第四話「15」
「おはよう」
彼女は今日も八時半に家を出てきた。いつもより少し元気な声だったような気がする。今日は十五夜だ。
彼女の笑顔は俺が奪ってしまったのだと知ったまま、迎えた十五夜。
けど、どうにもできない。
自分の胸には穴が開いていた。それは物理的に。何かが貫通したのだろう。これがきっと、俺の死因なのだろう。
彼女は一人、学校へと向かう。
その日、俺は彼女に挨拶を返さなかった。
言葉は届いていなかった。気づけば最近の記憶もあいまいなものばかりだ。彼女に話しかけた記憶しかない。彼女を見つめた記憶しかない。彼女を追いかけた記憶しかない。
学校で授業を受けたり家に帰ってきたり、そんななんの変哲もない日常があったはずなのに、そんな出来事には靄がかかったように、俺の中で存在していない。
死んだんだ。実感しても実感できない。目の当たりにしただけで理解できていないってことだろう。
俺はあの日のまま時が止まっている。彼女の時間は動き続ける。
あの日のことをやっと思いだした。
「望月っ!」
そう叫んで飛び込んだ。最後に見たのは彼女の涙。体に異物が混入した感覚と、どうしようもない暑さを感じた後、急激に冷えていくごちゃまぜの世界。
その瞬間に何かを考えるような余裕も暇もなく。彼女の体が傷ついていないということだけが、最後の救いで、安心していたような気さえする。
それでも、彼女を今傷つけてしまっている。俺の行動が至らなかったせいで今の現実がある。でも、もう、何もできない。
それでも、もし叶うなら15センチの距離に戻りたい。心だけでも、なんでもいい。小さくても欠片のようにちっぽけでもいい。俺が彼女のためにできることがあるのなら。
いや、ちがうだろ。
俺が今ここにいる理由はなんだ。なんでまだここにいる。彼女に必死に歩み寄ろうとして、失敗して失敗して失敗して。それでも俺は彼女に語り掛け続けた。続けなければいけなかったはずなんだ。
「くそったれがっ!」
俺は走り出す。見えなくなった彼女を追いかけて。
おはようってそう言うだけだってよかったんだ。少しでも近くにいなくちゃいけなかったんだ。彼女がそれを望んだのなら、そうしなければならなかったんだ。
届かなくてもいい。聞こえなくてもいい。彼女が俺を見てくれなくたっていい。
その一言は彼女に送る俺の言葉。俺の心を信じて、15センチの距離を信じて俺にかけてくれた彼女の言葉。
彼女が気づかなくったって、俺が気づいてる。俺が返さなかったら。それは言葉にならないじゃないか。
学校へ続く坂を駆け上がる。死んでるのに息切れするのはなぜだろう。苦しいのはなぜだろう。悔しいのはなぜだろう。彼女を思い続けるのはなぜだろう。
見える彼女の背中。そこに俺は求めない。彼女の幸せ以外何も求めない。
「おはよぉっ!」
彼女が俺を求める限り俺はここにいる。そんな思いを込めた叫びに彼女が振り返る。目は合わない。言葉は届かない。想いも、心も届かない。でも、届けようとしなくなったら、絶対に届くことはないから。
彼女はまた学校への通学路を歩み始める。仕方がないかもしれない。でも、これでいい。
「何度でも言ってやるよ。おはようって」
まずは、それでいい。彼女が振り返ってくれた。それだけでもきっと奇跡だから。
「今夜はきれいな満月になるといいな」
誰が聞いているわけでもない。いや、誰かに届くわけでもない言葉。それでも、空に輝く月にくらい、俺の気持ちは届くはず。そう思った。
その日の夜は見事な満月になった。
家の電気は消えていた。彼女は今日もベランダに一人たたずみ空を見上げる。
赤いリボンを握りしめ月を見つめる。欠けることなく輝くその月に、彼女は俺を見ているのだろうか。
いや、違う。きっと未来を見ているんだ。
「なあ、望月」
言葉は返ってこない。向き合っても、何も伝わらない。それでも、俺は話しかける。
「俺なんかのこと忘れちまえよ。苦しくなるだけなら忘れちまえよ」
自分が望んでない言葉。彼女も望んでいない言葉。それでも、彼女を目の前にすると想いがあふれて、知ってしまったが故のどうでもいい言葉があふれて。
どうしても逃げ道を作ろうとしてしまう。
それじゃだめだ。
「もう一度お前に会えるなら。もう一度お前と15センチの距離を感じられるのなら。お前のその不安を取り除いてやりたい。……なんて、わがままだな」
傲慢で、できもしない御託かもしれない。でも、ここに俺がいることは本当で、今、君を見ているのも本当で、君に言葉を伝えたいのも本当で。
彼女が握りしめたリボンの結び目は14個。15に届いていない。一つ欠けたピース。そんな気がした。
彼女は瞳を瞑る。リボンを胸元で大事そうに握りしめながら。その手に包まれたリボンは彼女の心そのものだ。そう思った。
触れられる。15センチの距離であるのなら。きっと彼女の想いに、気持ちに、届くはずだ。
「あえなくてもいいよ……」
彼女がそういった。でも、それはきっと彼女の本心ではないはずだ。だから、俺は彼女の持つリボンを握りしめた。
「心が届けばいいよ」
届いている。きっと、ずっと、もっと前から。だから結ぶ。そのリボンを完全なものにするために。固く、固く、結ぶ。俺たちの心が15という距離になるように。想いを形にするという行為。それが15個目の結び目。
「俺は会いたいよ」
言葉がこぼれた。封印すると決めたばかりの欲望が漏れた。でも、
「えっ……」
彼女と目が合った。君への想い。彼女の想い。それがきっと15センチという距離だから。
「俺は会いたかったよ」
「私、私も……でも、だって」
空から降り注ぐ明かりは月光とは思えないほどにまばゆくて、近くて、青白く俺たちを照らした。
「俺は俺だ。でも、夢かもしれないし、幻かもしれない。それでも、俺は俺で……」
うまい言葉が思いつかない。それでも彼女は、
「……ねえ、聞いていい?」
いつものように笑いかけてくれる。
「……なに?」
「私たちの距離は何センチかな?」
「っ……」
知りたかった。俺も、きっと彼女も。知りたくて、聞きたくて、聞けなくて。答えていいのかわからない。きっとこれは、十五夜の月が見る夢だから。
でも、目の前の事実が答えだと言うのなら。
「15センチだよ」
そういう以外に答えはなかった。
「ずっと? この先も?」
「望月が受け入れてくれるなら」
「うん……うん!」
彼女の満面の笑みが涙で染められる。
わかっていた。永遠なんてものはない。俺は死んだ人間で、彼女には未来があって。
それでも、薄れていく記憶の中で俺という存在があったことを忘れないでほしかった。覚えていてほしかった。
これから先の彼女の人生を支えてくれる誰かのそばにいるときでも、俺のことを頭の片隅で覚えていてほしかった。でもそれは、単なる俺の我儘で、身勝手な気持ちだ。
それでも、彼女の過去になれるなら。きっと、彼女を未来へつなぐ架け橋になれたと思うから。
「なあ、望月」
「……なに?」
「ありがとう」
「え……」
きっと、最後に言っておかなければならなかったのは、感謝の言葉だろう。俺の心残りなんてそんなものだ。でも、とても大切なものだ。
「私は感謝されるようなことなんて……だって、私のせいで死んじゃって……」
それは、きっと違う。
「死なんて早いか遅いか。いつか来る。だから大切なのは密度なんだと思う」
「密度?」
「大切な人。大切なもの。大切な距離。俺は恵まれてたよ。清水望月ってやつに会えたことが何よりも大きな結果だ。俺は、それで満足してる」
「……」
彼女は声を押し殺していた。それでも涙は止まらず、ただ、俺を見つめていた。
「泣くなよな。この先もあんな落ち込んだ態度してたら許さないぞ?」
「……うん」
本当にわかってるのかよ、こいつは。……くそっ……なんで俺は死んじまったんだ。
「あんな覇気のない挨拶じゃだめだぞ?」
「うん」
もう二度と返せない。彼女におはようって。笑いかけてもらうことすら許されない。
「前を向けよ。んでもって全力で生き抜いてからこっちにこい」
「……え?」
「……あれだよ」
「あ……っ」
振り返ると、そこには青く輝く満月があった。きっと今日の月は、15倍近くて15倍大きくて、15倍輝いているに違いない。
月は死者たちの国。そんな話を聞いたことがある。死後の国〝ピトリス〟から彼女を見守り、彼女を待つ。もし、それが許されるのであれば。
「おばあちゃんになったお前を待ってるよ」
「うん!」
涙をこらえ元気に笑った彼女を俺は忘れない。俺という人間が消えても忘れない。
「じゃあ、またな望月」
「うん! またね」
いつものように。代り映えのしない、なんてことのない日々のように。またね。また明日。きっとまた、そう、お互いを信じて。
心は強くつながっていた。願う必要なんてないほどに、きっと、もう。
意識が遠のく。きっと、もう寝る時間だ。明日起きれば彼女と学校に行って、バカなことやって、笑って、そしてきっと。
15センチの距離をもっとずっと近づけていくんだ。
「ん……」
耳元で彼女の声がしたような気がした。唇がやわらかく暖かなもので包まれる。
ああ、わかったよ。
これがきっと、君との距離なんだって―――
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