取るべき選択

 手を水の中へ入れ、水温を確認する。生ぬるい温度は、陽が上ったばかりの時間ではやはり少し冷たく感じる。だがそれに構わず、私はプールへ飛び込んだ。


 空気の泡がボコボコと耳元をかすめる。全身が水の中へ浸ると、私はたちまち「優しい世界」の住人になれる。心地よく、浮遊するような感覚に、私は目を瞑る。



 ―――カチャンッ、カチャ―――



 当然のように私を不快にさせるその音。どうして、この優しい世界でこんなにも優しくない音がするんだろうか。

 水にふさわしくない刃物の音。だけどそれでも、私は優しい世界が大好きだった。


 息継ぎをするために顔を上げると、プールサイドに黒い服の男がいた。当然のようにそこにいる彼を暫く睨みつけると、また優しい世界へ潜った。

 どうして私は人間に産まれたのだろうか、と悩まされる。魚なら、わざわざ水面から顔を出して息継ぎをする必要なんてないのに。今からでも、人魚にならなれるだろうか? 私は水中で一回転して、馬鹿げた考えを振り払う。優しい世界はとても心地いいが、つい思考を巡らせてしまう。


 私はプールから上がることにした。手すりを掴んで、重たい体を引き上げる。


「おはようございます、花恋お嬢様」


 プールサイドには、既にビーチチェアと小さなテーブルが用意されていた。その上にはオレンジジュースではなくティーポットが置かれている。いつもなら昼を過ぎてからプールに入るが、今日は午前のうちから入っているから体を温めるためだろう。隣にいる彼奴は、変わらない燕尾服を身に纏って微笑んでいる。


「…どうして怒らないの」


 私がぼそりと言うと、彼は首を傾げた。


「貴方は、一人でプールに入るのはダメだって言ってた。体が冷えるから、午前中に入るのもダメだって。なのに私は貴方に何も言わずにここに来たし、時間も守ってない。それに今日はピアノのレッスンもあるのにサボってきたわ。なのに、怒らないの?」


 不知火を睨み付け、私は唇を結ぶ。怒られるはずの私が怒っているなんて滑稽だ。

 彼はキョトンとした表情を見せたが、やがて頬を緩ませた。


「花恋お嬢様は既に悪いことをしたと分かっているのに、わざわざ怒る必要なんてありません。さ、風邪を引いてしまいますよ」


 そう言って、不知火は私にタオルを掛けた。ふわふわしてて、石鹸と陽の匂いがするそれを、私は握りしめた。


「あの~……」


 突然投げられた声に、思わず肩が跳ねる。柵の外からこちらに声を掛けてきたのは、足元がおぼつかない老婆だった。私が返答をしようと前へ踏み出したが、視界が不知火の背中で覆われる。


「不知火…?」

「いけませんお嬢様、そのようなお姿を人目に晒しては…」


 彼に言われて、自分が今水着しか着用していない事実に今更気付く。慌てて老婆に背を向けてタオルで身を隠す。


「私の物で恐縮ですが…こちらをお使いください。暫く後ろに隠れていてくださいね」


 不知火は自身の上着を差し出すと、私にそっとかけた。シトラスと甘い香りが鼻孔をくすぐる。それに袖を通して上半身を隠し、タオルで露出されていた脚を隠すことでようやく落ち着きを取り戻せた。


「あの~高梨病院はどこから入れるんでしょうか…? 前もここに来たことはあるんですが、なぜか入り口が見つからなくて…」

「申し訳ございません。高梨院長が半年前に流行り病でお亡くなりになり、病院は閉鎖致しました」

「まぁ……」


 老婆は驚いた声を上げ、俯いてしまった。


「そうでしたか…。残念だわ……ご迷惑をお掛けしました…」


 彼女は頭を下げると、顔を上げることなくそのままトボトボと立ち去って行った。


 父を訪ねてくる患者は、まだ絶えない。生前から優しくて優秀な父は厚い人望があった。彼を信頼して遠方から来てくれる人だっていた。患者達が訃報を聞くとき、みな一様に俯きながら帰っていく。


「掛ける言葉がないのが、嫌ね」


 私では何も出来ない。ただ父を見ていただけの私には、何も。

 視線の先には、陽の光を反射して揺れる水面があった。タオルを取って、その奥の世界に目を凝らす。


「花恋お嬢様」


 不知火の低い声と共に、大きな掌に頬を包まれる。促されるまま目線を彼へと動かすと、どこか寂し気な瞳と目が合った。


「お部屋へ戻りましょう。温かい紅茶を淹れなおします」


 微笑む彼は、瞳の色の理由を言わない。彼は自分がどんな目をしているのか、わかっていないのだろうか。鏡を持ってきて見せてやろうか。でも私だって、どんな顔をしているのだろうか。


「…えぇ、わかったわ」


 逃げてはダメだと言われた子供の顔は、いったいどんな顔をしているのだろうか。





 *  *  *  *




「花恋。今日から一週間後のパーティまで、水連は禁止です」


 ゆったりした朝食の時間は、その一言で戦場と化した。口元まで持っていったスプーンを収め、私は叔母を睨み付ける。


「なぜ、ですか」

「なぜ? 貴女、今度のパーティの重要さを理解していないようですね。どなたが主催するパーティかご存知で?」

「四条家だとお伺いしていますが」

「花恋お嬢様は、四条家のご次男様と結婚なさるのですよ」


 バタンッと木製の椅子が床に叩きつけられる。私が勢いよく立ち上がった衝撃で、テーブルが激しく揺れた。


「そんなの聞いてないわッ!」

「今、申し上げました」

「屁理屈はいらないわッ。私は結婚なんて嫌よッ!」

「お嬢様はもう十七です。結婚は普通ですわ。それに四条家のご子息は代々医師を育成し、病院を幾つも経営しております。結婚すれば、高梨病院は四条家の病院と統合したことにすると言ってましたわ。高梨の名も残りますし、私達も不自由なく暮らせます」


 いつそんな話を進めていたのか、叔母は飄々と言い放つ。高梨家の名がどうのと言うのは口だけで、己の保身しか考えていない。私は声を荒げた。


「嫌と言ったら嫌ッ! 私の結婚相手を勝手に決めないでッ!」

「じゃあ、どうやって高梨家を守るのですか?」


 全く動じない、だけど威圧を感じさせる叔母の声にグッと喉が詰まる。

 十五のお前に何ができるのかと、その目が言っている。私は零れていた紅茶に視線を落とす。


「四条家の機嫌を損なわせないよう、ダンスや教養を徹底的に磨きなさい。暫く、あそこは封鎖しておきます」


 ご馳走様でした、と叔母は手を合わせて席を立った。メイド達がおどおどしながら倒れた食器を片す。私は彼女たちの人生も左右するのだ。我儘は通らない。


「うるさいッ!」


 勝手な事を言う叔母も、それに逆らえ切れず内心だけで騒ぐ私も、煩い。

 私は大股で自分の部屋に戻った。


 ベッドに勢いよく体を投げ出す。枕に顔をうずめながら、どうすればいいのか必死に思考を巡らせる。よく知りもしない相手と結婚するなんて嫌だ。だけど私やここに住む人たち、高梨家を守るにはその方法しかない。それでも声を上げられないのは歯がゆかった。


「花恋お嬢様、アールグレイとスコーンをお持ちしました」

「女の子の部屋にノックなしで入るなんて、いい度胸ね」

「こういった時、お嬢様はいつも入れてくれないので勝手に入るようにしています」


 確かに、彼は私が怒っていたりイラついていたりするとノックをせずに部屋に入ってくる。入ってもいいかと聞かれても、性分的に嫌だと言ってしまう。が、私を一人にしておくという選択肢はないのか。


「朝食が途中だったので、お腹が空かれているのではと思いまして」

「そんな気分じゃないわ。わかるでしょ」

「では紅茶だけでも如何ですか? 温まりますよ」


 私は顔をしかめながら上半身を起こした。ベッドの縁に座って、不知火を睨みつける。


「こういった時、貴方はいつも引かないのよね」

「はい。よくご存知で」


 にっこりと口角を上げる彼の表情には、悪気しか浮かんでいない。ため息を吐きながら、注がれた紅茶に口を付ける。私にとって適量な砂糖はもう入れてある。特に機嫌が悪いときは多めにすることも、彼は知っている。


「…美味しいわ」

「左様でございますか。とても、嬉しいです」


 カップを置き、スコーンに手を伸ばそうとした。が、ふいに手は動きを止める。

 

「…私は、我慢して結婚すべきなのかしら」


 チョコチップの入った焼きたてのスコーンはとても美味しそうだ。だが、食べるなと言われれば我慢できる。私は手を引っ込め、自身の膝に組みなおす。


「お嬢様は、どうしたいのですか?」

「そんなの…結婚したくないに決まってるじゃない。よく知りもしない相手なんか。嫌な奴でも、結婚してしまったら一生一緒にいないといけなくなるし…」

「では、それが答えですね」


 不知火はスコーンの乗ったお皿を、私の前に差し出す。手を伸ばしたくなる好意に、自然と体に力が入る。


「でもそれは、高梨家のためにならない、のよね」

「…高梨家の安泰だけを考えれば、ご結婚されるのが一番でしょう。ですがそれは、誰が幸せになりますか?」

「それは……叔母様も、この家に仕えてくれているメイドの人達も、貴方だって」

「私は幸せではありません」


 圧を感じる物言いに思わず肩を跳ねる。彼のそんな声は初めて聞いた。いつもの笑みはそこにはなく、見据えるような真剣な眼差しが、私を捕らえる。


「私は、お嬢様の幸せを、自身の幸せだと感じております」


 それは、執事としての言葉なのか。それとも不知火としての言葉なのか、私にはわからなかった。

 彼はスコーンを一つ手に取ると、私の口元へそっと運んだ。


「花恋お嬢様が我慢する必要なんて、ありません」


 眼前にあるスコーンと微笑む不知火を交互に見つめ、私は口を開けた。齧ったそれは、やはりとても美味しかった。











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