第二話「十五夜の赤い結び目」
「あれ……。今日は、遅かったな」
日も沈みかけた夕暮れ。帰宅してきた彼女の横顔を橙色の空がぼんやりと照らし、その後ろ姿から感じられる悲壮感は俺の言葉を詰まらせた。家の前に立ち尽くす彼女の姿は出会った頃の面影などないほどに活力の感じられない抜け殻のようだった。今の俺も他者の目にはあんなふうに映っているんだろうか。彼女自身もまた、俺をそうみているのだろうか。
「……」
こちらに振り返った彼女は悲し気に無言で。
「なにか、言ってくれよ」
俺はやっとの思いでそれだけの一言をひねり出す。悲痛で静かな叫び。彼女は今日も俺の言葉に無言のまま。ただ、家へ歩を進める。
「ちょっと!」
どうしても話がしたかった。明後日に迫った十五夜の日まで、彼女に悲しげな表情をしてほしくなかったから。どうしても、それまでに話がしたかった。
そう、強く思うと体は勝手に動いた。でも、彼女は家へと入ってしまう。ドアが閉まり鍵が閉まり俺は彼女の家の玄関先で一人立ち尽くす。ここまで拒否されたら、もう、声を出す気力さえ残っていなかった。
いや、違うか。これ以上拒絶されたくなかったんだ。だから怖くて言葉が出ないんだ。
地団太を踏みそうになる。体の中になにかやり場のない力がこみあげてくる。
俺にどうしようもない現実を突きつけてくる自分の気持ち。
くそったれが。
決して口に出してはいけないと思った。でも、心の声まではふさぎ込むことができなかった。
そんなとき彼女の家の裏手のドアが開く音がした。庭へと出るガラス張りの引き戸は彼女が庭へと出たことを告げていて、俺にチャンスを与えてくれたのだと思った。
心臓の音が彼女にまで聞こえてしまいそうだ。けど、気にしている余裕はない。
芝生の広がる裏庭へ飛び込むように駆け込む。もう、我慢ができなかった。
「なあ! 話、聞いてくれよ!」
気づいたら叫んでいた。このまま停滞し続けるのが嫌だったから。何かを変えたかったから。俺は彼女に叫んでいた。でも、
「……」
彼女はこちらを見もせずに空を見上げた。日が落ちた。夜は彼女の顔を遮る。もどかしい。もっと近づけば彼女の気持ちがわかるだろうか。
15センチの中に入れればわかるのだろうか。無意識にそう思った。
一歩。二歩。
近づいて、見えた。光り始めた星の中、うっすらと姿を現した月の光を見つめる彼女の姿。彼女の頬に流れる涙。星に願いかけるように月に何かを求める彼女がそこにいて、俺の存在がここにはないように感じられた。
「お願い」
彼女は星に願いかけていた。
「お願い」
彼女は月に祈っていた。
「お願い」
彼女は必死に瞳を閉じた。
「お願い……っ」
俺は何もできない。何にそんなにも苦しんでいるのか。何をそんなに願っているのか。求めているものさえわからない。でも、俺ではきっと埋められないなにかがそこにあるのだろうと、そう思って。自分の無力さにやるせなさが募る。
彼女が手に握るのは赤いリボン。そこにはいくつもの結び目がついていて、そこにまた一つ、結び目が増えた。
「リボン……?」
彼女が思いを乗せた赤色のリボン。その意味は解らなかったけど、でも。わかりたいと強く願った。
でも、知りたくても話しかけられない。だから、その場を後にした。
翌日は休みだった。
彼女は出かけた。手に赤いリボンをもって。可愛く結われたポニーテールと白いチュニックにジーパン。彼女がおしゃれをしている姿。なのにその表情は重く苦しく険しい。あまりにも相反した彼女の姿と重い足取りに、俺は声をかけることができなくて。
それでもきっと彼女の行く先には赤いリボンの答えがあると、彼女の苦しみの答えがあると思った。だから俺は彼女の後をつけた。決して褒められた行為ではないけど。それでも俺は彼女の力になりたかったから。
彼女の進む道はどこか記憶にあった。電車を乗り継ぎ街に出て商店街を抜ける。俺が彼女と靴を買った思い出のお店もあった。でも、彼女の意図がわからない。思い詰めて来るような場所ではないはずで、悲しみがあふれる場所でもないはずで。でも彼女は足を止める。
工事現場の前。建設途中のビルの前。喧騒はなく至って静かで、工事などは行われておらず工具も重機も見当たらない。
そこにあったのは、ただ、不釣り合いなものだった。
花束。
亡くなった人に手向けられているのだろうか。事故、だろうか。でも、そこで亡くなった人の存在が彼女にとって大きかったのだということは確かだった。
人の死。
それはきっと、俺程度では到底どうすることもできない絶対的な別れ。事実を知って、その重みを目の当たりにした。わかる、なんて言葉でいうのは簡単だ。でも、その苦しみは他人が理解できるほど単純なものではない。
彼女はしゃがみ込み花束を見つめた。涙はない。流れる涙すら枯れてしまったのだろうか。そう思っていると。一粒のしずくが彼女の頬を流れる。
「えっ……」
彼女は驚いたようにしずくをぬぐった。
心があふれて、自分の心すら制御しきれずふいに流れる涙。
きっとそれは、我慢することも許されない涙。
「望月……」
俺の足取りも重くなる。
思えば自分のことばかり考えていた。結局は彼女とまた話したくて、こっちを向
いてほしかっただけ。無神経に彼女に縋りつこうとしていただけ。本当の意味では
彼女の苦しみも痛みも分かち合おうとはしていなかった。
身勝手な自分。小さい自分。うわべできれいごとを並べていた自分。
それをはっきりと自覚したから、今ならもう一歩……いや、半歩でもいい。前に進めると思った。いや、前に進みたいと思った。だから。
「望月」
俺は彼女の横に立ち、座りこんだまま地面をにらみつけた彼女を見つめる。
「ごめん」
何に謝ったのか自分でもわかっていなかった。でも、謝らなければいけないと思った。彼女の気持に寄り添うつもりでいながら何もできなかった、いや、本当は寄り添ってもらおうとしていた自分の行動に区切りをつけるべきだと思った。
でも。
「お願い」
彼女はうつむいたままそう言った。こっちを向いてほしかった。
「お願い」
君とまた笑いあいたい。
「あなたとまた笑いあいたいよ」
君とまた歩きたい。
「あなたとまた歩きたいよ」
君とまた話したい。
「あなたとまた話したいよ」
でも、
「でも、かなわないんだよ……」
俺が彼女に向ける気持ち。彼女が、大切な誰かに向ける気持ち。それは同じよう
に見えてどこか違うのかもしれない。だって、彼女は今目の前にいて、彼女の求め
ている相手はそこにいないのだから。
「それでもお願い」
彼女にとって、その赤いリボンはどれだけの意味があるのだろう。握りしめる。
そのリボンが最後の命綱であるかのように。優しく、でも乱暴に握りしめる。
「もう一度戻りたいよ。あの15センチの距離に……」
「っ!」
彼女の言葉に鼓動が速くなる。15センチという距離を彼女が求めていたから。
俺ではない誰かに彼女がその距離を求めていたから。
いや、きっと違う。……そう確信したのは、
「ねえ……」
そう言った後に彼女が呼んだ名前を聞いた瞬間だった。
彼女の顔と声音と、そのすべてがあの日、俺に向けられていたものと同じだった
から。だから俺は気づいてしまった。いや、自覚してしまった。それだけなのかもしれない。
彼女は俺の名前を呼んでいた。
静かに。でも、大きな叫びで。何度も、何度も。
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