第三話「私の15」

「望月っ!」


 彼がそう叫んでいた姿が今も頭から離れない。


「死因は……」


 事情聴取に来た警察が言った言葉を私は忘れない。


「15センチ……」


 15センチの何だったのか。聞いたはずなのに私はどうしても思い出せない。どうしても知りたくて、半ば無理やり聞き出したことは覚えている。現実味がなくてその事実がそこにあるなんて思えなくて、信じたくない思いと、信じられないほどの現実感と、いらだちと、喪失感。そして、波のように押し寄せてくる後悔。


 ケガはないと言い渡されながらも病院のベッドで私は横になっていた。そのまま、どこかに走り出したいような感覚が自分を包む。どこに行きたいのか。どこに行こうとしているのか。何もわからない。


 でも、彼の所にはいきたくなかった。事実が確信に変わってしまったら。私はもう、ただそこにいることすらつらく苦しいだろうから。そんなことを考えることさえ容易ではなかった。


 彼の顔、彼の声、彼の言葉、彼との日々、彼への思い。ただそのすべてに涙がこぼれる。意味の解らない涙がこぼれる。思いだそうとするたび、心が、頭が、記憶を拒否してしまう。もう、意味のない涙をさらしたくなかったから。これ以上はきっと、自分を保てなくなるから。


 でも、覚えている。私と彼をつなげたものが15センチという距離で、私と彼を引き裂いたのも15センチという距離であると。


 覚えているから私は、15センチが嫌いになった。


 親は私が精神的に不安定な状態であると知っていた。それを伝えたのは医者であろう。すぐに退院の日取りが決まった。でも、そんなことはどうでもよかった。

いや、良くない。


 不安だった。どうということのない日常に戻ることが。あの場所に戻ることが。彼との思い出が残るあの場所へ……。


 行きたくない。


 本当はそう思っていた。でも、そういうわけにはいかないということくらい、十分に理解していた。


 事件後の朝。家を八時半に出た。彼がいつもこのくらいの時間に登校するから私もこの時間に起きるようになったんだ。ドアを開けて、行ってきますって言って、制服姿で外に出て、向かいの家が彼の家で、その家から出てきた彼に向かって、


「おはよう」


 そう言うはずなのに、彼はそこにいなくて、言葉は返ってこなかった。自分の声が小さいからだろうか。そう思っても、もう一度言うような勇気はなかった。私は逃げるように学校に向かった。


 学校でも彼の死は知れ渡っていた。教室内で飛び交うのは心配と落胆の声。いや、そうじゃない。ただ、起こった事件に興味があって好奇心があるバカな奴らが、うわべだけの言葉を並べているんだ……本当は。


「かわいそうに」


 誰かがそういった。


「清水さん仲良かったもんね」


 同情の言葉は私に向いた。


「つらいと思うけど……」


 思うけど、なんだっていうの。元気を出してっていうの。大丈夫だとか無責任な言葉を並べるの。私のせいじゃないとでもいうの。


 違う。


 違う、違う、違う。


 私が15センチのハイヒールなんて見つけなければ……買わなければ……履かなければ……転ばなければ……前をあるっていなければ……。15なんてものにこだわっていなければ。


「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 私は泣き叫んでいた。抑えの利かない理性はどこかに吹き飛んでいて。嗚咽をまき散らし、ただ気に食わない言葉に当たり散らし、教室のど真ん中でわめいた。


 その日から、学校で彼の話題が出ることはなかった。


 ただもう一度。いや、会えないのはわかっていても。それでも彼がほしかった。なんでもいい。どんな形でもいいい。彼がほしかった。


 彼の傷を覚えている。彼の温かい血を覚えている。手にあふれる彼を覚えている。それが、最後だと覚えている。苦しそうな笑顔が最後だと覚えている。最後であってほしくないと、そう叫んでいる。誰でもない私が。そう叫んでいる。言葉にならない声で。届かない声で。


 私と彼の今の距離は……。


 思いだす。15センチの距離を。


 いつも一緒にいて。彼という存在が自分にとってかけがえのないものになっていると気づいていた。


 15センチ以内。本当に近しい人同士の距離。それを私は、精神的な意味でもあるといった。彼はそれに肯定で答えてくれた。だったら、私と彼の距離は今も15センチなのだろうか。


「違う……違うよ……」


 離れてしまったら確かめられないから。わからないよ。

でもきっと、本当の意味で嫌いになんてなれはしないから。15という彼との思い出を。


 夜。星が輝く。月も……。


「……そうだ」


 思いだす。月が空から姿を隠していて、その姿で母の言葉を思い出す。新月の晩から満月の晩にかけて願いを込めて捧げる赤いリボン。毎晩ひとつづつ想いを、願いを込めながら赤いリボンに固結びを作っていく。満月の夜には14個の結び目ができていて、そして……。


「大切な人との心が結び付けられる」


 いてもたってもいられなかった。私は立ち上がり駆け出した。家を飛び出し、走った。


 心臓の鼓動が大きく騒ぎ立てる。少し走っただけですぐに息が上がってしまう。どうしようもないほどに緊張した体は苦しささえも希望であるように感じさせた。自転車に乗ればよかったとか、そんな理屈はそこにない。今、私は走るのだ。

 

 どこでもいい。赤いリボン。最後の希望。明日の晩が新月で、だから、彼との心をつなぎとめておかなければならないから。これがきっと最後のチャンス。疑わなかった。きっと何も起きないとか、なにも変わらないとか、そんなことは微塵も考えなかった。


 光が差したようなそんな気分だったんだ。


 デパートに駆け込んで赤いリボンを買った。


 デパートを出ると目的を果たした実感からか、途端に脱力してしまう。われに返って涙が出る。本当にどうにかなるかはわからない。心なんて目に見えないものに縋っているのだから。きっと、わからない。何かが変わったのだとしても。私にはきっとわからない。


 それでも。そこに少しでも希望があるのなら、私はどうしてもあきらめきれなかった。


 夜空を見上げる。買ったばかりの赤いリボンを握りしめ希望を空に見出すように。


「お願い」


 願う。まだ見ぬ十五夜の月に。15の奇跡を願う。


「お願い」


 この気持ちを。


「お願い」


 どうか。


「お願い」


 彼のところまで届けてほしい。


 ただ、そう願い続けた。だから。


「おはよう」


 翌日の朝も8時半に家を出た。彼のいない、でも、いるはずの場所に向かって思いを届けるかのように、独り言のようにつぶやいた。


 でも、言葉の中に混ざった悲しみや罪悪感は決してぬぐえない。


 だから、きっと……心からの思いが彼に届きますように。



 その日の晩。新月の夜。私は赤いリボンに最初の結び目をつけた。彼への思いを

形にして伝えるために。心の距離をもう一度15センチにするために。


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