第2話 きっかけ

 夏の暑さが、いよいよ感じられる頃のことだ。

男が仕事をひと段落させ夕飯の支度をしようとキッチンへ向かうと、食卓の下に何かが落ちていた。それは青い色紙を長方形に切ったもので、男は拾い上げるとそこに文字が書かれていることに気づいた。

『おじさんが ずっとげんきですように』

 拙い文字で書かれたそれは、七夕の短冊だった。おそらく少女が学校で飾るのに使うのだろう。ここに落ちていたのは、何かの拍子に落としたことに気が付かなかったのか。

 その時は、明日は七夕だったのかと、また一人季節の訪れの早さにをしみじみと感じていただけだった。いつも通り少女と二人きりの夕食を終え、先ほど落ちていた短冊を渡してやると、少女は探していたというふうに安堵の息をこぼす。

「そういえば、明日は七夕だったね。見つけれてなによりだ。そして僕のことを祈ってくれてありがとう。けれどこれには、キミ自身の願いごとを書いて良いんだ。僕はいつまでも元気でいるのだから」

うまく伝えられたかわからない。伝わったとして余計なことかも知れないが、男は少女に、自分をもっと大事にするように言いたかった。少女は良い子であろうとするあまり、人のことばかり考えて行動する。その為人の心の機微に敏感だ。人の気持ちを分かろうとするのは良いことではあるが、自分をないがしろにしてほしくはない。第一、他人の顔色ばかり窺って生きるようになっては、ひどく苦しいものだと、男自身が体験してきた。

 差し出された短冊を受けとる時、少女は一瞬何か言いたげな顔をしたが、どうしたのかと聞いてみると、なんでもないとただ首を振り、笑顔を作るだけだった。

 少女が寝静まったのを見て、男は先ほどの笑顔を思い出す。以前よりは会話が増えてはいたが、やはり少女はいつも無理をして笑う。それに度々、ああして言葉を飲み込むことがあった。

 自分がもっと素直に感情を表せたら、少女も違う顔を見せてくれたのだろか。こればかりは、お互い慣れていくのを待つしかないと思う自分もいれば、人とうまく接することができない自分に、腹立たしく思う自分もいて。

 自室に戻った男は、一人物思いにふける。

 そういえば、七月七日は七夕以外にも何かあっただろうか。降ってわいた疑問に男はさほど気にすることもなく、すぐに思考の隅へと追いやった。


「どうしてたなばたに、おねがいごとをするんだろう」

翌朝、リビングで昨日の短冊を書き直していた少女は、一人ごちるように呟いた。

「ぇ……」

咄嗟に口を開く男だったが、しかしすぐに言葉に詰まる。そうとは知らない少女は、別段返事を求めていた訳ではないのか、さっさと支度をすませると「いってきます」と笑顔で男を振り返った。

 少女が独り言をこぼすなど、はじめてのことであった。それだけ気を許してくれたのかと、嬉しく思うと同時に、男は自分がその問いに答えられないことを自覚する。男にとって七夕という行事は、はるか昔のことだった。

『七夕 由来』

 昼過ぎ頃、男は自室のパソコンに向かい検索していた。少女が帰ってきた時、それとなく教えられるように。もしかしたら、学校で教わってくるかも知れないが、男にとって会話の糸口となればそれで良かった。

 なるほど願い事をする風習自体は、中国から伝わった乞巧奠とい行事らしい。昔は織女星にあやかりはた織や裁縫の上達を祈っていたが、やがて芸事や書道も加わり、今ではどんな事でも願うようになった訳か。まったく便利なものだと、男は肩肘をついて眺めていたが、ふと、目に留まった言葉に男は衝撃を受けた。

『七夕が誕生日のあなた!』そう書かれたサイトは、誕生日占いができるものらしいが、男は占いをしたいと思ったのでない。ただ、今日が七夕以外にもう一つ、いやそれ以上に大切な行事日であることを思い出したのだ。

 今日は、少女の誕生日だった。

 諸々の書類に記入する際、一度少女に聞いただけのその情報をすっかり忘れかけていた。まさか、昨夜少女が何か言いかけたのはこのことだったのかもしれない。こうしてはいられないと男は出かける準備をしたが、玄関に出た頃には時すでに遅し。ちょうど少女が帰って来て、玄関先で鉢合わせしてしまった。まだ小学一年生である少女は帰宅が早い。慌てて家を出ようとした男を見て、きょとんと首をかしげている。もうこうなっては腹を割るしかないだろうと、男は少女の荷物を玄関先に置かせると、少女を連れてそのまま外出することに決めた。

 車に乗っている間、少女は困惑を隠しきれない様子でいたが、事情を聞いてくることはなかった。一方男は、誕生日を忘れていたなど、どう切り出したものか、車内には重い沈黙が流れるばかりだ。車を走らせること数分。男は近くの本屋に車を停めた。車から降りてからも困惑している少女に男は立ち止まり視線を合わせる。

「キミに、謝らなくてはいけいことがある。今日がキミの誕生日だと、僕はさっき思い出したんだ。怒ってくれて構わない。けれど僕に、キミの願いを叶えさせてくれないかい?」

 男は先ほど家を出る際に、少女の書き直された短冊を思い出していた。

 少女にはじめてぬいぐるみをプレゼントしてから、男は外出することが多くなった。気分転換と称して出かけては、何かと手土産を持って帰る。今では少女の部屋は壁に大きな画が飾られ、ぬいぐるみをはじめ物であふれている。服や髪飾り、靴なども、当初より増えていた。およそ女の子が好きそうなものを買い与えていた男だが、本を買って帰ったことは、まだ一度もなかった。意識していたのではなく、普段は通販で済ませてしまうせいか、外出して本屋へ行くという考えに至らなかったのだろう。今朝見た少女の短冊には、たった三文字。「えほん」とだけ書かれていたのだ。

 児童書のコーナーには、大小さまざまな本が賑やかに置かれている。最近では飛び出す絵本やら、子供が楽しめるように工夫されたものが多い。その中から少女が持ってきたものを見て、男は「これでいのかい?」とたずねた。店を出る頃には夕食時で、男は少女とはじめて外食をした。

「お願いごとは、もう全部かなったかな?」

 その日の夜。寝るばかりになった少女が、始終大事そうに絵本を抱えるのを見て、男は微笑んだ。少女は何度か口を開いては、躊躇うようにまた閉じる。その間男は、ただじっと、少女が話すのを待っていた。

「えほん、よんでほしい……です」

ようやく紡がれた少女の言葉は、細く小さく、気をつけていなければ聞き逃してしまいそうだった。

「ああ、もちろん。おいで」

 男はソファから少女を手招く。

 少女が持ってきた本は、縦横15センチほどの、子供の手にもすっぽりと収まる小さな絵本だった。

あまりにも小さいものだから、横に並んでは読みにくいと、男は少女を膝の上に乗せた。

 読み終えた時、男はその姿勢が、なんだか本当の父子のようだと、むず痒いような気持ちで少女を見ていた。それが伝わってしまったのだろうか。振り返った少女は恥ずかしそうに眉を下げ、今にも泣きだしそうな顔だ。慌てふためく男をよそに、少女は「ありがとう」と、はにかんだ笑顔を浮かべた。それははじめて男が見た、少女の心からの笑顔で。

 次に泣き出しそうな顔をしたのは、男の方だった。


 そして翌年の誕生日も、少女は以前と同じ、縦横15センチほどの小さな絵本を選んでもって来た。またその次の年も、さらに次の年も。難しい漢字をすっかり読めるようになっても、少女は何のこだわりがあるのか、その小さな本を持ってきた。そのたびに男は、何度も何度も少女を膝に乗せて読み聞かせた。

 今では男にとって、少女に本を読んだその時間が何よりも愛しく思える。あの日の小さな、15センチほどの絵本は、男と少女を深くつなげる、きっかけとなったのだ。

 男は窓の外に広がる、桜並木を見下ろしていた。春の訪れを感じる中、玄関先からチャイムが鳴り響く。壁時計を見るといつの間にか約束の時間になっていた。あれから過ぎ行く日々の中で、少女は美しく成長した。幼い頃の面影はすっかり失われたかと思えるが、ただ一つ。あのはにかむような笑顔だけは、変わることはないのだろうと、男は玄関のドアを開けた。

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