない、時間は戻せない。
父親にはもう会うことは出来ないのだろう。寂しいとか、悲しいとか、そんな感情ではない。ただ、海の底にたゆたう海藻のような、そんな気持ち。自分でどうにかできる問題じゃないのだから。
それでも多分、俺は父親の事が好きだったのだろう。
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