理想を貴女と共に

 息が上がる。重たいドレスの裾が汚れないよう摘まんで、走るのに適していないヒールを手に持って、私は駆ける。自分でもどこを目指しているのかわからない。ただただ屋敷の外を走る。背後から私を呼ぶ声が聞こえなくなって暫く。そして、ようやく辿り着いた。


 月の光を反射するそれは、たった一週間ぶりなのにどこか懐かしい。鍵のかかっていない入り口の柵を開け、私は憑りつかれたように中へ入る。足裏からコンクリートの地面の冷たさを感じる。ゆらゆらと揺れる水面は、私を誘う。


 私はドレスのまま、水の中へ飛び込んだ。ボコボコ、空気の泡が耳元を掠める。優しい世界に全身を包まれ、倦怠感やゆりかごの中にも似た感覚に身を委ねる。この世界はこんなにも優しい。それなのに現実は、


―――カチャンッ、カチャ―――


 突然鼓膜を劈いたのは、鬱陶しい刃物の音。金属のそれは、何かにぶつかったような反響音だ。不快であると同時に、何かを訴えかけてくるようなそれは、優しい世界に必要ない。


――――カチャ、ン――――


 だけどそんな音を立てられても、私は浮かぼうとしなかった。水面から顔を出せば、現実に戻る。それだけは嫌だった。だけどここは水の中。呼吸はだんだんと苦しくなっていく。体は酸素を求めるが、私は底深くへと目指す。ひらひらと舞うドレスはまるで人魚にでもなったようで、


―――カチャ、カチャ、―――


 うるさかった。煩わしかった。何もかも。

 聞きたくなかった、あんな音。あんな音を―――――父に出してほしくなかった。


 フラッシュバックが起こる。

医者として知識も経験も人柄も優秀な父だったが、それでも救えない命はあった。どんなに手を施しても、救えなかった命があった。その灯火が消えるまで、父は必死に抗った。まだ何かできるはず、何か手があるはずだと。だけどその甲斐すら虚しく、人の命は儚く消える。そして消えた後、父はいつも投げるのだ。


――――カチャン――――


 力なく、金属板にメスが置かれる。それは父が目指した理想を壊し、後悔という傷を残す。


「ッ―――!」


 音の正体が分かった時、私の体は悲鳴を上げた。口から酸素を吐き出してしまい、苦しさにすぐさま上へと泳いだ。だが予想以上に水分を含んだドレスは重量を増しており、思うように進んでくれない。それどころか、沈んでいく気さえする。

これは報いなのかもしれない。現実から目を逸らし、抗おうとせずただ駄々をこねていた私への。月の光が乱反射する水面へ、焦がれる様に手を伸ばした。


―――バシャーンッ―――


 薄らいでいった意識は、突如現れた人物によって引き戻される。伸ばした手を引かれ抱き締められると、そのまま浮上していく。


「っ、はっ―――!」


 顔が水面から出ると、私は何度も大きく呼吸をした。必要ないと思っていた酸素を、これでもかと取り込む。荒れた息がある程度整い、改めて私は彼と向き直る。


「あり、がとう…不知火…」


 もし彼があと少しでも遅れていたら、私は死んでいただろう。だが私の言葉に彼は何も応えない。むしろその表情は厳しい。


「あ、あの……ごめんなさい」


 感じる圧力に少し距離を取りたい気持ちもあるが、彼の首に回している手を離せばドレスの重みでまた沈んでいくだろう。それに私が手を離しても、腰にある彼の手が離れるとも思えない。


 私の謝罪など耳に届いていないように、彼は無視をする。だがそれでも優し気な手つきで私を支え、プールから引き上げた。


「あ、あの……」


 彼はなぜか、私を引き上げても腰にある手を離そうとしなかった。私がまた逃げ出すと思われているのだろうか。目線を上げて彼を見る。彼の髪から伝う雫が私の頬に落ちる。その雫の数ほど、不知火の表情は混沌としていた。不安げで寂し気な、それでも安堵したかのようで、だけど今にも泣き出しそうで…なぜそんな顔をするの。


「花恋ちゃん!」

「花恋!」


 訳を聞こうと口を開くも、叫び声に遮られてしまった。それと同時に不知火の手がが離れる。不意に離された手に思わず自分から手を伸ばしそうになったが、彼は一歩後ろへ下がった。


「花恋! 貴女はどうしてこんなことばかりするんですか! 四条家の皆さんに迷惑までかけて…」

「僕らは大丈夫ですよ、叔母様。それより花恋ちゃん、早く着替えないと風邪を引いてしまう。一度お屋敷に戻ろう」


 叔母の罵声と栄太の言葉を背に、不知火が離れた意味を察する。私は鼻で笑った。

 改めて、彼らと向き合う。バクバクと心臓が高鳴る。足だって震えてる。決意を口にするだけでこんなになるなんて、なんて臆病なんだ。でも、それでも私は口を開く。


「私、医者になります」


 その場に似つかわしくない言葉に、彼らはみな呆けた顔をした。一番最初に正気を取り戻したのは叔母だ。


「な、なにを言ってるんですか花恋、女子が医者なんて……それに、貴女が医者になるということは」

「はい。申し訳ありませんが、栄太様との婚約は破棄して頂きたいんです」


 私の言葉に、叔母は力尽きたように倒れてしまった。慌てて警備の人間が彼女を支える。私は栄太に向き直り、深々と頭を下げる。


「ごめんなさい、栄太様」

「……………………理由を、聞かせてくれるかな」


 寂しげな声に顔を上げ、私は彼を真っすぐ見据えて答える。


「父の追いかけた理想を、追いかけたいんです」


 父は多くの人の命を救いたいと願っていた。それでも死は残酷に、父の無力を曝け出す。そして彼はメスを投げた。だけど父は、投げた回数よりも多く、メスを手に取った。死に打ちひしがれると、その度に父は書斎にこもって医学を探求し、また診察室へ帰ってきた。患者を何人も迎えた。


「父が見た光景を、私も見たい。父が見られなかった光景も、見てみたいんです」


 それが今の、私の願いだった。

 栄太は私から一度も目を離すことなく、言葉を聞いてくれた。貰った言葉を噛み締めるように頷く。


「花恋ちゃんの気持ちはわかった。話してくれてありがとう。でも一つだけ、お願いしてもいいかな」


 傷付いた表情を隠そうと必死に笑みを作っている彼を見て、私は胸に針が刺さっているのを感じながら頷く。


「婚約は破棄じゃなくて…保留にしてくれないかな。僕は、君を待っていたい」


 僕に、心が揺らいでくれるまで。


 彼の言葉に、私は目頭が熱くなった。栄太に対して特別な感情があるわけではないが、それでも彼の想いに胸が熱くなる。こんな私でも待っていてくれるのか、と。


「はい」


 それに応えられる日が来るかはわからないが、せめて気持ちをないがしろにしたくはない。私は涙を堪え、大きく頷いた。栄太は微笑む。


「それじゃあお屋敷に戻ろう。叔母様も、休息が必要だからね」


 栄太はそういうと、警備の者たちと一緒に去っていった。私も後を追おうと重たいドレスの裾を上げる。


「花恋お嬢様」


 背に掛けられた声に、振り返る。始終を黙って見ていた彼は、口を開いては閉じ、開いては閉じてを繰り返す。そして言うべきことを探し当てたように微笑んだ。


「私は、お嬢様が理想を追いかけられるよう、尽力を致します」

「もちろんよ。私には、貴方がいないといけないもの」


 おどけたようにクスリと笑うと、不知火は驚いたように目を見開く。


「今日のダンス見てた? 栄太様の足を踏んじゃって…結局リラックスなんてできなかったの。貴方がいつも付けてる香水を付ければ良かったわ。私、あの香りが好きみたいなの」


 そういって、私は不知火に近付く。彼の首元で匂いを嗅ぐと、いつもの香りが鼻孔をくすぐる。なんとなく普段より甘い香りを強く感じ、ホッと胸を撫で下ろす。香りのおかげでようやく緊張がほぐれた。私は笑みを浮かべる。


「だから、私の傍にいてくれるかしら」


 私の願いを、彼が断ることはない。いつも快く、承諾してくれる。


「はい、喜んで」


 月の光に照らされる彼の微笑みは、とても綺麗だった。








 彼の香水が水で落とされたことを知るのは、まだまだ先のこと。










End



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優しい世界を貴方と共に 繭墨 花音 @kanon-mayuzumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ