4-8
最悪の朝だった。
ここ数日間おとなしくしていたと思ったら、よりにもよって決勝の朝に襲いに来るなんて。
「ジョーくん」
身支度を済ませ、部屋のベランダに出ていた一華が振り返っては、久丈の苦悩をよそに麗く微笑んだ。背中に昇る朝日が、悔しいくらいに似合っていた。
「行きましょうか」
一華が手の平を下に向けて促す。きっと、紳士のようにお嬢様の手を引いて戦場へ赴くのが正解なのだろう。
けれど、久丈は、
「――はい」
いつかの新兵みたいに跪いて手を取ると、その指にキスをした。
たぶん、一方的にやられて悔しかったんだと久丈は自己分析する。
一華の手が、全身が、ぞくりと震えるのがわかって、それがたまらなく嬉しかった。
してやったり。
「……ジョーくん、ずるいわ」
「はい」
「今日勝てたら、ご褒美くれる?」
「考えておきます」
「うん。楽しみ」
見上げると、満足げに頷く一華がいた。嬉し笑いを隠しきれない、おもちゃを喜ぶ女の子みたいな顔をしていた。珍しいと久丈は思う。お嬢様の顔じゃない。でもこれもまた、一華の素顔であるような気がした。
少しづつ一華を知っていく。クラス・トランスが大好きで、生徒会副会長で清楚で可憐な仮面をかぶり、その実、ドMで変態で痴女だけど、歳相応の女の子みたいな顔もする。
もっと知りたいと思った。
跪いた久丈の横を一華が通り過ぎる。それを肩越しに見て、久丈も立ち上がった。
威風堂々と歩く一華お嬢様の後ろを歩き、最上久丈は部屋を後にする。
彼女の隣で、共に戦うために。
☆ ★ ◇ ◆
決勝戦の転送は、校庭のど真ん中で行われる。
なぜって目立つからだ。
帝国屈指のクラス・トランス養成校である葉桜冠装学園。そのトーナメント決勝戦といえば熱心なファンでなくても注目する。馬鹿でかい校庭に設えられているのは、大量の客席といくつもの巨大モニターだ。これまでの試合もネットで映像配信されていたが、決勝戦はより近くで、より大勢で観戦できるよう、学生はおろか一般人から著名人、政府関係者のお偉いさんまで呼び込んだ大規模会場での一大イベントとなる。
まるで野球場でコンサートを開くかのように設営された大きな舞台の中心に、久丈と一華、王城と蘭子が向い合ってその時を待っていた。満員御礼の客席からは彼らに向けて万雷の拍手と声援が送られ、その様子を各所にある巨大モニターが映している。会場の来場者数は三千人で、インターネットの生放送中継の視聴者数は一万人を超えた。
緊張で嫌な汗が吹き出した。久丈はあらためてこの競技の人気の高さを肌で実感する。隣にいる一華を見ると、彼女は堂々たる表情で遥か彼方を見据えている。入学式の挨拶を思い出す。
視線に気付いた一華が久丈を見る。彼を勇気づけるかのようにかすか頷いたが、久丈はあれ、と不思議に思った。いつもと様子が違うように感じたのだ。
「――皆さん、ようこそお集まり頂きました。第九十回葉桜冠装学園・一学期トーナメント決勝戦、実況を務めますは三年、桶川桜子でございます! どうぞよろしく!」
舞台上の実況席では、司会進行役も兼ねた女子生徒が決勝に残った久丈達プレイヤーを紹介し、それに合わせてモニターにはこれまでの試合の様子を編集した四人の映像が流れた。
「解説はもちろんこの方、『東洋の魔女』『破壊の歌姫』『セイレーン』『スターライト』など数々の異名を持つ現役国際A級クラス・プレイヤーにて葉桜冠装学園は学園長――」
「よろしくお願いします。四人とも、良いバトルを期待するわ」
解説役で呼ばれた学園長が実況の桜子と見所やら何やら話し始める。久丈の違和感は拭えない。膨らんでいく。一華の様子がどこかおかしい。いつも通りに見えるけど、なにかおかしい。
試合開始、一分前。
両チームは舞台の端にある転送魔法陣の後ろに立ち、カードを手にして
帝国でも有数の学生魔術士が集まる葉桜冠装学園。その上位四名が一斉に唱えた。
「
粒子が舞う。肉体と精神が作り変えられ、喪われた魔術を再び身に纏った
会場から一層大きな歓声が上がった。
反対側にいる王城たちはクラスに変更はないようだ。魔道士と盗賊の武装である。
久丈もいつも通りのタキシードだが、デザインが少し違う。決勝用のとっておきである。
その肢体のためか最も注目されている一華の方は変わらずで、露出度の高いアラビアンナイト風の際どい踊り子服に、ふわりと浮くように纏う天の羽衣。口元を覆うカーテンマスクの色が黒くなっていて表情が分かりづらいが、大した変更でもない。
「ねぇ、ジョーくん」
マスクに顔を隠した一華が、隣でぽつりと言った。
「この三ヶ月、本当にあっという間だったわね」
思い出すように話し始める。
「私は、あなたと出会えて良かった。こうして、王城と正面から戦える所まで上がってこられるなんて、思いもしなかった」
前を向いたまま答える久丈。
「僕もです、一華先輩」
「――一つだけ、お願いがあるの」
その声がやたらと寂しそうに聞こえ、久丈は驚いて振り返る。さっきまでの堂々とした表情はどこへ行ったのか。珍しく顔を曇らせた一華は、久丈を見ずに続けた。
「もし、今日負けたら……私と一緒にこの島から、逃げて、」
そこまで言って、我に返ったように口をつぐむ。久丈を振り向いたときにはもう、笑顔だ。
「ごめんなさい、なんでもないわ」
違和感の正体がわかった。
このひとは不安だったのだと、久丈はやっと気が付いた。当たり前だ。これから始まる試合で負けたら、一華は大嫌いな男と結婚し、クラス・トランスを辞めさせられ、この先の人生すべてを他人に支配されてしまうのだ。軍事力の要といっても差し支え無い『
この試合で負けたら、一華には正規の手段で抗うすべはない。
だったらもう、逃げるしかない。
一華は笑う。
「試合前に変なことを言っちゃったわね。気にしないで。勝てばいいのよ」
「一華先輩……」
「ジョーくんを、」
一華は俯いて、自嘲気味に笑う。
「これ以上、巻き込むわけにはいかないわ」
カチンときた。
ここまでさんざん一緒に練習してきて、決勝まで戦ってきて、今さら何を言う? そもそも最初に首を突っ込んだのは自分の方で、
困ったように笑う一華が追い打ちをかける。
「それにあなたには、瑛美さんがいるものね」
またカチンときた。
目まぐるしく思考が流れる。なぜここで瑛美が出て来る? アイツのことは確かに好きだったけど今は関係ないだろう? 瑛美がいようがいまいが、双刃一華に「一緒に逃げて」と頼られたら自分は決して断らな――。
そこまで考えて思い至る。
わざとか?
わざとそんなことを言っているのか?
煽っているつもりか? と久丈は思う。いいだろう、乗ってやる。でも、あなたの思い通りにはならない。僕も行きます、だなんて、絶対に言わないからな。
「一華先輩は、一緒に、逃げて欲しいんですか」
顔だけでなく、身体ごと一華に向けて、久丈は尋ねる。身長差で思いっきり見下して。
「じょ、ジョーくん……?」
ほんの少しだけ怯える一華は震えた声。
それが久丈の被虐心に火をつけた。
「嫌です」
「――へ?」
生まれてこのかた、出したこともないような冷たい声で、刺した。
「もし負けたら僕は毎日あなたの顔を見に行きます。瑛美と一緒に見に行きます。そうやってあなたを虐めます。来る日も来る日も瑛美と二人でイチャつく所を見せに行きます。王城の仕打ちが生ぬるく感じるくらい虐めて苛めてイジメ抜いてあげます。良かったですね――」
呆然と立ち尽くす一華は久丈の言葉に声も出ない。固まるその手を取って跪き、
「毎日、ゾクゾクさせてあげますよ」
キスをした。
手に口付けは今朝もやった行為だ。けれど、と久丈は思う。お嬢様、この場所で、この状態で、この瞬間にすることに意味があるでしょう?
「一万三千人に見られながら裸みたいな格好で年下の後輩に
凍り付いたままの一華の指が、ぴくり、と動く。絶対に離さない。久丈はトドメをさした。
「――この変態が」
見上げるなんて生易しいものではなく睨みつけた。思い切り、下から、その瞳を。そうして目が合った――否、合わせた。
――目を逸らしたら殺す。
そんな呪いを込めて。
目の前にいる女性が喉の奥で何か音を漏らしたを久丈は確かに聞いた。一華の、ひっ、という声を、身体が勝手に上げる小さな悲鳴を。そうして動物的な本能から逃れようとするその手を、決して離さず手錠のようにその場に拘束した。
今この瞬間、この
そうして悟った。自分が今、ゾクゾクしていることに。
そうして悟った。結果的に、自分が開発されたことに。
一華の瞳に『何か』が押し寄せてくるのがわかった。それは現状認識の波で、現実の波で、それが引いて戻ってきたということは、彼女にも久丈と同じ情動が生まれるということで――。
――にたぁ。
……………………………………………………………………………………笑った。
マスクと黒髪で顔が隠れていて、心から良かったと久丈は思った。
とてもネットで生放送できるような表情じゃなかった。ヤバかった。欲望丸出しの顔で笑ってた。こんな美人のこんな顔を見たら、帝国中の紳士が一年はお世話になってしまうのではないか。健全な青少年に死ぬまで消えないトラウマを植え付けてしまうのではないか。そんな懸念さえあった。
「……ジョーくぅん」
彼女が望むものを、望外の形で叶えることで、叱咤激励しようとしたのだが――やりすぎた。
やりすぎちゃった。
やっべ。
「ヤバいね、それ、ヤバい……。最高。最高だわ、それ。ヤバい、ヤバい、ヤバい……へへ、へへへへへ」
目がキマってる……。
ヤバいしか言ってないよ、この人……お嬢様なのに……。マジやべぇ……。
肩を持ってがっくんがっくん揺らしてみる。
「い、一華先輩、戻ってきてください! ぜんぶウソですから! 僕、そんな酷いことしませんから! あなたを連れてどこまでも逃げますから!」
うぇへへ、と涎を垂らしながらしかし一華は戻ってこない。
「もうこれ、いいんじゃないの、負けちゃって。なんかもう、どうでもイイんじゃないの?」
そのとき無情にもカウントダウンが開始された。実況席を振り向くと、学園長が「やれやれ」といった様子で首を振っている。カウントがゼロになれば魔法陣から転送が始まり、試合場に移動した時点で決勝開始だ。もちろん転送されなければ不戦敗になる。
あと五秒しかない。
「一華せんぱぁああああい! 帰ってきてくださいぃぃぃぃ!!」
「うへへへへへ。ジョーくんに逆襲されちゃったぁぁああ」
ラリってる一華をとりあえず魔法陣の上に乗せて、心肺停止状態の重傷者にするように久丈はなおも呼び続ける。
「一華先輩、先輩、始まっちゃいますぉ! 決勝戦! 勝つんでしょぉがぁ!?」
ガクガクガクガク。
「もぅらめぇ、立ってらんないのぉお」
二秒。
こりゃアカン。
「戻ってきたら目隠しして縛って公園散歩してあげますからああああ!」
「ほんと? じゃあ頑張る」
一秒。
「行くわよっ、ジョーくん!」
「何なんだよぉ!」
転送開始。
ドMなお嬢様と、そのパートナーが、自らの運命を変えるため、粒子となって飛び立った。
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