きっかけ

春野 涼

プロローグ

 少女の目の前の男は動かない。白く大きな箱の中で、きれいな布に包まれて、仰向けになっている。その箱の周りにはたくさんの百合の花が添えられ、青白い肌の男が同化して見える。姿勢良く椅子に座り、ぼんやりと男を眺める少女を、周囲の大人は遠巻きに見ている。たまに少女に近づく者たちは、皆口を揃えて「お父さんは眠っているのよ」と、わざとらしく涙を流す。

 けれど少女には目の前の男、父親がどうしても眠っているようには見えなかった。少女は、何度か見ただけの父の寝顔を思い出す。顔色はもっと明るく、鼻から空気を出すわずかな風が感じられた。時々長いまつ毛が揺れて、右目だけはいつも数ミリ開いている。いつだったかそのことを少女が指摘すると、昔からの癖でどうしてもそうなってしまうのだと。苦笑いを浮かべた。手で触れると暖かくて、胸は上下に動いていた。耳を近づけると、ドクンドクンとかすかに音が聞こえてくる。しかし今は、両目ともきちんと閉じられ、触れずとも手を身体の近くにもっていくだけで、ひんやりとした空気が流れているのが分かる。

 そう、父親は眠っているのではない。死んでいるのだ。もう父は二度と目を開かないし、その瞳に少女を映すことはない。だからたまに少女を見て、悲しいような困ったような、苦しいような表情でため息をつくこともない。その口で、声色で、少女の名前を呼ぶことはない。何度も繰り返し聞かされた「女らしく」も、「良い子」も、「いらない子」も。もう少女には聞こえない。


 少女がそのことを理解したのは四歳の頃だ。物心ついたときには母はおらず、父と二人で暮らしていた。といっても、少女はほとんどの時間を父の実家で祖父母と共に過ごした。祖父の屋敷には二匹のゴールデンレトリバーがいて、一匹は母親でクイント。もう一匹は息子のボルク。父の実家はとても大きく、祖父は厳しい人であった。その為少女は預けられている間、ほとんど外出を許されなかった。同年代の友達も持たない少女には、一人で遊ぶ以外は二匹としか遊ぶ相手がいないのだ。いつしか二匹は、それは自覚のないものではあるが、幼い少女にとって唯一心の開ける存在となる。二匹もまた、昔から世話をしていた使用人以上に、少女には懐いた。

 例えば、まだ歩くこともできなかった幼い少女が、眠っているボルクの背中に這い上がることがあった。それを見ていた使用人は、勝ち気なボルクが少女を振り落としてしまうと、咄嗟に駆け寄ったが、ボルクは首だけを背中に向け、なんでもないよにまた眠りはじめた。少女が傍にいるときは、不思議と大人しかったのだ。

 また、少女が二本足で立って間もない頃。庭でたどたどしく歩く少女の後ろを、クイントが見守るよう付いて回った。それから毎日のように、広い屋敷の庭を少女と二匹は散歩するようになったのだ。

 雨の降っていたその日は、少女は座敷で一人折り紙をしていた。いつからそうしていたのか、ただ与えられたもので遊ぶ。少女の手元には色鮮やかな和紙で折られた、たくさんの鶴が置かれていた。雨が少し小降りになった頃、雨音に混じりかすかに声が聞こえた気がした。小窓を開けて耳をすますと、ボルクの鳴き声だ。不思議に思い部屋から出ると、ちょうど使用人の女性とすれ違う。

「お嬢様。どこへ行かれるのですか?」

「ボルクがないているの。だからそとへ……」

 少女が話終えるのも待たず、女性は慌てたように言葉をかぶせた。

「それはいけません。濡れてお風邪を召されては大変です。ボルクでしたらきっと、散歩へ行きたくて鳴いているのでしょう」

「でも……」

 あの鳴き声は、誰かを読んでいる気がした。いつも一緒にいた少女だから感じたことだが、続く言葉は出てこなかった。ただ心配そうに外へ目をやる少女に、女性は視線を合わせてほほ笑む。

「昼には雨があがりますよ」

 少女は微かにうなずいた。

 祖父の書斎から鳴り響く、一二時を報せる柱時計の音。それがいつも散歩に行く時の合図だった。空はすっかり晴れ間がのぞき、少女は同行者も待たず急ぎ足で玄関へ向かった。すりガラスの向こうに見える影は、おそらく待ちくたびれたボルクだろう。クイントはたいてい、小屋で寝ていることが多い。

 重たい扉を開けた少女の目に飛び込んできたのは、石畳の上で横たわっている、クイントだった。

「クゥーン……」

 ボルクは力なく鳴いて、クイントの周りを歩いては、時々顔をすり寄せた。

「ワン!」

 少女に気づいたボルクの鳴き声で、我に返る。慌てた少女が玄関から「誰か」と叫ぶと、声を聞いてすぐに先ほどの女性と数人が駆け付けた。使用人たちは玄関先に見える様子にすべてを理解し、少女を一度室内へ入れた。

 次に少女が会ったクイントは、声をかけても触れてみても、もう動くことはなく。以前母親のことを聞いた時だったか、誰かの言っていた、これが死ぬということなのだと、少女は幼いながらに思った。


「きっとまだ幼くて、父親が死んだことが分からないんだわ」

「かわいそうに。それで泣くこともできないのね」

 どこからか聞こえてきた声に、少女はわずかに肩を揺らす。少女はたしかに泣いていなかった。しかし、仕事ばかりでほとんど家にいることがない父親だったが、それでも、たった一人の家族であった父の死が、悲しくない訳がない。クイントが死んだ時もそうだった。

 少女はただ、泣くことができなかったのだ。

 いつだったか、祖母は少女に「あなたが男の子だったら」とこぼした。祖父は少女とほとんど口をきかず、いつも冷ややかな視線を送る。父は「迷惑をかけない良い子でいなさい」と、口癖のよに言った。女として生まれたいらない少女は、捨てられないように、誰にも迷惑をかけない良い子であろうとしたのだ。

 もし自分が泣くことで、誰かの迷惑になってしまったら。そう思うと、涙を流すことなど到底できなかった。

 薄く噛み締められた少女の唇に、だれも気付く者はいなかった。

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