優しい世界を貴方と共に

繭墨 花音

世界で鳴る音




 ――――バシャンッ――――




 自身が水の部屋へ飛び込む音。その後すぐに、私の聴覚は蓋をされる。空気の泡の音が、耳元を掠めていく。


 ボコボコ、ボコボコ。


 水流が私の体を押し、撫でる。底を目指して入り込んだが、浮力は私を嫌う。いや、私が嫌っているのか。

 そうこうしているうちに、私は水面へと浮き出された。仕方なく仰向けになって浮力さんに従う。


 澄んだ青い空にきらきら照り付ける白い太陽の光。水と光のコラボレーションは好きだが、残念ながら今の体勢では見ることが出来ない。


 ふと、視界の端に黒く細い物体が写る。目線だけを動かすと、そこにはいつもと変わらぬ暑そうな燕尾服を身に纏い、大きな白いタオルを腕にかけてこちらを見ている男が立っている。


 私はまた、頭から底へと沈み込んだ。透き通る水を眺める。暫くするとこの優しい世界は、自然と私に瞼を閉じさせる。

 真っ暗闇。体と世界の境界がゆっくりと淡くなり、広がり、溶けていく。とても大好きな感覚。だがこれは、同時に大っ嫌いな感覚も呼び起こす。



 ―――カチャンッ、カチャ―――



 無数の金属がぶつかり合う音。鋭利な刃物の音。

 おぞましさや吐き気、嫌悪感が胸をざわつかせる。幾分か慣れたとはいえ、微量な気持ち悪さに思わず顔をしかめてしまう。


「花恋お嬢様。休憩のお時間です」


 私が優しい世界から顔を出すと同時に、燕尾服の男…不知火の低い声が飛んできた。もうそろそろだろうとは思っていた。


 近くにあった手すりを掴み、体を無理やり引きずり上げる。浮力さんに完全に見放された結果、自分の体が鉛のように重い。

 緩やかな足取りで、不知火からオレンジジュースを受け取り、用意されていたビーチチェアに座る。パラソルの中は影のおかげで涼しい。ストローに口を付け、喉に流し込む冷たい酸味もまた至福だ。一息、吐く。


「花恋ッ!」


 突然怒号が耳を劈いた。聞き慣れた不快に甲高い声は、常にしかめっ面の叔母だものだ。重苦しい焦げ茶色のドレスを揺らし、彼女はズンズンと近付いてきた。


「貴女はまたレッスンを抜け出してこんな所に…ッ。貴女の父が亡くなった今、この家をいち早く建て直さなければならないのです。一族が一丸となって努めねばならないのに…何度言えばわかるんですかッ?」

 

 何度言えば気が済むんですか、と喉元まで出かかったが堪える。

 父が亡くなって三か月は経っているのに、それを「今」と表現するのは、叔母の時間が止まっているのを意味するのだろう。まぁ最愛の一人息子が死んでは仕方ない。


「まったく…甘えていないで、しないといけないことをしなさいッ!」


 叔母はそう吐き捨てると、満足したのかまたズンズンと来た道を帰っていった。


 私は甘えているつもりなどなかった。

 医者であった父は、流行り病にかかってしまった。だからそう長くないことは半年前からわかっていたのだ。亡くなるまでの二ヶ月は気持ちの整理をつけるのに十分で、最後を泣きわめくこともせず静かに見送れたことを、私は勝手に良しとしている。


 そして元々このプールには、レッスンをサボってまでよく行き来していた。確かに父が亡くなってから往来の回数は少し増えたが、それはこの世界が優しくないからだ。


「今日も聞こえましたか?」

 

 不知火の問いかけに、私は頷く。


「えぇ、バッチリね」

 

 水の中で無数の刃物の音がする。なんて、信じてくれるのは不知火くらいだろう。だから私は彼以外には言っていないし、言うつもりもなかった。


「何の音なのでしょうか…」


 目を伏せて不知火は呟いた。端正な顔立ちが憂いを帯びる。


 親身になって話を聞いて、一緒に悩んでくれる3つ上の彼とは、もう長い付き合いだ。私が産まれてからの17年になる。


 彼は幼いころとても病弱で、よく家に来て父に診てもらっていた。そのうち私と不知火は仲良くなったが、体が落ち着き高校生になると、彼は姿を現さなくなった。そうしてもう終わりだと思っていたが、3年後、彼は執事として帰ってきてくれた。


「何の音でもいいわ。分かっても聞こえることに変わりはないだろうし…気にしたって無駄かもね」


 半ば、諦めていた。不快であるが、それだけを理由に私はあの優しい世界を手放すつもりはない。


 自嘲気味に微笑むと、不知火は眉を下げたまま私にタオルを掛けた。柔らかな素材に包まれる。


「今日は、もう終わりにしましょうか」

「…えぇ、そうね。叔母もうるさいことだし、サボったダンスレッスンの自主練習をするわ」


 肩に置かれた彼の手に自身の手を重ね、私は首を傾げる。


「…お相手願えるかしら?」


 私の誘いを、彼は断ることはない。いつも快く、承諾してくれる。


「はい、喜んで」


 陽の光に照らされる彼の微笑みは、とても綺麗だった。




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