甘さとシトラス
動きやすい簡易ドレスを身に纏い、ダンスホールでステップを踏む。
決して広くはないそこで、レッスン用のワルツが流れ、ヒールが地面を叩く音が響く。
「もっと軽やかに…、動きが硬いですよ」
「っ……」
私はダンスが得意ではない。
曲調に合わせ、リズムに合わせ、相手に合わせ、ステップを間違わず、ドレスを舞わせ、弧を描き、傍から見て綺麗に、優雅に、美しく、
「花恋お嬢様」
声と共に、突然不知火がピタリと踊りを止めた。私は勢いを殺せず、躓いて彼の足を踏んづけてしまった。
「あっ…! ご、ごめんなさい…!」
すぐさま足をどかして彼の顔色を窺う。だが彼は足のことなんて見ておらず、真っすぐ私の瞳を捉えていた。
だいたいこういう時は、彼が何か諭す時だ。
「私が申し上げたいこと、おわかりですか?」
「全くわからないわ」
間髪入れずに答えると、はぁ、と溜め息を吐かれた。
足を踏んだことではないのはわかるが、それ以外は心当たりがない。
彼は私から手を離し、距離をとった。
「楽しくないんです。お嬢様と踊ることが」
容赦なく放たれた言葉に、私はポカンと口をあける。
楽しくない? 踊ることが?
「陽気な演奏が流れ、華やかな装飾がなされ、煌びやかな衣装をお召しになられた方々がたくさんいらっしゃり、豪華な食事が用意され、その中で貴女は踊るのです。それはおわかりですよね?」
「え、えぇ。わかっているわ。だから失敗できないのよ」
私の家は他の貴族と比べ歴史も浅く、財産も少ない。だからこそ社交場では皆に引けをとらないように振る舞わなければならない。それは叔母から強く言われていたため、重々承知だった。
「違います。失敗は貴女が思っているより、案外どうにかなるものなのです。それより大事なことは、花恋お嬢様が楽しむことなのです」
「た、たのしむ?」
「はい。一緒にいて楽しくない人と、貴女は仲良くしたいと思いますか?」
「……思わないわ」
「社交場は人との縁を繋ぐためにあるものです。決して自分たちを大きく見せる場所ではありません。だからこそ、楽しむことが大切なんです」
不知火はそう言って、微笑んだ。
正直、突拍子もないことを言われ面食らってしまった。だけど彼が伝えたいことはなんとなくわかる。
「どうすれば、楽しめるかしら」
楽しんでと言われてすぐに楽しめるタチではない。考えなくていいことまで考えてしまうし、それを遮断する術も知らない。
「それを模索するのが、今の時間です。楽しみ方は人それぞれですから。自分の好きな風景を思い浮かべたり、音楽に耳を傾けたり……お嬢様は、リラックスすることが優先ですね」
さ、お手を。
私はまだ考えがまとまっていない頭で、彼に手を差し出す。ぐっと腰を引き寄せられると、ふんわりと香水が香った。甘さの中に混じるシトラス。
不知火がいつもつけている香水。私はこの香りが好きだ。
彼が傍に寄ると香るはずなのに、踊ることに必死で気付かなかったようだ。自身がどれだけ心の余裕を失くしていたかを痛感させられた。
不知火の言う通り、まずは肩の力を抜くことから始めよう。
「そう。いい感じですよ、お嬢様」
* * * *
自室の机に向かい、ノートに今日の日付を書き込む。今日は何をしたか…何を思ったか…頬杖をつきながら振り返った。
私は毎日、日記をつけている。他愛のないことを3、4行ほどだけ。思い付きで書き始めたものだが、意外と長く続いていた。パラパラとページをめくってみる。
日付だけ見てみると、欠かさず続いている。だが不意に、大きな空きが訪れる。
父が亡くなった日だ。
それを境に、日付は一か月ほど飛んでいた。
―――コンコンコンッ―――
突然のノックに素早くノートを閉じる。
「花恋お嬢様。不知火です。」
「は、はい。どうぞ」
「失礼します」
銀色のお盆を手にしている彼を見て、あぁもうそんな時間なのかと少し寂しくなる。
私は寝る前にミルクティを飲む習慣がある。幼少期からあまり寝つきがよくなかったため、今では子守唄ような作用を果たしている。
「あぁ申し訳ございません、日記をお書きでしたか」
「いいの。どうせ、昨日と似たようなことしか書かないから」
私はノートを開いて万年筆を走らせる。
不知火が見える位置に居るが、彼は覗き見たりはしない。ミルクティをカップに注ぎ机に置くと、一歩下がって見守る。
「泳いで、怒られて、レッスンをして。私は毎日その繰り返しね」
筆を置き、変わり映えしない文章を目で追う。ページをめくっても、それは変化しない。これからページが変わっても、きっとそうなのだろう。
「今日はダンスレッスンで力を抜くことを学ばれましたよ」
「成長日記を書いているわけじゃないわ」
「ですが喜ばしいことです」
「ハッ、誰にとって?」
応えは、返ってこない。
私はもう一度鼻で笑う。
ミルクティに一口だけ口を付け、日記を閉じた。
「もう寝るわ。おやすみなさい」
不知火の顔を見ることなく、私はベッドへ移動した。
食器を片す音。革靴の音。扉の音。
「おやすみなさい」
不知火の、低い声。
静寂が訪れる。
まるで今ここで生きているのは、私だけのような、生命を感じさせない夜だった。
私はベッドに潜り込んだ。やっぱりそこは、冷たかった。
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