第1話 出会い

 一定のリズムを刻む甲高い音が、昨夜決められた通りの時間に鳴り響く。時計にしるされた時刻は午前七時。

 男は泥沼のような意識の中、無理やりに重たい頭を上げた。体の節々がピキピキと音をたて、左腕に痺れがはしる。どうやら、昨夜遅くまで仕事机に向かいそのまま眠っていたようだ。腕の痺れは枕代わりにしたせいか。

「はあ……」

 男はため息交じりに立ち上がる。未だ耳障りな音を発し続ける目覚ましは、部屋の隅にあるベッドの枕元に置かれていた。ベッドシーツはシワひとつ見あたらない。仕事の締め切りが迫る時期、男がベッドで眠らない日が続くのは珍しくないことだった。寝ぼけ眼をこすりながら、男は目覚ましを止めた。

 朝いちばんに紅茶を淹れることを、男は一人になってから欠かしたことがなかった。些か女々しいように自分でも感じられるが、深みある茶葉の香りが鼻腔に広がり、身体の芯がじんわりと温まっていくのに、意識がだんだんとハッキリしていく。それはなんとも心地よい感覚で、女々しいなどというのは些細なことに思われる。先ほどまでの気怠さはどこへやら、男が部屋の換気に窓を開けると、やわらかな春風が男の髪をなでていく。もうすっかり、季節は春へと変わっていた。


 少女を引き取ったのは一月半ば。まだ冬の寒さが厳しい頃だった。


「はじめまして」

 背筋はピンと伸ばされ、手はしとやかに膝の上でかさねられている。落ち着いた声色で深く下げた頭を上げ、まっすぐにこちらを見つめるのは、まだ恐らく小学生にも満たないだろう、少女であった。肩下まで伸ばした艶やかな黒髪は、前髪は綺麗に眉の上で整えられ、両サイドが耳の下で束ねられている。丸く大きな瞳は、座敷に差し込む光に当たると、うっすら赤茶がかって見えた。言うなれば大和撫子のような少女が浮かべた微笑みは、その歳の子供が持つ雰囲気とはかけ離れている。この子が生まれてからどんな教育を受けてきたのか、男はかつての自分を思い出した。

 勘当同然で飛び出した十四年前には、こうしてまた家の敷居を跨ぐなど、夢にまで思わなかっただろう。

 男は資産家の生まれであった。祖父の起こした繊維会社は、今や大手企業として、父の代には海外進出をも果たす。父は真面目を描いて現したような人で、日本人にしては堀の深い整った顔立ちと背丈もある。潔癖である父は、こと仕事においては誠実そのもので周囲の信頼を集めていた。その外見と立場から否応なく女性の注目を受けていたが、若くして祖父の取り決めた女性を妻に迎えた。それが、男の母である。母の家系は代々政界と繋がりを持つ名門であった。どういう縁か、少なからず祖父に資金援助をしていたそうで、そこの一人娘と見合いの話がきた時点で、父に断ることはできなかったのだ。愛のない結婚。世の中は案外、そういうものに溢れている。

 男が産まれて、それが長男ともなれば、父は周囲が見ているのも耐え難いほどの教育を施した。文武両道であれと、男を様々な習い事に通わせ、帝王学をも自ら教えた。時に男が泣くことがあれば、力で抑えつけ、自分の意にそぐわない場合は、痛みによる躾が当たり前となった。跡継ぎであるが故に、父だけではなく、周囲からも否応なしに重圧が与えられる。

 気づけば男は、まるで人形のように心を閉ざしてしまった。自分の意思など何もない。ただ父の言う通りに動き、学び、父の望む自分である。たった一人、父から男を庇ったのは母であったが、その母も、男が八つの秋、病気でこの世を去った。記憶の中にある母は、いつも泣いてばかりいた。

 男が父に反抗的な思いを抱くよになったのは、それからのことだったか。母が死んですぐ、ある日父は男の知らない女性と、小さな男の子を連れて帰った。

「今日からこの人がお前の新しい母親になる。この子はお前の弟だ」

 それは父が、これまで男と母のことをどう思っていたのかを知るには十分な出来事だった。

 男がその後の生活に耐えられなくなるのは一八になる頃だ。そんな過去を遠い昔に感じるほどに、時が経っていたのだと、男は先日思い知った。

 先日。男が自宅のポストを覗くと、1通の手紙が届いていた。その白い封筒は簡素でありながらも上品な手触りで、差出人の名前も住所も書かれていない。しかし男には、その送り主が誰なのか用意に判定することができた。封筒の表面にある美しくデザインされた「花」の文字。男の父が私用で出す手紙に使われるものだった。「花」は苗字の頭文字だ。家を飛び出して以来一切の連絡を絶っていたのだが、男の職業でもいつかは父の耳に届くと分かっていた。いや、情報力のある父のことだ。実際にはもっと早くに、男の所在は知られていたのだろう。

 男はリビングへ戻ると、黒い革製のソファへどかりと座りこんだ。目の前のローテーブルに置いてある飲みかけの紅茶を口にすれば、いつの間にか乾ききっていた喉に、心地よい香りと潤いが広がる。ようやく落ち着いた男は、意を決して手紙を開封した。手紙は簡単な挨拶もなく、本題だけが淡々と描かれたものであったが、

「え……?」

『先日、事故で義弟が死んだ』

 その文に、男は思わず目を疑った。あまりにも突然のことで、理解が追い付かないのだ。義弟が死んだと、ただ一言告げられても現実味が湧かない。そうして事故の詳細について書かれいているのを読んでいる間、男は奇妙な違和感を覚えた。そもそも連絡を絶ってから、男は身内の訃報すらも届かないと思っていたのだ。弟の死を伝える為だけに、あの父がはたして手紙を出すのだろうか。この手紙の真意は他にあるのではないかと。男に考え得る最悪の答えは、しかしすぐに覆された。

『その義弟の娘を、しばらく預かってもらう』

 有無を言わせぬといった言葉だ。

 なるほどな……。

 やはり父はこういう人だと、男はため息をこぼす。結局のところ、義弟が結婚して子供を授かっていたことも、その妻が娘を生んですぐ亡くなっていることも、男の予想通り連絡のなかったものだ。ここに書かれていたのはただ、姪を預かれと言う上での経緯説明に過ぎないのだ。これでもまだマシな方か。あの人ならいきなり姪を送り込んでくることもやりかねない。

 男はさて、どうやって断るべきかと、一方的に引き取り日が記された手紙を無造作にテーブルへ投げ置いた。

 そして約束の日。分かっていたことだが、手紙にも電話にも返答はなかった。こうなっては直接断るしかないと、男は重い脚を引きずり帰省した。通された待合室には義母ともう一人。

「きょうから、よろしくおねがいします」

 そう、目の前の少女が既に居たのだ。

断るつもりで実家を訪れた男だが、少女に一度会ってしまったら、一目見てしまえば、もう男に断ることなどできなかった。男は少女を通してかつての義弟を見た。五歳年の離れた義弟は、幼い頃いつも男の後ろをついて回った。腹が違えど男にとってはじめての兄弟だ。男もそれなりの愛着を持っていた。しかし、歳を重ねるごとに義弟は男と距離を持つようになり、父に反抗して自分のことばかりで余裕がなかった男には、そのことすらも気づけなかったのだ。今思えば、自分の行動はあまりにも自己中心的で幼いものであった。自分がいなくなれば、必然的に義弟に全てが回る。それを知っていながら、男は逃げてきたのだから。何年もかけてようやく忘れかけていた。拭い去れない罪悪感が、再び男を襲った。最後に見た義弟はひどく傷ついた表情で、どこまでも暗い瞳が男を飲み込むようだった。

 これはただの自己満足でしかない、愚かな考えだと思う。おそらく父もこのことを見越していたことだろう。罪償いにもならいと知りつつ、男は少女を引き取ることを決めた。

 男は都内の高層マンションに住んでいて、少女一人面倒を見れるだけの余裕はもっていた。というのも、男は数々の賞を受賞してきた作家であるが、独り身なせいかこれまでの賞金やら何やらは、ほぼ手を付けずともさほど生活に支障はなかったのだ。数ある部屋のほとんどは物置きとなり、本ばかりが雑多に積み上げられていた。男はその日のうちに業者を呼ぶと、いちばん広い一室を少女の使える部屋にあつらえた。

 それから二人の生活が始まったが、はじめの頃はそれこそ少女にどう接したものか、男はまったくの手探り状態であった。少女は聞き分けの良い子で、何の非の打ちどころもない。男が仕事で自室に籠っている間は、まるで存在すらしていないのではと疑うほど、静かなものであった。見事に、大人にとって都合の良い子だったのだ。その上、子供らしさを無理に作っているようで、男はしばしば気味が悪く思うことさえあった。

 少女が来てしばらくのこと。男は珍しく外出をした。少女からこれといって物を欲しがることはないが、必要最低限の物だけが置かれた部屋はあまりにも簡素であった為、男の方が耐えられなくなったのだ。女の子であれば、もっと物で溢れていても良いのではないか。特に本来であれば遊びたい年ごろだろうと。

 男は普段行くことのないショッピングモールへ足を運んだ。様々な年代に向けられた店が所せましと並び、平日であっても予想外に人であふれている。男はとりあえず子供向け玩具の店を見つけると、店内を物色した。しかし、どれが少女のいちばん喜ぶ物なのか皆目見当もつかない。悩みに悩んだ末、無難であろうと、男は大きなぬいぐるみを三つ抱えて帰宅した。

 家に着いた頃にはすっかり日も暮れて、少女は眠ってしまっていた。あまりにも穏やかに眠っているせいで、起こすのも忍びなく、男はカーペットの上にぬいぐるみを置くと、静かに部屋を後にしようとした。

「ん……おかあさん……おとう、さ……」

 男が静かにドアノブに手をかけた時だった。寝返りをうった少女は、そう小さく呟いた。ドアの隙間から差し込む光が少女の顔を照らす。その一瞬、少女の目元は光って見えた。

 ああ、そうだこの子は、普段そう感じさせないだけで、まだほんの六歳の少女で。感情を表に出さないのはそういう教育をされてきたのだと、頭では理解しているつもりだった。ただ、少女と一方的に距離を置いていたのは、自分だったのだ。距離を置く者に対して、相手も適切な距離であろうとするのは、当たり前のことだ。こちらから歩み寄ろうとしないで、どうして相手が心を開いてくれるというのか。

 春を迎え、少女は小学校へ入学した。桜が散り、梅雨が過ぎ。少女との日々は目まぐるしく過ぎていく。

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