第39話 その3「狂気の笑み」

 司の目に映る少女は、拳を血が滲むのではないかというほどまで握りしめ、歯を割れそうなほどギシギシと軋ませ、異常なほどの憤怒に顔を歪ませ、枯れることを知らないほどに涙を流しながらひたすらに悪魔を睨みつけていた。


「あいつが……華歩の家族を?」


 この数回のやり取りで事情を察知したアスモデウスは、嬉しそうに笑い声を上げる。


「ヒャハハハハ!! そうかそうか! 通りで悪意が強いわけだなぁ! なぁ!? 人を殺してりゃあ俺様が取り憑くには充分な悪意なわけだ!」


「何を……っ! 何を言ってるの! お前が……お前が殺したんじゃ……」


 華歩は、今目の前で笑っている男の人格が、悪魔によって乗っ取られていることに気づいていない。自分の中で噛み合わない悪魔の返答に、華歩は戸惑いを見せる。


「華歩! 今、あの男は悪魔に取り憑かれていて自我がないんだ。だから、あいつに何を言ってもきっと――」


「そんなの関係ない! 私の家族を殺したのはあいつ! それは変わらない!」


 司の言葉を喰いとるように叫び声をあげる華歩を見たアスモデウスは、自らの体を抱き締め快感に浸る。


「あぁ……イイッ! スゴくイイッ! 素晴らしい……素晴らしい殺意だ!」


 そう言って華歩を見つめる悪魔の視線を遮るように、小さな天使が割り込む。


「華歩には、指一本も触れさせんぞ」


「待っててくれ華歩。今、あの悪魔を倒してくるから」


「……なら、あの男もそのまま殺して」


 華歩は、冷たく返事をした。


「……え?」


 動揺した司が振り返ると、涙を流しながら華歩が必死に訴えかける。


「あの男を、悪魔と一緒にこの世から消して! あの男を、一秒でも早く地獄に落として!」


「それは、出来ん相談じゃぞ。華歩よ」


 冷静にそう告げる導華の声を聞いて、華歩は言葉を詰まらせる。


「なん……で」


「罪を犯したのなら、その罪を償うべき責任がある。無意味に、命を殺めてはいけないんじゃ」


 導華は、天使である。人を導き、人を助ける。そのために戦う天使である。


 しかしそれは、「天使の思考」である。


「それなら、死んで償えばいいじゃない! あんな奴の命なんて、生かすだけ無駄でしょ!?」


「ワシは、天使じゃ。だから――」


「私は、人間だよッ!」


「華歩……」


 梁池やなち華歩かほは、人間なのだ。その思考回路の根本は、天使と相容れない。普通の人間である華歩は、天使のように綺麗に生きることなんて、できない。


 泣き叫ぶ華歩の言葉には、ぐちゃぐちゃに混ざった様々な感情が籠っていた。


 その華歩を、恍惚とした表情で悪魔は見つめる。トロンとした目元は、まるで薬物を使っているようで。


「あぁああ……。たまらない。たまらないなぁ。なぁ!? 素晴らしい……。美しいまでに、醜い感情だ」


「うるさい! 人殺し!」


 華歩の言葉を聞いて、悪魔は不敵な笑みを浮かべる。そして、先ほどとは別の雰囲気を纏って声を出す。虚偽に塗れた、冷たい声を。


「そうだ。僕は人殺しだ。お前の家族を殺した、人殺しだ。お前の憎しみを喜ぶ、人殺しだ。……なら、お前はどうする?」


「……殺してやる」


 短く呟いた華歩は、拳を握り走り始める。


「華歩! いかん!」


「誰もお前を殺さないのなら、私が今ここで殺してやる!」


「待て! 華歩!」


 突然走り出した華歩への反応が遅れた司と導華は、慌ててその背中を追う。


「そうだ。おいで。おいで。黒く深い、闇の淵まで」


 飼い犬を呼ぶような甘い声で、アスモデウスは華歩を引き込もうとするが、その間に天使が割って入る。


「ダメだ! 止まれ華歩!」


『華歩さん! 自分を見失ってはいけません! 止まってください!』


 司と片穂は声を上げ、手を大きく広げて華歩の行く手を阻む。しかし、華歩は走る足を止めるつもりなど毛頭無い。


「司くん! そこからどいてッ!」


 そして、天使に華歩は躊躇いなく突っ込む。


「司! そのままではいかん!」


 導華の言葉が聞こえた瞬間に、司は思い出す。司ほどに天使の力への適性がある人間でないと、『天使は人間に物理的な干渉が出来ないこと』を。


「あ……」


 煙の中を走るように、華歩は司の体を突き抜ける。そして、真っ直ぐに悪魔へと走り続ける。


「華歩ッ! 止まれ!」


 華歩の目の前に降りた天使は、一気にその姿を人間へと変え、華歩を止めようとするが、


「邪魔を、しないで!」


 天使ではない導華の華奢な体では、全力で走る少女のタックルを防ぐことさえ出来ない。非力な少女のタックルで、導華は弾き飛ばされる。


 華歩は少し体制を崩したが、すぐに立て直し再び走る。


「勇太を、お母さんを、お父さんを……返せぇええ!!」


 涙を流しながら目の前にまでやってきた華歩に、アスモデウスは優しく囁く。


「その憎悪が殺意が、有り余るほどの負の感情が、僕の力になるんだ。おいで。君のその負の感情、全部僕のものにしてあげる」


「させるかよぉ!」


 華歩が悪魔の元へ辿り着く前に、司は剣をアスモデウスへと振り下ろすが、


「そこまで、だよ。――【蛇陰じゃいん巨壁きょへき】」


 突如として、今までよりも数段上の大きさの盾が突然展開された。球形の盾が広がる勢いで、司は遠くへ吹き飛ばされる。


「なっ……!」


「僕の、力を存分に込めた盾だ。滅多にこれは使わないんだけど、こんなにいい『器』を見つけたんだ。易々と手放したりするかよ」


「させんぞ! 【破壊之光弓】!!」


 もう一度天使へと姿を変えた導華は、光の矢を盾へと撃ち込むが、その盾に傷が入ることはない。


「クソッ! クソォ!」


 司も必死になって盾を剣で切り続けるが、一段と堅くなった盾は微動だにしない。


 器用に盾を操作していたアスモデウスは、綺麗に華歩のみを盾の中へと招く。誘い込まれていると分かっていても、華歩は殺意を抑えられない。


「ああぁぁあああああ!!!」


 アスモデウスへ勢いよくぶつかろうとする華歩の首元で、素朴なペンダントが優しい光を放ち、華歩の周りに光の盾が展開された。しかし、


「こんなちっぽけな盾が、僕に効くわけねぇだろうがよォ!」


 アスモデウスはいとも容易くその盾を破壊した。


「死ねぇええ!!」


 それでも、華歩は止まらない。

 そして、入り込む。

 深い闇の、その中へ。


「ようこそ。僕の……深い深い、闇の中へ」


「ぁ……」


 瞬間、アスモデウスの『器』から大量の闇が溢れ出し、そのまま華歩のことを飲み込んだ。


「……華歩?」


 盾の中で広がり、司たちの視界を隠していた闇が、徐々に晴れていく。否、華歩の中へ消えていく。


 アスモデウスが取り憑いていた『器』である殺人犯は、意識がないのか、その場に倒れていた。


 そして、唯一ふらふらと立っているのは、闇に身を包む、一人の少女。


 先ほどまで来ていた普段着は、いつの間にかまるで悪魔が羽織るような黒が基調の衣に変わっていた。その禍々しさは、まさしく悪魔そのものだった。


 そして、静かに下を向いて佇む少女が、ゆっくりと口を開く。とても少女とは思えないような、薄気味悪い笑顔を浮かべながら。


「ヒ、ヒャハ……」


 その声は間違いなく華歩の声。しかし、その声に籠る何かが、二人の天使の背筋を震え上がらせた。


「嘘……だろ?」


「間に……合わんかった……ッ!」


 そして、悔しそうに地面を殴りつける導華の正面に静かに佇む少女が、勢いよく顔を上げ、甲高く声を上げた。


「ヒャハハハハ! アヒャハハハハ! 素晴らしいィ! 素晴らしい『器』だなぁ! なぁ!? なんという快感ッ! 興奮が……興奮が止まらないよォ!」


 先ほどまで戦っていた悪魔と同様に歪んだ表情で笑い声を上げる少女の姿を見て、天使たちは息を詰まらせる。


「……ッ!」


 ゆっくりと悪魔の笑いが収まっていくと、『強制契約』から解放された殺人犯を、悪魔は冷たく見下ろして、


「安心しなよ。この男も、君の望み通り、あいつらを殺した後に殺してあげるからさ」


 少女は無慈悲に男を蹴り飛ばすと、体を捻り手を広げた。そして、天使たちを見つめて、悪魔は口を開く。


「さぁ……これからが本当の、第二ラウンドだなぁ。なぁ?」


 白目すらも全て漆黒に染まる双眸を限界まで見開いて、梁池華歩アスモデウスは狂気に満ちた笑みを浮かべていた。

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